踊らないのに、トランスする。MUTEK.JP圧巻のパフォーマンスは、現代の儀式だ
ARTS & SCIENCE最近、クラブで踊るのが、しんどくなった。
強烈な重低音と音のうねりに身を委ね、全身で自我を解放する喜び。かつては熱中した体験に、最近億劫さを感じるようになった。
年齢のせいなのか、トレンドの変化が理由なのか。決して心が欲さなくなったわけではないけれど、いやむしろいまだにその体験への欲求は消えることはないけれど、足がそっちを向かなくなった。
オーディオビジュアルへの期待。MUTEK.JP 2025へ

そんなタイミングで今年もやってきたMUTEK.JP。去年行なわれた、「ETERNAL Art Space」のオーディオビジュアルインスタレーションは、視覚と聴覚をジャックし、感情の蓋を次々に開けてくる圧倒的なアート体験だった。
またあの感覚を味わいたい。今年のMUTEK.JPはそんなオーディオビジュアルへの期待を持って参加した。
向かったのは、11月22日のSpotify O-EAST。4日間ある開催日の後半戦となるイベント、「Nocturne 2」に参加した。
開始前のフロアに来たのなんて久しぶりだ。ただ、漂う雰囲気は、クラブというよりむしろ映画や演劇が始まる前のようだった。
MONOCOLOR:開幕を飾る、音と映像の濁流

20時。巨大スクリーンに映像が映し出され、轟音が鳴り響くとともにMONOCOLORによる「Sentient Ocean」が始まった。
ウィーンを拠点とするMONOCOLORは、音と映像の相互関係を探究してきたオーディオビジュアル・アーティストだ。
スクリーン上ではコンクリートのようなものが徐々に砂になり、液体になり、鋼鉄になっていく。リアルタイムに生成される、無機から有機、また無機へと変化し続ける現象が、観客の眼前を覆い尽くす。同時に鳴り響くのは、腹の底まで鳴り響いてくるノイズに近い重低音だ。
ただただ圧倒される。まるで何かの自然現象に巻き込まれてしまったかのようだ。次第にその濁流に自分が一体化していく感覚になる。クラブなのに、ビタイチも動かず硬直しながら、しかし感覚としては強い没入感がある。
NONOTAK:光、音、空間がフロアに一体感をもたらす

次に登場したのは、パリを拠点とするクリエイティブデュオ、NONOTAKだ。光、音、空間を掛け合わせる没入型のインスタレーションとパフォーマンス作品を世に送り出してきた。
Takami Nakamotoの、膨らみ、縮み、引き伸ばされ、短くなる、立体感のあるサウンドが全身を包み込む。そこに、直線や曲線、幾何学模様でミニマルに描き出されたNoemi Schipferのビジュアルが連動し、サウンドにさらなる息吹が与えられる。

決して体が動き出すような体験ではない。しかし、アーティスト自身が音から感じ取るビジュアルが観客にも共有され、観客もそれを分かち合うことで生まれる一体感は、強い幸福感をもたらした。
Halina Rice / Daito Manabe:音と映像のシンクロが導く、かつて感じた高揚感

熱気を帯びてきたフロアは、ロンドンを拠点とするプロデューサー / AVアーティストHalina Riceに引き渡される。
Halina Riceのサウンドは、優美さがあるものから、ビート感の激しいものまで多岐にわたる。そしてそれに負けず劣らず、ビジュアル表現も驚くほど多様だ。
観客は、次々に風景が変わるアトラクションに乗せられた感覚で、Halina Riceの世界観を次々に浴びせられていく。受け手としても、次の一手への期待を前のめりで膨らまさざるを得なくなる。

Halina Riceからバトンを受け継いだのは、ライゾマティクスで知られるDaito Manabeだ。Sónar Festivalで観客を圧倒したオーディオビジュアルパフォーマンスが再演された。
次々に繰り出されるDaito Manabeの音と映像が完璧にシンクロしたパフォーマンス。観客もつられ、さまざまな意識変容を体験する。音と映像が、ハマるハマる。これまでに感じたことがないような、気持ちよさを覚える。
MONOCOLOR、NONOTAKのミニマルで凝縮感の強いパフォーマンスで圧倒された観客は、Halina RiceとDaito Manabeの時にメロディックで時にビート感のあるパフォーマンスにより、感情を徐々に解放させられていく。
その過程には、サウンドだけではなしえない、ビジュアル(映像と照明)も相まった、全身を包み込まれるような浮遊体験がある。さらに、同じ音を聴き、同じものを見ることで生まれる、“フロアの統合”もその重要な構成要素となっていた。
そして次第に私は、かつてダンスフロアで感じていたのと同じ高揚感に、踊っていないのに包まれた。
MUTEK.JPで見つけた、今の私が求めたいたもの
冒頭、いまだに消えることのないフロアでの解放の喜びと、一方で身体的、精神的に億劫に感じるようになってしまった昨今のメンタリティとのギャップについて述べた。
つまり言い換えれば、「ダンスミュージックのように激しくはないけれど、クラブシーン特有の喜びを得られる場所があればいいのに」。これが今の私の、需要とも言えるだろう。
その意味で、Nocturne 2の体験はまさに今私が欲していた体験となった。鑑賞を終え箱を出た時、クラブ特有の夢から覚めたような感覚があった。しかし私の身体は過度に疲れてもいなければ、特段汗もかいていなかった。
意味づけの放棄が昇華させる、意識変容
では、この私が求めていた高揚感、“クラブシーン特有の喜び”は、MUTEK.JPの場でいかにしてもたらされたのだろうか?
かつて私が熱中した体験と、今回の体験の共通点を見出せば、自ずと答えは見えてくるはずだ。
その一つは、間違いなく没入感と、その先にある意識変容だろう。
“トランス状態”とも呼ばれるこの状態で、人には以下のようなことが起きている。
- 思考(言語や意味づけ)が弱まる
- 「自分をどう見せているか」「正しいかどうか」という自己監視が消える
- 時間感覚が曖昧になる
- 刺激に対し自分が“合わせられている”感覚が生まれる
つまりその瞬間、人は「何者かであること」をやめられる。現実世界から解脱し、純粋無垢な感性を拠り所とする生命体に、一時的に変容できるのだ。
身体から自我を溶かす、ダンスミュージック
ダンスミュージックは身体から自我を溶かすことで、この状態へと導いていく。
- リズミカルな音楽による強制的な感情の高揚
- 反復的なリズムによる身体の支配と、動作の無意味化
によって、身体が主導権を握るようになり、思考を後退させ、「考える私」より先に「動いている私」「感じている私」が前に出るようになる。そして、踊っている最中に思考は取り除かれ、ただそこに“ある”だけの状態になる。これが身体経由の自我の解体だ。
知覚から自我を溶かす、オーディオビジュアル
一方オーディオビジュアルは、知覚から自我を溶かし、人間をトランス状態へと向かわせてしまう。
オーディオビジュアルは人を踊らせない。しかし、視覚と聴覚を思考が追いつかない物量、速度、精度で占拠する。
- 幾何学的・抽象的で意味を持たない映像の連続
- 対象・非対称オブジェクトの反復投影
- 音、映像、光の完全同期
などにより、理解が追いつかず、人は解釈を諦めるようになる。「これは何か?」と考える余地はなくなり、見る、聴く、圧倒されるだけの、純粋な知覚だけの状態に押し込まれる。これは、知覚経由の自我の解体だ。
両者とも、事象に意味を持たせない(歌詞、物語、正解、評価軸がない)ことで、意味がないから自我の得意とする「解釈、判断、比較」を機能させず、結果として、自我の仕事を奪い、鑑賞者を純粋無垢な感性だけの存在にしてしまう。
ダンスミュージックは身体を通じてそこへ連れていき、オーディオビジュアルは知覚を通じてそこへ連れていく。手段は違うが、到達点は同じという意味で、私はかつてと同じ意識の強烈な変容を覚えたのだ。
全体への帰属が生む、安心感・幸福感
そしてもう一つ重要な要素が、一体感と、それがもたらす幸福感だ。
Nocturne 2の中でも、ダンスフロアと同様な、全員が盛り上がる瞬間や、終わった後の不思議な連帯感が生まれていた。
ダンスミュージックでは、BPMがそこにいる全員の身体の動きを制御し、照明や曲調の変化が同じ瞬間に全員を高揚させる。つまり全員が同じ時間構造の中に閉じ込められること、それ自体が、一体感の源泉となっている。
一方オーディオビジュアルでは、全員が同じものを見ることで、その場にいるすべての人の注意意識が同一点に固定される。さらに、音と光の同期が注意の分散を許さず、抽象的ゆえに、個人個人の解釈も生まれない。“私が見ている”のではなく、全員が同じ方向に溶けている状態となる。これが、オーディオビジュアルにおける一体感の正体だ。
人は、本能的に全体への帰属を求める。そしてそれが叶うことで、安心感、幸福感を覚えるのだ。
私が感じていた高揚感の正体。オーディオビジュアルは、現代の儀式だ
没入による意識変容と、一体化による幸福の掛け算は、非日常的な高揚感をもたらす。
自我を解体した高次元的な精神状態が、フロアによる絶対的な肯定を受け、全体へと帰属。自分と他者を隔てる壁はなくなり、極めて特異な存在状態へと到達する。
「私」はいないのに、「ここにいていい」はある。マイナスが消え、プラスだけが残る。ある意味で、あらゆる責任から解放された特殊な環境が、他では得られない高揚感を生んでいるのだ。
こうした体験は、祭り、スポーツ観戦、デモ運動などを通して、これまでも繰り返し人類によって続けられてきた。ただオーディオビジュアルが特別なのは、物語性がなく、身体を動かすことすら求めず、見る / 聴くという最小限の行為だけで、この高揚体験を実現してしまうことだ。これまでにない、全く新しい“儀式”だと、今振り返って確信している。
人間と意識の実験場、MUTEK

MUTEKは音楽フェスでもクラブイベントでもアート展示でもありません。
その境界線の間を自由に行き来しながら新しい文化が芽吹く場所として機能していると感じます。
尾田和実(FUZEプロデューサー/ギズモード・ジャパン総編集長)
>まさにこの言葉の通り、MUTEKは全く新しい体験を味わわせてくれた。ここは、人間とその意識の実験場だ。
テクノロジーが創り出した新しい高揚体験=現代の儀式としてのMUTEK。今年も忘れ得ない衝撃を喰らったのだった。
Source: MUTEK.JP
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