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4 #移民とカルチャー

フランスのヒップホップ/ラップは、如何に「移民」というアイデンティティと向き合ってきたのか? その30年以上の歴史を俯瞰する

ARTS & SCIENCE
コントリビューター小林雅明
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フランスでその地位を確立しているヒップホップ/ラップと移民の関係

今回の特集のテーマ「移民/マルチカルチャー」に沿って、フランスにおける音楽と移民との関係およびその変遷について書いてください、というのが編集部からの要望だった。それなら、昨今フランスでもっとも人気のあるジャンルでもあるラップ・ミュージックを生んだ、ヒップホップについて触れておかねばならないだろう。フランスでは、ストリーミング・サービスの普及によりUSでラップ人気が表面化するよりずっと前から、ヒップホップ/ラップは、人気のある=実際に売れているジャンルとしての地位を確立していた。

2019年現在、フランスでもっとも人気のある音楽アーティストは、兄弟ラップデュオ、PNであるし、また、彼らがブレイクした2015年には、フランスのラップの目立った動きとしては「アフロ・トラップ」の登場があった。メインストリームで大きな成功を収めたこのふたつについて語ろうとするときでさえ、「移民」という観点を避けて通るわけにはいかない。「アフロ・トラップ」は、ラッパーのMHDが、2015年の“AFRO TRAP Part.1”を皮切りに、街角で彼とその仲間たちのパフォーマンスをサクッと撮影し、YouTubeにコンスタントにアップロードされ、シリーズ化されていった。

MHD - AFRO TRAP Part.1 (La Moula)

「アフロ・トラップとは、今現在のアフリカのビートとアクチュアルなラップ」を組み合わせたものだと、YouTubeでの再生回数が爆発的に伸びた2016年にMHDは説明している。トラップとは言うものの、アメリカのアトランタ界隈のそれを直接的に指しているというよりは、「いまどきの活きのいいラップ」くらいのニュアンスだろう。

フランスにおける移民政策の変遷――「出稼ぎ」から消極的な「定住」へ

ここからさらに「アフロ・トラップ」をみてゆくとなると、というか、そもそも、フランスのヒップホップの概略なり概要なりを語る際、切り離すことができない事項が「移民」だ。一口に「移民」と言っても、フランスの場合、時代によって、その定義が変わってしまうため、ややこしい。

まず、大前提として、現在のフランスそのものが移民や外国人の流入によって形作られた国家である。なにしろ、1851年の段階で「フランスで生まれた外国人の、フランスで生まれた子は、自動的にフランス国籍を付与する」ことが法に盛り込まれていたのだ。それが1945年10月には「両親がフランスで生まれていない外国人であっても、フランスで生まれた子が成人した場合に、自動的にフランス国籍を付与する」と緩和される。

その後数年で、戦後復興と高度経済成長から深刻な労働力不足に直面する。そこから、周辺国や旧植民地からの移民労働者を積極的に受け入れるようになる。よほど人手が足りなかったのか、本来必要とされる滞在許可証や労働許可を出すのを後回しにしたり、不法入国者にも後から許可を出すなどして、労働力の確保が最優先された。1960年代以降になると、宗主国から独立したアフリカ諸国からも大量の労働者がやってくる。この時点での国と労働者は、移民の目的は「定住」ではなく「出稼ぎ」との認識を共有していた。

とはいえ、これだけ大量の人口移動があれば、住居の供給不足が生じる。そこで、国は工場の立地が多い都市の郊外に低家賃集合住宅(HLM)を急ピッチで整備してゆく。法律上は、国籍を問わず入居できるとされていたが、実際にはフランスの国籍を持つ者が優先され、移民労働者がすんなり居住できるようになったのは、1970年代後半に入ってからだった。

HLMと並行して建設が進められた移民労働者宿泊施設(FTM)では、住環境の問題が一向に改善に向かわなかったため、1968年パリの5月革命に触発されるかたちで、移民労働者たちも権利を主張し声をあげるようになる。

こうした破竹の勢いも、1973年の第一次石油危機をきっかけに一変。翌年、政府は移民労働者の一時的な入国停止措置(当時のEC諸国は除く)を実施する。景気の低迷により失業率が上昇すると、高度経済成長期を支えた移民労働者が、その大きな皺寄せを受けてしまう。一旦母国へ帰ると、労働目的でフランスに再入国ができなくなったため、「出稼ぎ」目的で移民していた者が妻たちを呼び寄せ、フランスに「定住」するしかなくなったのだ。母国に帰って暮らすよりはましだとはいえ、不景気な国に、家族で移民し、定住したのは、消極的な理由からだった。

そして、少数派(文化)の尊重を謳ったミッテランが大統領となり、移民も自らの権利に対する自覚を高めていた1981年には、アメリカから入ってきていたヒップホップ文化が次第に広がりだしていたのだった。

社会的不均衡を感じる「移民」が担い手となった、フランスのヒップホップ・カルチャー

広く知られているように、アメリカでは、ヒップホップはストリートで生まれて、そこから既存メディアへと伝播していった。フランスでは、それが逆だった。まず最初にラジオで不特定多数のリスナーを対象に、シュガーヒル・ギャングの“Rapper’s Delight”が紹介され、1980年2月には総合チャートで最高2位に、45回転盤の売り上げチャートでは首位に立ったのだった。

The Sugarhill Gang - Rapper's Delight

興味深いことに、80年代前半にリリースされたフランスのポップ・ソングと、同時期のアメリカのそれとを比較すると、ラップを積極的に楽曲に取り込んでいる数は圧倒的に前者のほうが多い。しかも“Rapper’s Delight”一曲のインパクトが大きすぎたのか、複数のラップ・ソングを参考にし、ポップに加工するのではなく、ラップというスタイルだけを抜き出し、それをポップ・ソングに組み入れたものばかりだった。

一方、82年には「ニューヨーク・ラップ・シティ・ツアー」と銘打ち、アフリカ・バンバータ、ファブ・ファイヴ・フレディ、フォーチュラ2000等を招いたイベントがパリをはじめフランスの4都市で開催された。これを機に、グラフィティとブレイクダンスに人気が集まる。その担い手の多くがHLMに住む子供や若者だった。フランス国籍の付与が約束されてはいても、例えば、肌の色あるいはHLMに住んでいるというだけで「移民」として扱われ、社会的不平等を感ぜずにはいられなかった彼らにとっての自己表現/自己主張/存在確認の手段としてうってつけだったのだ。

例えば、ニューヨークの地下鉄公団が、長年にわたるグラフィティとの戦争に勝利を宣言した1986年の夏、郊外からパリ市街地に向かう電車の車窓からの景色をかなりの時間埋めつくしていたのがグラフィティだったのは今でもはっきり覚えている。フランスにおける「移民」とは、外国人として外国で生まれた人を指す。と同時に、その人がフランスに帰化して、フランス国籍を取得しても、統計上は「移民」の枠に入れられてしまうという事実さえある。

ブレイクダンスやグラフィティに比べ、実践しにくかったのはラップだった。もちろん、見様見真似でマイクを握る者も出てはきたものの、英語で、あるいは英語のリリックをフランス語に訳してラップをするケースが多かった。

ポップ・ソングのノベルティなアクセントとしてではなく、フランス語でヒップホップ・ミュージックの楽曲として完成させるまでは時間がかかった。

1988年頃になると、リリックをフランス語で書いた曲が完成される。アメリカの場合と違うのは、最初からあらゆる人種やコミュニティに属する人たちに開かれていた点だ。例えば、「移民」を例にとっても、人種は多種多様だ。しかし、日常生活の背景にあった社会的不均衡や差別の顕在化に伴い、そういった社会問題と戦うためのツールへと変化してゆくのも時間の問題だった。別の言い方をすれば、ラッパーとリスナーが向き合うかたちで完結していたものが、ラッパーがリスナーを先導し、自分たちのコミュニティの外側に向けて声をあげるようになる。NTM、アササン、ミニステール・アメールといったグループがその代表となる。いわゆるフランスのラップ第一世代だ。彼らの書いた楽曲が放つインパクトから、90年代初頭までに、レイシズムや差別を公然と告発することが、ラップのリリックの大きな柱のひとつとなってゆく。

Suprême NTM - Blanc et Noir
Assassin - Esclave de votre société
Ministère A.M.E.R. - Brigitte Femme de Flic

MCソラーが示した、「移民」による異議申し立てにとどまらないヒップホップの可能性

ちょうどこの頃、アメリカのヒップホップでは、アフロ・セントリズムが注目された時期だったが、フランスでは、そうはならなかった。

前に触れたように、ラッパーたちの親の代にあたる移民第一世代は、故郷では稼げないため、「出稼ぎ」目的でフランスに出てきたのだ。そのため、親のことを考えたら、母国のあるアフリカをいきなり讃えることもできない。

また、一口にアフリカと言っても、その範囲はあまりにも広く、また、当時の気運では、アフリカを強く称賛することは、フランス国内の反イスラム及び反アラブ勢力を徒に刺激することにもなりかねなかった。

1990年代に入ると、MCソラーの登場により、それまでのポリティカルで粗削りな良さを持つものとは違う、練りに練った言葉を聴かせるポエティックな彼独自のラップ表現に注目が集まる。

Mc Solaar - Caroline

そういった楽曲を通じて、ヒップホップ全体が、より文化的なものとして受け取られるようになり、リスナーの層が広がりを見せ、商業的にも大きな成功を収めるのだった。「移民」による異議申し立てにとどまらないヒップホップの可能性がしめされることになる。さらに、それまでのハードコアとは対極にあるポップなラップ・ソングがセールス的にも健闘するようになる。

アメリカに追従せず、「ヒップホップの命題」に独自の考えで向き合ったフランス勢

そして、90年代も半ばを過ぎると、前述のNTMやミニステール・アメールは、自分たちでレーベルを立ち上げ、ユニークな後進を送り出すことに力を注ぐようになる。特に後者によるレーベル〈サクター・アー(Secteur Ä)〉は、所属メンバーのオリジンを明確に打ち出してゆく。セネガル、カポベルデ、コンゴ、アンティル諸島の国々といったように。

これは、同時代のアメリカのヒップホップのフォロワーでいれば安泰、との考え方とは大きく異なる。単に「移民」した親のオリジンに注目したわけではない。フランスのヒップホップが様々なスタイルをものにしてゆくなかで、自分の日頃の生活を見直し、自分はどこから来たのか、あるいは、今現在どこにいるのか、という、ヒップホップ的な基本命題に面と向かう冷静さも体得していたのだろう。

それだけではない。1998年6月にフランスで開催されたFIFAワールドカップで、ほぼ「移民二世」にあたる選手たちで構成された代表チームが、黒人、白人、アラブ系を意味する「ノワール、ブラン、ブール」を旗印に勝利を重ね、地元に優勝をもたらしたことにも大いに触発された。多様性こそが勝因だ、とするポジティヴな意見も頻繁に聞かれるようになる。それはヒップホップの世界でも当てはまる、というわけだ。

アフロ・トラップ隆盛の原点となったビッソ・ナ・ビッソ

翌年の1999年には、〈セクター・アー〉所属アーティストの中から、当時の人気ラッパー、パシィ以下コンゴ共和国にオリジンを持つソロ・ヒップホップ・アクト7組で1997年に結成されたコレクティヴ、ビッソ・ナ・ビッソが第一弾アルバム『Racines』を発表する。

Bisso Na Bisso - Bisso Na Bisso

そこでは、パパ・ウェンバ、カッサヴ、マヌ・ディバンゴをはじめ、70~80年代に自国から遠く離れた海外に自分たちの音楽を広めたアフリカ各国やアンティル諸島の国々からベテラン・アーティストを招き、コンゴのルンバ、スークースを軸に、カリブのズークを含む多彩なリズムとラップとの一体化を実現させた。同時に、リリックでは「移民」にとどまらず、アフリカ諸国の直面する様々な問題も積極的に取り上げ、楽曲全体として新鮮で大きなインパクトを残す。

このビッソ・ナ・ビッソは、フランスのみならず、フランス語を公用語とするアフリカ諸国でも圧倒的に支持され、好セールスを記録した。この16年ほど後のアフロ・トラップ興隆の原点は、ひとまずここにあると言えるだろう。2018年のMHDのアルバム『19』で最初に耳に入ってくるのは、マリのベテランにして、彼が子供のころから聴いていたというサリフ・ケイタの歌声だ。

311/マフィア・カンフリーが強い憤りを露にした移民や郊外に対する差別と、2005年の暴動

ビッソ・ナ・ビッソに加えて、1999年には、もう一組、113というグループがデビューする。これもまた、アルジェリア、フランス領アンティル、マリをそれぞれオリジンとする3人のラッパーで構成されている。彼らの場合、例えば、サウンドにアルジェリアのライを取り入れたりしているし、帰郷なども主題となっている。113からソロに転じたマコベの諸作品も、客演者も込みで、113での活動を継承し、アフリカ色の強い方向性を目指していた。

113 - Partir loin ft. Taliani

彼らが取りあげたようなアフリカ側の「移民」の問題は、2000年代以降、彼らとは直接つながりのない人気ラッパーの楽曲でも聴かれるようになる。

ところが、2005年、10月27日夜、113の3人だけでなく、多くの人たちに“郊外”の問題に目を向けさせる事件が起きてしまう。パリの東郊外のクリシースーボワで、強盗事件を捜査中の警官が、北アフリカ出身の若者3人を追跡。逃げ込んだ先の変電所で2人が感電死し、1人が重傷を負ってしまう。責任は警察にあるとして、地元の若者数十人が警察に投石、駐車されていた車に放火するなど怒りをあらわにした。

その鎮圧に当たった警察側が放った催涙弾がモスクに入り込んだりしたこともあり、一気に暴動の様相を呈し、パリ市内、さらには、パリ郊外の他の地域のみならず、日を追うごとパリから遠く離れたフランス各地にも飛び火。(当時の)内相サルコジが、暴動に加担した若者たちを「ゴロツキ」だの「社会のクズ」などと非難したことが火に油を注いだ。事件発生から連続10日以上にわたり、毎日1000台以上のクルマが放火されるような事態に陥り、非常事態宣言が発令される地域がいくつも出てくる頃には、フランス第3の都市リヨンでも暴動が発生。11月13日になり、シラク大統領が国民に向かって、雇用での差別をなくす新たな制度の成立について、ようやく公言する。

フランス各地でのこの暴動の背景には、フランス国籍を有していながら、移民2世、3世というだけで、就職差別を受けたり、また、それ以前に、主に郊外では貧困や教育機会の不均衡などの不満が鬱積した状態だったことがある。実際、暴動に関わった逮捕者の実に95パーセントがフランス国籍を有する者だったことがわかっている。

暴動の発生した地域が事件前の情勢に戻ったのは、事件から三週間後のことだった。その翌年(2006年)に制定されたのが「移民統合法」だった。これには、移民系住民=暴動のイメージに怯える人々の不安を抑えるねらいがあった。暴動以前の2003年制定の外国人滞在規制法では、非合法移民の取り締まりが強化されたが、「移民統合法」と、それを整備した2007年の「移民制御・促進・庇護法」では、家族呼び寄せ型の移民の抑制についても拍車をかけ、その一方で、経済促進の観点から、技術専門者など国益になる移民は積極的に受け入れる移民選別がさらに促進されることになった。

113の3人に、総勢25名以上のラッパー、ビートボクサー、DJ、プロデューサーからなる大所帯コレクティヴ、マフィア・カンフリーは翌2006年に“Guerre”と題された曲を書いている。「戦争」を意味するタイトルはアグレッシヴだし、2005年の暴動に対する国の態度に彼らは強い憤りを感じている。と同時に、フランスの“郊外”で生まれ育っただけで、わざと無視されたり、差別されたりしているような気がする。しかも、自分たちが生まれ育った国がそうしてくる、そんな納得できない思いを彼らは伝えたかったに違いない。

Mafia K'1 Fry - Guerre

インターネット以降における、フランスのヒップホップとアフリカの位相の変化

とはいえ、ラッパーの世代交代が行われるうちに、アメリカのラップのトレンドに追随するスタイルがまたもや主流となってしまう。そういったスタイルを好む連中が売れれば売れるほど、元はビッソ・ナ・ビッソや113が切り拓いたアフリカでのラップ市場がより拡大し、両コンゴ、コートジボアール、セネガル、ガボン等のプロモーターが、フランスのラッパーのビッグネームを次々に招聘し、大規模な興行を打つようになってゆく。

アメリカのトレンドをなぞるだけのラップでフランスのシーンが一色になってしまえば、当然歴史は繰り返す。そうしたトレンドには与しないことをアピールし、「ヒップホップ」に忠実であろうとする、2002年結成のセクシオン・ダッソーのようなグループも着実にファンを獲得してゆく。

彼らの場合、アフリカ諸国をオリジンとするなど最初から多様性を意識して、コレクティヴとして誕生したビッソ・ナ・ビッソとは異なる。活動を共にするうちにグループを結成した結果、メンバーのオリジンが、マリ、セネガル、コンゴ民主共和国、コートジボワール、ギニア、そして、フランス、だったのだった。

彼らの人気がピークに達する2010年代初頭には、フランスの人気ラップ・アクトが、アフリカの各地市でライヴをするのはすっかり常態化していた。このセクシオン・ダソーも、ツアー先のコートジボアールで、アフリカのリスナーに向けた曲(あたまサビで「分割統治」と出てくる)のミュージック・ヴィデオをきっちり撮っている。

SEXION D'ASSAUT - AFRICAIN

フランス側の「移民」の受け入れについては、様々な条件が付け加えられる一方、始まった頃はパフォーマーもリスナーもアフリカを知らないフランスの「移民」の音楽だったヒップホップが(インターネットの普及およびソーシャルメディアの発達を介し)「移民」の故郷にあたるアフリカを意識するだけでなく、実際にアフリカ諸国の土地で聴かれ、その住民もリスナーとして想定され、愛される音楽となったのである。

メートル・ギムスのアフロ志向の背景にある深い含蓄とは?

このセクシオン・ダソーのメンバーにして、2013年にデビュー・アルバムを発表したメートル・ギムスは、早くもその年フランスでもっとも稼いだ音楽アーティストに認定される。そんな勢いに乗る彼は、MHDの“AFRO TRAP Part.1”が公開される一か月前に、新進のラッパー(で2019年現在、超人気の)ニスカをフィーチュアした“Sapés comme jamais”のMVを発表する。

Maître Gims - Sapés comme jamais ft. Niska

表題にあるサッペ(Société Ambianceurs et Persons Élégantsの頭文字を並べたもの)には「エレガントで愉快な仲間たちの会」などの訳語が当てられている。これは、常夏のコンゴ民主共和国およびコンゴ共和国に於いて、色使いも鮮やかなスーツに身を包み、街を闊歩することで、自分たち、そして周囲の意識を高めようとのムーヴメント(サポロジー)を展開している地元の男たちのことだ。

その起源は1920年代とも言われるサッペは、ここ数年こそ日本のメディアで繰り返し取り上げられているものの、地元では1960年のコンゴ独立以後の動乱などにより、一時忘れ去られ、1974年には西欧のファッションを装うことが禁じられたりもした。

それに挑戦したのが、ビバ・ラ・ムジカを率いてヨーロッパをまわり、1979年に地元に戻ってきたパパ・ウェンバだった。彼も楽団員も、目の覚めるような色使いのスーツをまとい、サポロジーを復活させ、身だしなみや礼儀を整えることによる自尊心向上をアピールした(当時まだザイールだったコンゴでは、レコード店が洋服店を兼ねていたため、一挙両得が狙いだったとの説も)。

このビバ・ラ・ムジカとの活動以前にパパ・ウェンバが確立した音楽が、MHDのアフロ・トラップ・シリーズで省みられることになるスークースや、その進化型にあたるンドンブロであるのだ(MHDの曲には、他にもコートジボアールのクペ・デカレっぽいものもある)。それらの祖型にあたるコンゴ・ルンバも彼は演っていた。例えば、MHDのアフロ・トラップ・シリーズを、ひとしきり聴いたあとに、ビバ・ラ・ムジカの曲をランダムに聴いてみると、「今から30~40年前のアフリカの音楽だから」というのがそれらを「聴かない理由」にはならないことがよくわかるだろう。

そして、メートル・ギムスの父親こそ、ビバ・ラ・ムジカと活動を共にしたこともあるジュナ・ジャナナなのである。ギムスの“Sapés comme jamais”は、2015年の時点で一見しただけでは、アフロ・トラップに乗ってみようとしたのかと思われた(当時ギムスもニスカも、このスタイルの楽曲を「アフロ」と呼んでいたと記憶している)。ところが、実際には、MHDの曲よりもあまりにも含蓄のある曲だったのだ。

スークースのパイオニアを父に持ち、フランスのヒップホップとコンゴ音楽を融合させるユースーファ

このギムスの父親以上の大きな存在として、20世紀のアフリカ史にその名を刻むほどの重要人物で、スークースのパイオニア、タブー・レイ・ロシュローを父親に持つ(ことを後から知った)のが、ユースーファだ。彼はキンシャサに生まれたが、母方の曾祖父がフランス統治下のセネガルで働き、フランス国籍だったため、フランス国籍を保持、9歳でたったひとりでパリ郊外の叔母の元で居候を始めた経歴を持っている。

プロボクシングのアリvsフォアマン戦に迫ったドキュメンタリー映画『モハメド・アリ かけがえのない日々』でも、その姿を確認できるタブーレイは、コンゴと世界各地の音楽との融合を試みた人でもある。そんな父の残した音楽的遺産をはじめ、ユースーファは、サンプルも駆使して、アフリカの音楽を意欲的に、自身の曲に取り込んでいる。また、彼のリリックはコンシャスかつ詩的で、非常に知的で、かのMCソラーから大きな影響を受けたとも公言している。

「移民」という観点からすれば、キンシャサでの誕生からパリ郊外に移り住むまでの経緯もまたかなり特異なケースとなるが、それに加え、約四半世紀ほど前のフランスのヒップホップ、それ以前のコンゴ音楽、そして、アクチュアルな社会問題に鋭く言及したリリック、そのすべてが蓄積されたユースーファの作品はひたすら濃厚だ。

Youssoupha - Les Disques de Mon Père

PNLの曲とデモに集まった若者に共通する、生きるか死ぬかの切実さ

このユースーファの曲が公開された2012年9月、フランス内務省は、国内で治安問題の解決が急務だとする国内15の地域を「治安優先地域」と指定し、警察官の配備などを強化する施策を始めた。対象となったのは、日常的に治安が不安定で犯罪が根付いている、もしくは過去数年間で、治安状況の著しい悪化が見られた地域だった。そこには、パリやマルセイユやリヨンといった都市内の特定の地域とあわせて、“郊外”のシテも含まれていた。

そのひとつには、冒頭で上げたPNLのふたりの地元であり、彼らの人気と共に知られることになるパリ南郊外のレ・タルテレも含まれていた。1961年から建設の始まった地域だが、80年代から90年代には社会環境の悪化や地域住民の30%が失業といった劣悪な生活状態が続き、“郊外”のネガティヴな側面の象徴と化してしまった。

その後、国が改善へとテコ入れするが、PNLは、2016年春にYouTubeで公開され(執筆時現在1億3千万回再生され)たシングル“DA”のミュージック・ヴィデオの半分は、このタルテレで撮影されている(この街の人口の40%が20歳以下だという)。リリックに「俺はモーグリ、俺はシンバ、獣ってことだ」とあるのは、ジャングルのような彼らの地元で生存競争を生き抜く自分は獣に他ならないというのだろう。

PNL - DA

そんな彼らの曲では、哀しみを湛えてはいても、エモは寸止めで、覚めた態度で、達観したところも見せる"郊外"生活者の視点が、オートチューンを効かせたメロディアスでハイファイなクラウドラップ、と形容したいサウンドの中で貫かれている。2015年のブレイクの要因については、コンスタントに発表される楽曲(の謎めいたリリック)とミュージック・ヴィデオしか彼らに関する情報は一切世の中に出さない、そんな極端な秘密主義の徹底も大きかっただろう。

PNLにまつわることで興味深いのは彼らの2015年のブレイク曲“Le Monde ou Rien”が、翌年の3月に全国的な規模にまで拡大した「労働法改正」反対デモ、およびその一環としてパリで夜通し行われたデモ「徹夜」の合言葉として使われたことだ。

PNL - Le monde ou rien

この曲を一曲目に置いた2015年の彼らのデビュー・アルバムのタイトルは『Le Monde Chico』という。映画『スカーフェイス』には、次のような場面がある。トニー・モンタナに「俺は手に入るものなら何でも欲しい」と言われた弟分(舎弟)が「何を手に入れたい?」と訊くと、トニーは「世界さ、弟よ、中身もまるごと全部だ」と余裕で答える。

Scarface "The World, Chico... and Everything In It!!!"

このセリフの一部「世界さ、弟よ/The world. Chico(Chicoは年下の男に呼びかける時に使う言葉)」を表題にしたのだ。そして、「世界を、中身もまるごと全部」手に入れようと本気で考え、「世界はおまえのもの(the world is yours)」と自分自身を狂ったように鼓舞し、敢えてギャング渡世を選んだ移民トニー・モンタナに重ね合わせた。加えて、てっぺんをとるか、おとなしく自分から消えてなくなるという意味合いで、直訳すれば「世界と無」となる“Le Monde ou Rien”を書いたと考えられる。

デモに集まった若者たちにとって労働法の改悪(例えば、会社側は圧倒的に解雇が容易になる!)は、ごくささやかな毎日を生きてゆくうえで深刻な問題だ。それが、イキがって切った張ったの世界で生き抜いてゆくトニー/(売人上がりの)PNLと、どうつながるのかと言われれば、生きるか死ぬかの究極の選択を迫られているは、一般市民も彼らも違いはないのだ。そういった切実さゆえに、サビで「俺は泡の中にいるのか」と歌い出す曲のタイトル“Le Monde ou Rien”が、デモが繰り広げられるストリートでも大きな意味を持つのだ。

「移民」コミュニティを中心としたフランスのラップの豊潤な広がりと、そこに影を落とす不穏な事件

こうして見てくると、「移民」のコミュニティの内輪で最初に火がついたフランスのヒップホップ、特にラップ・ミュージックは、その外側に向かって激しく意思表明をするうちに、あらためて自分自身を見つめ直した。

これは2019年4月にリリースされたPNLの3作目のアルバム『Deux frères』にも当てはまる。彼らの曲によれば、出奔したアルジェリア出身の母親にかわり、ギャングスタでコルシカ出身の父親に育てられたというが、今回はそれが地中海的な音楽要素のみならず、アルジェリアのライなどが彼らのプロダクションにしては大胆に取り込まれている。また、リリックには、アラビア語に加え、コルシカ語も含まれている。

オリジンを知り、そこにある音楽を知り、そこに住む人を知り、少なくとも音楽を通じてということなら、「移民」の母国にあたる場所と、今ほど自由に行き来できる時代はないだろう。フランスから外へ、同時に、例えば、アフリカからも外へ、と音楽は広がっている。

2018年にリリースされたMHDのアルバム『19』は、伝説的な人物サリフ・ケイタに加え、アフリカから外へ向かい、世界的な知名度を獲得したナイジェリアのウィズキッドや、今後さらなるブレイクが期待できるイェミ・アラデ、あるいは、あのメートル・ギムスの弟で、コンゴを拠点に活動しているシンガーのダジュなどの新世代アーティストをフィーチュアしている。これもまた時代の積み重ねから生まれた作品だ。

最後にひとつ残念なことを書き加えなければならない。アルバム・タイトルとなった「パリ19区」在住のMHDは、2019年の年頭から身柄を拘束され、今に至っている。前年に発生した複数が関わった殺人事件に関与した、いや、実行犯だとの報道さえある。ギニア人の父とセネガル人の母とのあいだに生まれた現在24歳の彼は、幼い頃フランス東部の町から、パリ19区に移り住んだ。「アフロ・トラップ」シリーズは、ほぼ毎回最低でもゴールド・ディスクに認定されているほどの人気を維持していた。そんな彼が一体どうしたというのか。彼らのポジティヴな音楽の効果によって忘れさられていたかのような、「移民」のネガティヴなステレオタイプのイメージに絡めとられてしまったのだろうか。ラップ・ミュージックを産み出したヒップホップ文化が、自らのアイデンティティを確認する表現であるからといって、フランス国籍を持つラッパーたちが、いつまでたっても「移民」だった親のオリジンを確かめ、落ち込むだけ、そんな社会であってはいけないだろう。

#移民とカルチャー