メディア論の始祖とも評されるマーシャル・マクルーハンは、かつて電信のテクノロジーが生まれたときに“人間の神経の拡張”と称していた。車は足の拡張、城壁は人々の皮膚の外化、そして電信によって中枢神経系が人間の外側に据えられた、と。
今回、AI=人工知能についての特集として「Humanity expanded by AI」というテーマが掲げられたときに、マクルーハンが言っていたメディア論を思い出していた。そして、AIによって人間性が拡張される、つまりAIと人間性について考えたときに、真っ先に思い浮かべたのは2001年に公開された映画『A.I.』だった。
20年以上前に想像した人工知能
では、なぜ映画『A.I.』について言及するのか。
まずひとつに、真正面から“人工知能”というタイトルを掲げていることが理由としてあげられる。いうなれば、人工知能という言葉自体がまだ一般的に浸透していたわけではなく、趣向を凝らした映画のタイトルとして採用されるような響きがあったと考えらからだ。
2001年といえば、まだ“シンギュラリティ”といった言葉も知られていなかった。さらにいえば、2024年現在、映画をはじめとする創作物に『AI』なんてタイトルを(ましてや人工知能というそのままの意味で)つけることはないだろう。
そうした背景を元に、AIと名付けられた作品について向き合うのは価値があると思い立ったわけである。
もうひとつ理由をあげるなら、これが20年以上前に作られた作品であること。さらに、この20年のあいだに情報やテクノロジーがさらなる発展を遂げ、新たなAIブームが正に今現在起こっていることがあげられる。これは作品そのものより外的要因であるものの、巨大企業やソーシャルメディア(これ自体もこの発展の中に含まれるが)、ワイドショーに至るまで“AI”が取り上げられている今を生きる私たちが、20年以上前に人工知能がどのように想像されたのかを考えるのは価値があると思える、というわけだ。
人工知能そのものはそれ以前からあったとはいえ、今とはそのイメージや捉え方が違ったであろうことは容易に想像できる。20年以上前には想像できていなかったであろう人工知能のイメージと、生成AIなどに触れた私たちが今となっては想像できなくなっているかもしれない人工知能のイメージ、そうしたなにかがある...かもしれない、と。
そして最後に、人工知能と人間性という相互関係をこの作品に感じることもあげられる。人工知能と人間性、あるいは人工知能の人間性といったテーマをこの作品がある程度保持しているからだ。
こうしたことを前提として置きつつ、映画『A.I.』を見つめていきたい。そして願わくば改めてこの作品を観てほしい。
映画『A.I.』という作品
さて、この作品を観たことがあるという方もある程度いると予想するが、改めてストーリーをおさらいしたいと思う。簡易的だが、筋書きは以下のようなものである。
とある夫婦のもとに、高度な人工知能を持ち、人を愛することができる少年ロボットのデイヴィッドがやってくる。妻であるモニカはデイヴィッドを愛そうとともに過ごし始めた。が、意識不明だった実の息子が回復したことをきっかけに、次第にロボットと人間の間にある溝が深くなりデイヴィッドを捨ててしまう。
それでもモニカに愛されたいと願うデイヴィッドは、クマのおもちゃのテディと男娼ロボットのジョーと出会い旅に出ることに。
デイヴィッドはとある街で“本物”の人間になるためには「夢の生まれる場所」を目指せばいいとわかり、新たな一歩を踏み出し始める。
ストーリーとともにこの作品の概要も補足しておくと、『A.I.』はかの有名なスティーヴン・スピルバーグが監督であり、さらに元々この企画のオリジナルはスタンリー・キューブリック、という豪華な制作背景を持っている。公開が2001年というのも、なんらかの意図すら感じられる。
劇中にも登場するが、童話『ピノキオ』が作品全体の大きなキーワードにもなっていることも留意したい。つまり、思考する非人間的な存在が苦悩して本物の人間になろうと奮闘する、というテーマに沿ってデイヴィッドは前に進んでいくのである。

思考する人工知能という認識
さて、ここからは実際に映画を観て感じたところから『A.I.』という作品と向き合っていく。ストーリーの核心部分に触れる部分もあるので、そのあたりはご容赦願いたい。
この作品の重要なポイントのひとつとして、ロボットであるデイヴィッドは、最新の技術と高度な人工知能によって見た目も振る舞いも一見人間と見紛うかのような存在として描かれ、愛情と夢を持つことができるという点があげられる。つまり、人間のような肉体と人間のような思考を持つ存在であることに注目したい。
この存在の立ち位置のようなものは、現在のAI像とは異なっている。「人工知能」「AI」というタイトルがついた書籍(特に「入門」や「よくわかる」といった実用書)では、大抵人工知能の歴史が言及され、そのなかでは人工知能という分野が1950年代ごろから始まっていて、第◯次AIブームといった変遷があったことが記されていることだろう。さらにいえば、人工知能が元々人間の意識といったものの研究として始まったことも言及されている。
そして現在、私たちが認識するAIとは情報技術において高度な計算能力を用いてデータの入出力を行なう計算機的な知能を意味するといってもいいだろう。それを踏まえて、劇中で語られる人工知能とは私たちのいる現在地よりさらに先に存在するものと考えられる。
『A.I.』の世界ではデイヴィッドのほかに、決められた入出力を繰り返す家事ロボット、自律型ではあるが基本的にはプログラム通りに動く男娼ロボットのジョー、データベースからチャットボットのように答えを出すドクター・ノウといったさまざまなレイヤーの人工知能が登場する。なかでもドクター・ノウなどは現在の私たちが知るチャット型AIのように感じられる。その上で、人間のように思考する人工知能として、あるいは特異点としてデイヴィッドというキャラクターが存在しているのだ。
現実の計算機的な人工知能と未来的なの実存的な人工知能がさまざまなレイヤーの人工知能の姿を通して描かれているのが非常に興味深い。
現実の時間で20年以上の時を経た現在この映画を観ると未来のようにも感じるが、一方でやはり古いようにも感じてしまう。このような入り組んだ認識のギャップ自体が、この作品を観る価値だと思えるのだ。技術的に発展した2024年に生きる私たちが、改めて人間の意識や思考と肉体を持つ実存的な人工知能を想像できるのだろうか、と。

今改めて観ることで感じる“本物になること”
先に述べたような人工知能への認識のギャップが、技術発展した現実世界を生きることで感じる外的要因だとすれば、今改めて観ることで個人的な内的要因によって感じることもある。
公開当時、私自身小学生であり、ファンタジーのようなキラキラした映像と人を愛する少年ロボットの冒険という筋書き、デイヴィッドを演じるハーレイ・ジョエル・オスメントの不思議な魅力も相まって、少年ロボットに対し感情移入したことを覚えている。デイヴィッドが温かい光に包まれながら「夢が生まれる場所」へと行き着く姿に感動したのだった。しかし、今現在改めて観ることで、この作品の持つ物悲しさがこびりついて離れなかった。
それはなぜかといえば、少年ロボットのデイヴィッドが願う“本物になる”という願いが叶わないことと感じたからだ。おそらくほぼすべての登場人物、さらには観客もそれをわかっているだろうということである。しかしながらこれこそがこの作品の肝ともいえる部分であり、そこに都合の良い奇跡は存在せず、無機から有機への転化は叶わない。
今回観たことで、デイヴィッド少年だけでなく、すべての事象を俯瞰で見ているような気分だった。
そのなかで廃棄される家事ロボットやデイヴィッドの旅を途中で止めようとするジョーといったさまざまなレイヤーの人工知能、そして本物の人間であるモニカやその息子のマーティン、こうした登場人物のすべてが捉え方の差こそあれ、それが不可能であることをはじめから理解している。そして、前に進むデイヴィッドだけがそれを知らないのだ。
特に、ドクター・ノウに目指すべき場所を聞いた後にただただ前に進もうとするデイヴィッドとそれを止めようとするジョーのやりとりには、なんともいえない物悲しさがある。むしろ人工知能やロボットである自らの運命を理解しながらも生きるジョーこそ興味深いほどだった。その後「僕は生きた! そして消える!」と叫ぶジョーに切ない美しさを感じた。
人間と見紛うほどの高度な知能を持っているがゆえに無垢で無知であるデイヴィッドと、愛や夢を理解するほどではないものの自分を含めた人工生命の使命をおおよそ理解しているジョー、この2人のキャラクターの対比にこそ本物とはなんなのだろうか、と問うような、あるいは完璧な人工知能とはなんなのだろうか、といったことを考えさせられるのだ。
さて、このように愛や夢を抱き、人間の意識や思考と肉体持つというデイヴィッドのような人工知能はいつか生まれるのだろうか。今もなおブラックボックスである人間の脳が解明されたらそれは可能なのだろうか、あるいは愛や夢といったものの数学的な定義は可能になるのだろうか。
いつかそのような人間の意識という意味での人工知能が生まれる未来があるとして、それは“本物”になっているのだろうか、そうしたことを映画『A.I.』から考えさせられたのだ。人間のような無垢さを持つのか、人工知能としてのアイデンティティを持っているのか、そこにある人間性とはどんなものだろうか。そしてそのとき(あるいは今現在の)を生きる私たちの人間性とはどうなっているのだろうか、と。
新たなブームによりAIの現在地を知る私たちが、「AI」と名付けられたこの作品を観ることでうなずいたり、首をかしげたりすることも多くあるだろう。そのなかで人工知能についてどう考えるのか、ぜひとも聞きたいものである。
Top Image: K.Yoshioka - Generated with Midjourney
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