VRが暇つぶしになる時代「遊び」はどこへ行くのか?
NEW INDUSTRYMiitomoは不思議なゲームだ。
自分に似せたmii(アバター)を作り、そいつが訊いてくる「自分に関する質問」に答えていく。彼女は勝手に友だちのMiitomoのところへ行って、自分(の主)のことを話しまくる。
誰のMiitomoと、何を話すかは選ぶことができないので、現実では頻繁に話さない人の一昨日の夕食なんかを知ることにもなる。「サイトウさんの犬は長生きなんだね〜」と知らないあいだに誰かと自分が仲良くなっていたりもする。
Miitomoはバーチャル世界に住んでいるくせに、現実に影響力を持っている。仮想現実(VR)のようで、SNSのようでもあり、なんだか拡張現実(AR)的な存在でもある。
この「質問だいすきBotたち」はいったい何者なんだろう? そして、このタイミングで任天堂がリリースしたスマートフォンゲームとしてのMiitomoってなんなんだろう。
コンシューマレベルのVRデバイスが登場し、Botが注目され始めた2016年3月。今、交錯するゲームとVR、SNSと遊びについて、ゲームアナリストの平林久和さんにお話を聞く。

平林久和さん / ゲームアナリスト、株式会社インターラクト代表取締役社長。日本工業新聞に「ゲームの大学」を日刊連載するなど、ライター・ジャーナリストとして長年ゲーム産業に携わる。「ゲームの大學」、「電視遊戯時代」など著書多数。
平林さん:ぼくがVRに限らず重要だなと思うのは、境界線にいる人、つまりメディアで語るようなジャーナリストやアナリストが厳格に言葉を定義することです。ばく然と世間が「線」と思っているものを、「AとBを結ぶもののことを線と呼ぶ」と狭めるべきだろうと。
というのも、話題になった言葉はみんながそれを名乗ってしまうんです。「マルチメディア」や「電子書籍」と同じく、VRも今そういう状態になっていると思います。
(この観点から)自分自身の中では、大きく2つに分けてVRを定義しています。1つはヘッドマウントディスプレイ(Oculus Riftなど)を使う「装置型VR」。ゲーム業界などがコンテンツを作りこむVRです。
Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA360°映像は誰でも簡単に撮影できるようになった (リコーTHETA Sを使用/筆者撮影)
平林さん:そして、対するもうひとつの"VR"が、360°映像による「VR報道」です。テレビ局などの報道機関が取り組み始めていますが、正直に言うと、これは「便乗VR」だと思います。カメラを持って行って現場を撮影し、ウェブのプラットフォームで公開することで完結してしまうからです。比較的エネルギーのかからない「簡単なVR」とでも呼んで区別するべきでしょう。
ギズ:装置型のVRのほうは、今年から日本にも市場がやってきて、「VR元年」なんて騒がれています。これについて、長年ゲーム業界を見てこられた平林さんはどうとらえていらっしゃいますか?
平林さん:これについての見解は、ポジティブとネガティブの両方があります。
ポジティブな面としては、ヘッドマウントディスプレイは本当にすごい装置だということです。いまだにVRを、3DSなどの立体視と混同する人もいますが、まったく違います。立体視は目をごまかそうとするので、立体には見えても「所詮これは3Dのテレビだよね」とわかってしまう。
一方で、かぶるタイプのヘッドマウントディスプレイは脳にごまかしを与えることができます。だから映像が多少粗くても、VR酔いが起こるんですよね。脳を騙す装置が出てきたんです。期待するなり恐れるなり、どちらにせよ、この事実のすごさを適切にとらえるべきでしょう。
ネガティブな面は、今コンテンツを作っている側の正直な見方として、このままではVRゲームは商業的にかなり厳しいだろうということです。
現在のゲームの売り方は、数千円のパッケージソフトを何十万本売るだとか、スマホゲームのガチャを回し続けて何時間も遊び続けるとか、そういうモデルです。VRゲームはそれに合わないんですね。10時間もヘッドマウントディスプレイをかぶって遊ぶのは難しいからです。
ギズ:VR映像を最長で15分ほど見たことがありますが、たしかに目が疲れてしまいました。さすがにテレビゲームのように何時間もやろうとは思いませんでしたね。
2014年「進撃の巨人展 360°体感シアター"哮"」平林さん:今のゲーム市場でVRがもっとも適合するのは、ゲームセンターやネットカフェのような場所だと思います。自分でヘッドマウントディスプレイを買うのではなく、それがある場所に行って、数百円払って何分間遊ぶという、小ロットのモデルです。
ヘッドマウントディスプレイ向けのゲームを作っている人のほとんどは今「何を見せるか」に注力しています
そして、全体として、ゾンビを銃で撃つFPSゲームとかジェットコースターに乗るとかポルノ系とか、刺激のより強いものを見せたいという「動的な」ほうへ向かっています。
いま、多くの人はVRのコンテンツに飢えています。飢えてる状態に対して何かを出せば、礼儀作法も文化的コンテクストも関係ありません。カップもソーサーもなく、みんな蛇口に口をつけて水を飲むでしょう。
エジソンが映写機を発明したとき、映画とは何たるかを考えるより前に、みんなが見たいと思うコンテンツ、列車の走る様子を劇場で公開すると満員になった。これと同じ状態です。
ゲームデベロッパーカンファレンスでOculus Riftが初登場してから2年間。この水にあたるVRコンテンツをゲーム業界が用意するのには、じゅうぶんな時間がありましたし、これからもどんどん動的なコンテンツは出てくるでしょう。
ぼくは正直なところ、もうこのタイプのコンテンツには興味を失ってしまいましたし、だからこそVRゲームがゲームセンターのモデルになってしまうのだとも思います。
2016年「Werewolves Within」UBISOFTから、秋リリース予定のソーシャルVRゲーム。5〜8人で行なう5分程度の人狼で、プレイヤーの感情を分析するシステムもある。
平林さん:代わりにぼくが注目しているのは「静的なVR」と呼んでいるものです。
UBIがVRゲームの人狼を出しました。VRに疲れてしまうのは目の情報が多いからです。でも映っているプレイヤーどうしで「占い師です」などと話し合うことがメインの人狼ならば、1時間だってできますよ。(FPSゲームのように)数分間しかやりたくないというコンテンツにはならないでしょう。
1999年「ビブリボン」プレイステーション用ゲームソフト。現在はゲームアーカイブスから購入することが可能。
平林さん:またVRの話をするとき、音のことにはあまり言及されませんよね。3Dサウンドです。ぼくはこれにもVRコンテンツの進化のヒントがあるんじゃないかと思うんです。
1999年に発売されたプレイステーション向けの「ビブリボン」という音ゲーがあります。映像は白黒で、線情報のみなのですが、音が楽しいからずっとやっていられるんです。
人狼や音ゲー。こういったゲームをVRでやるとおもしろくなる可能性があります。静的な方向へVRコンテンツはもっと掘り下げられるはずです。
ギズ:人狼はゲームのほかに、人と人との関わりというソーシャルネットワーク的な側面も持っていますよね。SNSとVRの親和性については、どうお考えですか?
平林さん:FacebookがOculusを買ったとき「なぜFacebook?」という声は少なくなかったですし、「アクティビジョンや、ソニー、任天堂がよかった」という声もありました。つまり「Oculus RiftでVRゲームをやりたかったのに」という意見です。
しかし、SNSとVRが融合する未来は、VRとゲームの融合の数手先に必ずあります。というのも、身体のネットワーク化というのはかなり進んでいますよね。キスの感触を遠隔で送ったりとかね(笑)。SNSが向かっていくのは確実にVRでしょう。
ギズ:そんな中、任天堂はSNSをそのままゲームにしたような「Miitomo」をリリースしました。何かつながりがあるのでしょうか?
平林さん:これまでも、SNSではアバターやニックネームで別人格を作ってみたり、実際の感情とは違う投稿をしてみたり、Twitter用、Facebook用と使い分けてみたりしてきましたよね。けどそれが行き過ぎて、SNS疲れということが言われ始めた。
だからMiitomoには明らかにSNS疲れに対して議論して作ったのだろうという痕跡があるんです。Miitomoって、いったん作ったらあとは勝手に動くんですよね。 SNSは写真を投稿するか文章を投稿するかぜんぶを自分で選ばなければならないけれど、Miitomoでは「先週に何してたかMiitomoに聞かれたんだから仕方ない、答えるか」となるわけです。
Miitomoが生まれ、VRが大きく盛り上がった2016年3月が示したのは、「オートなもうひとりの自分を持つことが当たり前になっていく」ということです。
自分と対話している別人格のようでもあり、自分自身のようでもある...。Miitomoは、自分とペットの中間の距離感にあるんだと思いますね。
ギズ:「Miitomo」は自分との対話の中で、自分に関する情報を蓄積していくのかと思ってしまうような要素もありますよね。人間をAPI化してVR空間に持っていくという試みでもあるのでしょうか?

平林さん:もちろん、それが「正しいIT企業のあり方」ではあるでしょうね。ただ、任天堂は驚くほど考えていないと思われます。「キャラクターが動く速度が...」とか「あと何ミリ吹き出しを内側に...」とか、そういうことはめちゃくちゃ考えてると思いますけど(笑)。任天堂という企業の基本姿勢はIT企業ではなく、いい意味でおもちゃ屋さんです。
だから、ぼくはMiitomoに別のストリームを見ているんです。それはMiitomoが任天堂にとってある種の「解」だったということです。
任天堂は「スマホゲームをやらなきゃいけない」という外からの圧力を長いあいだ受けてきました。そして3年連続赤字もやってしまった。もうこれは任天堂自身がやりたい・やりたくないに関わらず、スマホゲームを作らなければいけない状況になってしまったわけです。
それで生まれたのがMiitomoなんです。彼らは絶対に儲からないゲームを作ってみせたんですよ。ここには任天堂の良心を見ることができます。
ピカチュウが欲しかったら何万円も使い込んで何時間もガチャを回せばいい、なんてことをやってしまったらおしまいなんです。
任天堂には当然、組織としての問題点があり迷走している部分もあると思っています。でも、いざモノを作るとなるとちゃんと成果を出します。スプラトゥーンだってそうですよね。FPSゲームの武器をインクに変えて、(殺しあう代わりに)イカが陣取りをするゲームにしました。
任天堂はいつも迷っている、困っている。でもだからこそ、他社がやらない課題解決型・問題提起型の製品を生み出せるんです。一見すると迷走しているかに見えますが、そうたらしめているのは、彼らが深く思考しているからでしょう。この思考がいい方向に転んだとき、スプラトゥーンやMiitomoができる。 だから、ぼくは本当にMiitomoに好感が持てて仕方がないんです。ギズ:海外のMiitomoレビューを読んでいると、「つまらない」とか「これは何なんだろう?」という懐疑的な意見も見られます。「遊び」のおもしろさを決めるものって何なのでしょうか?
平林さん:Miitomoを好きになるかならないかはママゴトやサーフィンで遊ぶのが好きかどうか、だと思います。理屈っぽく言うとロジェ・カイヨワ(編注:フランスの社会学者。著書に「遊びと人間」など)の言う「脱ルール」の遊びが好きかどうか、ですね。反対に言えば、敵を銃で狙撃する遊び、毎回はっきりと勝敗やスコアがついてくるような遊びしか許容しない人にとってMiitomoは退屈でしょう。

平林さん:日本語特有の、たとえば「どうも」という挨拶に代表される短くてあいまいなコミュニケーションが成り立つ文化が、Miitomoのおもしろさを支えている思います。
でもあいまいって、本当の意味ではあいまいではないですよね。話者同士が根底でじゅうぶんわかっているからあいまいにするわけです。言わぬが花、言わずもがな、以心伝心。言葉を省略して意志を伝える日本のコミュニケーション文化にMiitomoはとてもよく合っているわけです。
また、Miitomoでは友だちが部屋に勝手に遊びに来ます。これを直感的に受け入れられない文化だって当然あるわけです。そういう意味で、Miitomoの根本は、田舎では家に鍵をかけないだとか、店員にわたされたお釣りを確認しないだとかそういう日本独自の性善説に支えられているところもあると思います。

ギズ:では最後に、平林さんが考える、この先に出てくる「遊び」はどんなものになると思われますか?
平林さん:「ワードウルフ」って知ってます? 似通った言葉を2つに分けてカードを配り、誰が少数派か投票する人狼をベースにしたコミュニケーションゲームです。
少数にいる人間は多数に紛れ込むことで生き残る。例えば「うさぎ」と「うなぎ」について全員で会話します。「跳ねるよね」という会話では、どちらのカードを引いているかわかりませんが、「タレが決め手」と言ってしまうとそれは「うなぎ」とわかってしまうというふうに推理をしていきます。
このゲームは参加者がとまどう2つの言葉を提示するゲームマスターになるところにもおもしろさがあります。
専門のテレビゲームの分野では「プロダクティブ(生産的な)」をキーワードに次のトレンドを探っています。暇つぶしではない、ゲームを遊んだ時間によって、何かが生まれている遊びに注目しています。■
「Botはタスクがこなせる秀才よりも、ビールを一緒に飲んでて楽しいように作ることが重要だ」という意見にもとづいた「チューリング・テスト」ならぬ「ビール・テスト」がある。Miitomoはまさに未来のBotの姿なのかもしれない。
平林さんは、これからの遊びは「プロダクティブな」ものになっていくだろうと指摘した。現に、人狼ゲームやワードウルフを新入社員研修に使っている企業さえあるという。推論の能力や集団議論を導くスキルを学んだり、社員同士の交流も(飲み会をやるよりも)深まるらしい。
VRやSNSという強力なツールを吸収しつつあるゲームはもう、単に現実と対になる暇つぶしとしての「遊び」ではいられないだろう。同時に、現実もよりゲーム的になっていく必要があるのかもしれない。最適化だけが至高の秀才Bot的価値観には、遊びがない。いずれ退屈してしまうだろう。
プロダクティブな「遊び」が、ゲームと現実の境界をなくしていくキーワードになるだろう。
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