大阪万博、落合陽一の「null²」とは一体何だったのか。太陽の塔との対比で捉える、本質的なメッセージ

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一番の反博(万博反対)は太陽の塔だよ

岡本太郎

1970年の日本万国博覧会。そこで混然と輝く「太陽の塔」を制作した岡本太郎は、こう言い放ったという。

万博を、根本から問い直す”。かつて太陽の塔が、圧倒的な存在感で万博を問い直したとするならば、2025年の大阪・関西万博に建てられた「null²」は、自らの存在を捨て去ることでそれを問い直してしまったのかもしれない。

万博の変遷:国力を示す場から、人類課題を議論する場へ

万博の起源は、1851年にまで遡れる。この年に開催された第一回目の万博、ロンドン万博では、当時最先端だったテクノロジー、水洗トイレが展示され、来場者の度肝を抜いた。

当時の万博の役割といえば、自国の産業、技術力を世界にアピールすること。その流れは冷戦期に最高潮を迎え、超大国同士による国力を示す場として使われた。

そして現在の万博は、環境問題、人と人とのつながり、人権意識など、“人類の共通課題への取り組み方を示す場”としての意味合いが強くなってきている。

進歩から、いのちへ、移りゆく日本の万博

こうした万博自体の変化に合わせて、日本で過去3回開催された万博も大きく趣旨を変えてきた。

日本で行なわれた各万博のテーマ

1970年:日本万国博覧会|人類の進歩と調和

2005年:愛・地球博|自然の叡智

2025年:大阪・関西万博|いのち輝く未来社会のデザイン

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Image: Wikipedia

1970年の日本万国博覧会は、戦後25年、高度経済成長を成し遂げ世界第2位の経済大国になった日本が、敗戦国から先進国へ生まれ変わったことを国民と国際社会に打ち出す重要な機会となった。

動く歩道、電気自動車、ワイヤレステレホン、テレビ電話――今の私たちにとって当たり前となったテクノロジーの先駆けが多数展示され、技術立国・日本のブランドを世界に発信した。

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Image: Wikipedia

それから35年後の2005年に開催れた愛・地球博は、1970年の大阪万博で打ち出した経済成長路線とは異なる方向に舵を切った。バブル崩壊と長期不況を経験した日本にとって、もはや経済力を誇示する時代ではなかったのだ。同時に国際社会では、地球温暖化や環境破壊といった問題への関心が高まり始めており、日本も万博を通じて“グローバル課題に主体的に向き合う国”としての姿勢を表明した。

環境負荷が少ない運営方式が取り入れられ、かつて経済成長の手段だった技術力を、環境問題の解決手段として捉え直し、現代的万博の方向性を形作る契機の一つとなった。

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Photo: 小野寺しんいち

そして2025年の大阪・関西万博が掲げたのが、「いのち輝く未来社会のデザイン」だ。

テクノロジーが発展し、生活環境が大幅に改善した一方で、社会課題は噴出し続けている現代。もはや技術力の誇示も、課題意識の共有だけでも意味を成さなくなった切迫感のある現代の日本において、“私たち人間がいかに生きていくべきか”という根源的なテーマに立ち戻ろうとする、課題先進国“らしさ”を帯びた万博だ。

「経済の成長証明」、「環境先進国としての姿勢表明」、そして「課題先進国としての未来社会のビジョンの提示」と変化してきた日本の万博。その年々の万博を見ると、その時代に、その国の人が何を望んだのかが見えてくる。

技術礼賛に、生命讃美で対峙した「太陽の塔」

そんな、単に万博を“お祭り”とは捉えられなくなった現代の私たちにとって、1970年の万博は羨ましくも映る。「人類の進歩と調和」のテーマ自ら“進歩”と宣言していることからも、当時の人々の未来への期待感や高揚感が伝わってくる。3C(カラーテレビ、クーラー、自動車)が生活をみるみる向上させたように、人々が技術革新と消費による豊かさを謳歌した時代、間違いなく万博は希望の象徴だった。

ただ当時、そんなテーマを否定した人物がいる。芸術家、岡本太郎

人類は進歩なんかしていない。何が進歩だ。縄文土器の凄さを見ろ。皆で妥協する調和なんて卑しい

岡本太郎

そう言い放つ岡本太郎が、太陽の塔で描いたのが「生命」だった。

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Image: Shutterstock

高さ70m、片腕だけでも25mあるこの強大な建造物は、過去、現在、未来を象徴する3つの顔を持ち、内部では生命の進化の過程を示す展示が行なわれた。“技術の進歩が明るい未来を作る”、そんな技術礼賛主義に、あえて生命の徹底追求によって対峙したのだ。屋根を突き破るように圧倒的スケールで立ち上がる存在感からも、本作が万博を根底から問い直す破壊的シンボルであったことがうかがえる。

奇しくもそんな太陽の塔は、日本万国博覧会の目玉となった。岡本太郎の描き出そうとしたテーマは、人々の欲望や時代の流れにやがて飲み込まれ、現在では大阪万博成功の象徴として多くの人に知られている。

そして2025年、同じ大阪の地で再びの万博が開催された。

55年の時を経て、“いのち”に再帰

皮肉にも、岡本太郎の予言通りとなった。

今を生きる私たちは、飛躍的に進歩した技術によって、1970年の万博の来場者よりはるかに便利で、豊かな生活を送っている。しかし、争いはなくならず、絶望を抱えて自ら命を断つ人もあとを絶たない

1970年の万博が示した方向性、“技術の進歩が人々を豊かにする”という仮説が、必ずしも正解ではなかったことを暗示する。そして岡本太郎が当時、技術革新には目もくれずに向き合ったテーマ“いのち”が、55年後の万博のテーマとなった。

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Photo: ヤマダユウス型
iPS心臓

「いのち輝く未来社会のデザイン」。2025年の万博に宿るのは、最新技術の享楽性ではなく、“その技術が本質的に私たちの生活をどのようにより良くするか”の視点だ。iPS心臓、カラダ測定ポッド、空飛ぶクルマといった目玉展示も、そうした方向性を指し示す。

実際に現地に赴いた筆者も、現代の感覚において興味深い(おそらく1970年の高揚感とは異なる感覚)と思える展示の数々に心動かされた。

しかし、そんな2025年の万博すらも、根本的に問い直そうと試みるパビリオンがある。それが、落合陽一の「null²」だ。

行き詰まった人類を、“手放す”で導く「null²」

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Photo: 小野寺しんいち

常に変化を繰り返す、全面鏡張りの外観。各国、各企業の煌びやかなパビリオンが立ち並ぶ中、確実に異質な建造物だ。

本万博には、個人によってプロデュースされた「シグネチャーパビリオン」というパビリオン群がある。その一つであるnull²を手掛けたのが、メディアアーティスト、落合陽一だ。

もうみなさんは もとのあなたにはもどれません これから みなさんのきごうをてばなす ぎしきをはじめます

null²に入ると、来場者はこう告げられる。

人類、生まれ変わりの"ぎしき"

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Photo: 小野寺しんいち

全面合わせ鏡の室内。果てしなく世界が広がり、空間に対する認知を歪められる。ここは、「ヌルの森」。足元には、動き続ける何かが。自律生成を繰り返す人工生命だ。これらは、あらゆるものに意味を見出すことで世界を理解、文明を発展させてきた私たち人類への対比として、一切の意味を持たない純粋無垢な“生命の躍動”として描かれている。

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Photo: 小野寺しんいち

中央に置かれているのは、映画『2001年宇宙の旅』を模したモノリスだ。映画の中で人類の進化を促したのと同様に、これからここで行なわれることが、現在の私たちを次のステージに導く体験になるのではないかと想起させる。

そして、床と天井に狩猟採集、農耕社会、産業革命、情報革命、そしてその先へと続く人類の年表が流れるように映し出されると、1970年の万博のテーマソング、三波春夫の『世界の国からこんにちは』がかかり“ぎしき”が始まるのだ。

もう1人の自分、果てしない空間、自立生成する人工生命。気づけは、"きごう"を手放していた

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Photo: 小野寺しんいち

動き出したモノリスに表示されたのは、私。厳密には、現実世界に生きる私ではなく、事前に登録した顔や声、趣味趣向を元に生成された、デジタル上のもう1人の私だ。

そして来場者はこのデジタルになった自分が自律的に会話をするのを見ることになる。私と同じ容姿をし、私と同じ声で、私が考えるとの同じような答えをする、私とは別の何か。“私”とは、一体、何なのか

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Photo: 小野寺しんいち

それだけではない。デジタル化された、別の誰かも映し出される。私の知らない誰かのデジタルヒューマンが喋る内容に関しては、それがその人らしいのか、そうでないのかすらも判断する術がない。つまりデジタルヒューマンが、固有の自律した存在として、私の脳内では処理されるのだ。

これらを立て続けに体験していくと、「私」、「他者」、「空間」を規定する足場が崩れ、もはや自分が持ち合わせている言語では説明がつかない状況に陥る。そして、気づけば私は、これを理解しよう、という感情すら捨て去っている。

これこそ、null²が体験者にもたらす、“きごう”を手放す“ぎしき”なのだ。

思考の委譲、そして人類が向かう先

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Photo: 小野寺しんいち

null²では繰り返し、“きごうを手放す”ことが促される。“きごう”とは、名前であり、自己像であり、物語であり、時間であり、言葉であり、人間の認識や文明を支えてきた記号体系そのものだ。そして、それらを用いることで、人間はこれまで文明を発展させてきたが、ここでは、その限界が示唆される。

人間の「賢さ」は、人間にとっての「ちょっとしたおまけ」にすぎず、それが得意な「けいさんき(AI等のこれからの機械)」に“考える”ことを委譲し、人間はもっと純粋無垢に感性のままに生きればいい。これが、null²が提案する、次なる人類のステージなのだ。

そして最後、空間は意味を持たない世界に包まれる。流れるのは、AI三波春夫による「さようなら さようなら」という歌。まさに、1970年の「こんにちは」への対比であり、決別。かつて目指されてきた永遠の文明発展という一つのモデルコースから降り、生命体が本来的に持つ自由で流動的な状態に回帰したことが表現される。

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Photo: 小野寺しんいち

昨今の目まぐるしい生成AIの進化。実際に使っている人なら、人間が脳で処理できる限界値をゆうに超えていくAIに、驚いたり、恐怖したりしたことがあるかもしれない。null²は、まさに私たちが今体験している現実を言語化し、その先の未来まで提示する。

自らを手放し、世界と融解するパビリオンは、万博自体も問い直す

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Photo: 小野寺しんいち

こうした社会的なメッセージが込められたnull²。ただ私は、本作の最も面白い点は、これが万博の一環として存在していることだと思っている。

null²の言う“きごう”。「万博」は、まさにそんな“きごう”の最たるものだ。物理的にも文化的にも離れた世界中の人々を一堂に会させ、進歩や社会課題の解決といった非物質的な概念を共有し、解こうとする。こんな複雑な試みを行なえるのは“きごう”があるからであり、人々が一つになれるのは、万博という“きごう”があるからだ。

「"きごう"を手放す」。null²のメッセージは、まさに万博すら問い直してしまう。

コンピュータプログラミングで「値がない」状態を意味するnull(ヌル)を名前にもち、「空即是色・色即是空」や「胡蝶の夢」を哲学的な下地にしたnull²は、内でも外でも、あらゆる時間軸で、自らを捨て去ることを推奨する。

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Photo: 小野寺しんいち

常に揺れ動き、鏡張りのため周囲に溶け込んでしまうパビリオンの存在自体、ここにありながら、ここにない、”きごう“による一つの概念では説明のしようがないものだ。

岡本太郎が太陽の塔で追求した“いのち”は、落合陽一のnull²でも変わらずコアテーマとして存在する。しかし、アプローチの仕方が異なった。落合陽一が選んだのは、徹底的な対峙ではなく、“手放す”だ。無常で、柔らかく、現代的なこのアプローチは、しかし同時に、人間への愛に溢れ、強く、哲学的に万博そのものを問い直している

私たちはこれからもこの世界的な祭典を続けていくのか。それとも落合陽一の予言通り、ヌルの森へ帰るのか。もし仮に50年後に万博が日本で行なわれたら、行なわれなかったとしても、もう一度振り返り落合陽一の挑戦の答え合わせをしてみたい。

体験後、会場では「計算機はこれからも、文明を加速させていくよ」のアナウンスが繰り返し流されていた。私たちはこの言葉を、どう受け止めたらいいのだろう。

“きごう”から抜けた万博が、次に生まれ変わる姿とは

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Photo: 小野寺しんいち

では、万博という“きごう”を仮に捨て去ったとして、万博は本当に消えてしまうのか。私はそうは思わない。

むしろ、万博の本質的な部分である「人々が互いに共振共感する場」としての価値は、これからの人類社会の基盤になり得ると考えている。

たとえば万博内には、感動や喜びを分かち合い、悲しみや苦難を憂う、そんな瞬間がそこかしこに存在する。これは“きごう”を捨てた、本来の生命の純粋な躍動であり、むしろそれを、分断化が進む現代社会で、グローバルスケールで行なえる場所は多くない。

確かに、万博を“きごう”と捉えると限界はある。現代社会において万博本来の価値を実現するには、既存の経済システムをベースにしなければならず、多数の矛盾が生まれてしまう。

万博会場に行けば、国の経済規模に比例してパビリオンの規模が変わることは一目瞭然で、万博誘致にも国家間競争があり、開催してからも万博の成功は経済効果だけで計られてしまう

むしろ、万博がもたらせる本質的な価値を創造するには、経済合理性で動かない、“けいさんき”にすべてを任せることが合理的なのかもしれない。つまりそれは、人類が経済的な結びつきによってではなく、共感によって結びつき自由に創造している世界であり、その世界における万博こそ、ついに本来的な価値を取り戻した、純粋無垢な万博なのではないかと私は思う。

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Photo: 小野寺しんいち

null²は、万博を否定したのではない。むしろ「次の“万博”の可能性」を指し示している。さてここからは、私たち自らが考え、動く番だ。50年後、人類はどんな万博を開いているのだろうか。

Source: null², 万博記念公園, 山陰中央新報デジタル, Sustainable Japan