8月11日にビー・エヌ・エヌ新社から『人工知能のための哲学塾』が上梓された。本書は、2015年5月28日から開催されてきた連続夜話「人工知能のための哲学塾」(第零夜〜第五夜)のうち、第一夜〜第五夜の記録を書籍化したものである。
毎夜、著者でありゲームAI開発者の三宅陽一郎氏が、人工知能と哲学、生物学、科学と人工知能、そして私たち人間との関係について解説した。その後は参加者同士でも活発な議論が繰り広げられた。そこは来るべき未来への期待と、人類が歴史の中で培ってきた知への興奮を共有する場であった。
本稿は、紙幅の都合上収められなかった「第零夜」を、著者の許諾のもと、一部改稿して掲載したものである。
『人工知能のための哲学塾 第零夜』(前編)目次
第1節 人工知能という学問分野とは?
・主観的な世界を人工知能が持つためにはどうすれば良いか?
・人工知能の学問的な特徴:科学、工学、哲学の3つの側面
第2節 人工知能とは何か?
・言語による人間の精神の構造化
・世界の分節化
・境界面
はじめに
2015年にFacebookで「人工知能のための哲学塾」というコミュニティページを作りました。オープンすると、それに対して、とても多くの反響がありました。これまで僕はゲームのための人工知能を作ってきて、開発者向けにはたくさんの講演をしてきたのですが、哲学という面から人工知能に興味を持っている方がたくさんおられるとわかったのが新鮮でした。ならば、これまで自分が蓄積してきた人工知能のための哲学の知識を、反響をくれた方々に提供したい、役に立てればいいな、ということで、オフラインでの連続夜話を始めることにしました。
なぜ哲学なのかというと、人工知能は理科系と文化系の境界にある、「人間についての学問」でもあるので、実は哲学とは切っても切れない関係にあります。ただ、僕は哲学の専門家ではありません。大学でやっているように、哲学を系統立てて学んでいるわけではありません。僕が知っている知識というのは、哲学全体からすると、ゲーム開発にかかわる局所的なところです。それも、公正な立場からというよりは、キャラクターや人工知能を作るという立場からです。
キャラクターの人工知能(AI)を作る際、どうしても実践的な足場として哲学が必要になります。哲学は、ゲームAIにそのまま入る分野というより、ちょうど建築現場で足場が必要になるように、人工知能を作るためになくてはならない足場を提供してくれるのです。
この足場があるから、高い場所でも作業ができる、ここに柱を立てられる、そんなイメージです。しかし、建築ができると足場は取り除かれます。しかし、今、必要とされているのは、人工知能をとらえるそんな足場かもしれない、と思いました。
実際、なかなか目には見えないところなのですが、そういった知識を自分なりに解釈したところをお伝えして、みなさんの中でアイデアが浮かぶことを目標にしたいと思います。ですから本稿では、さまざまな哲学者や科学者の哲学を散策しながら、旅をしていきたいと思います。

本稿では、ひとつひとつはあまり詳しく深入りせず、『人工知能のための哲学塾』に収められている第一夜〜第五夜で使ってきた、いろいろなキーワードを散りばめていきます。文中には、いろいろとリンクや参照図をはっていきますので、流れをつかんで気になるところがあれば、そこからさらに調べたり、自分なりのアクションを起こしていただければと思います。
第1節 人工知能という学問・分野とは?
すごく大きな話から入りたいと思います。哲学と人工知能がなぜ絡んでくるかというと、もともとデカルトの後継者たちが、機械論的、合理主義的なところをずっと進んできたことが背景にあります。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は近代的自我の出発点であると同時に、合理主義の出発点ともなったのです。合理主義は我「人間」から世界という「外」に向かってものごとを解明しようというもので、科学の進歩に貢献し、大きな成果を上げました。
ところが、20世紀初頭に、心理学がちょうど人間の内面的な精神活動、論理的な思考も全部「心理的現象」として説明しようという動きが起きます。人間の「中」もそうやって機械的に説明しようとしたわけです。
そのとき、「いや、それは違う。心理学ではなくもっと違う足場がある。機械論は、いろいろな自然物を合理的な科学法則で説明するのは確かに大成功した。ところが、こと人間や動物の内面に関してはそれがうまくいかないんじゃないか。全学問が巨大な機械仕掛けの装置に還元される前に、全学問を問い直す新しい哲学が必要だ」ということで、エトムント・フッサール、マルティン・ハイデガー、メルロ=ポンティなど、現象学の哲学が出てきました。
僕も一緒です。物理シミュレーションによってゲームの世界を...というのはニュートン的、デカルト的世界観で全然いいのですけど、人工知能は知能であり、単なるモノではありません。モノではない何かを作るときに足場となるのは、残念ながらデカルト的世界観では足りない。現象学をはじめとする、人間の経験の内側に入り込む哲学を足場として必要とします。
人間の中のもの、知能や精神など、心をプログラミングで作ろうとするときに、実は新しい哲学が非常に役に立つというところを説明したいと思います。
僕は2004年にゲーム産業に入って今年で12年目なのですが、ゲーム業界に入ってずっと人工知能を作ってきました。もちろん、人工知能は機械的に作る必要があります。ロボットであり、プログラムであり、エンジニアリングです。しかし、キャラクターのAIに必要なことは、生物の持つ主観的な世界をキャラクターのAI自身に与えてあげることです。では、どのように生物の持つ主観的な世界を形成すればよいか?というのが、自分のもっとも根幹にある意識です。
どうやって人工知能は主観的な世界を持ち始めるか、それが本稿の一番大きなテーマになります。主観的な世界を人工知能が持つためにはどうすれば良いか?
ここで、ゲームの人工知能がどういうものかを見てみましょう。これは2Dのマップ上をキャラクターが飛び回るゲームです。

『ふわふわマーガリン』(常磐祐矢、HSPプログラムコンテスト2015応募作品)
こうしたゲームのキャラクターを人工知能で動かしているのですが、キャラクターが知能を持つというのは、一体どういうことでしょうか? 一般に、ゲームのキャラクターはパス検索システムで動いています。パス検索システムというのは、ゲームの中の空間を認識して、自分の進むべき経路を決める技術です。賢いように見えますが、自分の周囲をちょっとずつ認識しています。ゲームの中のキャラクターは、いろいろな経路のプランを立てて動いています。そういったキャラクターを作るというのが僕の仕事になります。最近のゲームは、複雑で広大な3D空間(3次元空間)になっていますので、人工知能には深い空間把握能力とより強力な意思決定能力が必要となります。
少し大きな話をしますと、人間の最初の探求はやはり、大きな意味では物理学とか外の世界に向かっていたわけです。いろいろな天才たちがいろいろな科学理論を作った。一方、人間の知能の側は残念ながら、自然科学のように形式化できない。定説も定式化しにくいし、いろいろな曖昧な理論が出ては書き換えられていく。そういったところがあります。
人工知能は、「どこまで深く知能をシミュレーションできるか」というところでがんばってきました。しかし、それを物理学とか外に向かった世界観だけで実現することはできなくて、外界とは異なる世界観、人間の内に入っていったときには、もう少し違った知見が必要になります。
人工知能の学問的な特徴:科学、工学、哲学の3つの側面
人工知能は学問として誕生してから60年になります。人工知能は学問として認められるのに時間がかかったのですが、それはなぜかというと、サイエンス(科学)とエンジニアリング(工学)とフィロソフィ(哲学)の境界にあるからです。「お前はどこにいるのだ?」人工知能という学問は、その立ち位置をはっきりさせることが難しかったのです。それは現在でも変わりません。
僕はエンジニアとして人工知能をやっていますが、サイエンスでやっている方もいますし、人工知能学会に行くと基礎論、いわゆる哲学としてやっている方もおられます。人工知能の研究はかなり方向性が分かれるのです。しかし、それぞれが互いに結び合っています。
人工知能という学問の特別なところは、まず「基礎がない」ことです。正確には基礎を作ることが難しい、ということです。「知能とは何か?」という答えがわかったら数学的に理論を構築できるのですが、その問いは人間の根源的な問いとして巨大な空洞のままです。根底の基礎がない、実はこれは人工知能の最大の特徴です。基礎を構築することは、知能とは何か、という究極の問につながっている難題なのです。
次に、「境界があいまい」なこと。どこまでが知能か、他の分野がわからない。人工知能と情報処理、人工知能と最適化など、ほとんどの分野は、他の分野とオーバーラップしています。カーナビは検索技術ととらえれば情報処理ですし、人間に教えてくれる知能ととらえれば人工知能です。「オリジナルの技術は(ほとんど)ない」と言うこともできて、他の分野から集めた知識と技術を、知能という軸で再構成していると言っても良いでしょう。それは学問としては不思議な構成なのです。
人工知能の中心は「知能は何か」という問いなのですが、その真ん中の問いの答えが明確にできないために、とりあえず一旦は保留するしかなくて、とりあえず応用として、知的機能や知的に見える機能をどんどん作っているところがあります。
そういった中で、真ん中(知能は何か)に向かう人と、いやそんな問いは置いておいて検索エンジンやゲームを作って、おもしろい知能を作りたいという工学的な、周縁に向かう人がいて、この相反する運動が振動のように繰り返されてきたという歴史があります。
人工知能の周辺分野、隣接分野としては、数学、生物学、物理学、情報工学、制御工学、認知科学、心理学、現象学、哲学などがあります。人工知能は、ものすごくたくさんの学問と接していて、かつ中心が空洞のままなので、「知能とは何か?」という根源的な混沌の周囲に、それらの学問の知識がぐるぐる回っている運動としてとらえることができます。
研究の方法、経路としては、科学から入って工学的なものを作る、哲学から入って工学に抜けるといろいろなパスがあって、僕はこういうところが人工知能の広がりの魅力的なところだと思っています。だからこそ、人工知能が定義されにくい。科学と工学と哲学が相互に刺激し合って人工知能が発生してきたわけですから。
研究の方法も、外に向かっていろいろな知的機能を実装していくという方法と「知能とは何か」という本質をつかむために、ぐるぐる回りながらも中心に向かっていく方法があり、お互いに刺激しあって、人工知能の開発、研究が少しずつ進んでいっている、ということになります。

まとめると、人工知能の研究には2つの方向があり、ひとつは「人工知能の応用を目指す」という方向。推論、学習、予測、検索といった知的機能に限って実現を目指す、実装する。Googleの検索エンジンもこちらに入ります。80年代に流行ったのがこのあたりです。もうひとつは、「人工知能を通じて"知能とは何か?"を探求する」という方向です。知能の本質をつかむというのは、哲学的な活動ですが、これはあまり世の中に出て行かない知識です。今日はこちらをクローズアップして話していきます。

第2節 人工知能とは何か?
最初のステップとしてデカルトから始めましょう。「我思う、ゆえに我あり(コギトエルゴスム)」というところから始まって、疑いを通じて確立した「我」から確実な推論に従って世界を認識しようというのが、「方法序説」の最初に書かれています。基本となったのは、ユークリッド幾何学的な数学の形式を(それまで数学的なところだけにあったものを)、全学問分野に拡大するという姿勢です。それが近代学問の基礎となったわけです。
デカルトそのものよりも、デカルトの後継者たちが、そういった機械論的な、客観的な世界観でいろいろな学問を作っていきました。そういった客観的な対象から次第に人間の中にどんどん入ってくわけです。
「人間とは何か」というところになるのですが、身体図を見ればわかるかというとそうじゃない。脳の構造はわかってきていますが、だからといって、これが知能ですと言われてもわからない。
たとえば精神医学だと、こういう図を描きます。

無意識の上に意識があって、境界面に表象があって、身体があって環境がある。こういった意識と無意識はいろいろな部門で研究されていて、最初の人工知能は意識的な知能をずっと研究していました。環境と本当に結びついている無意識の部分は研究の対象にならなかった。意識の部分を対象にやってきた研究が、推論とか学習などに結びついています。
言語による人間の精神の構造化
無意識の部分がどうなっているかというところに哲学や知見が入って来ます。まず、言語によってある程度人間の精神は構造化されています。そういった言語が、外部から入ってくる情報をどのように解釈しているか、ということが問題となります。このあたりは言語学的なところから出ていて、有名なのがチョムスキーです。チョムスキーは言語を研究して来た人ですが、言語そのものではなくて、実は言語というものを通して人間の内部の認識の形を研究できるのだ、という立場をとっています。元になったのはソシュールの研究です。
世界の分節化
ここで、京都大学霊長類研究所の松沢哲郎さんのチンパンジーの研究を紹介します。
チンパンジーの研究をどうやるのかというと、生成文法という方法をとります。チンパンジーが、どういう分節、どういう区切りを世界に作っているかというのを見ていきます。たとえば「シロアリをつかむ」や「シロアリを棒で釣る」、「ヤシの種を台石に載せてハンマーで叩く」という観察された行動から、行動の対象物を取り出し、言語構造を階層化していく。チンパンジーは複雑な行動をどんどん学習していって、世界を分節化して知能を得ているんだと。
その知能のコードをどうやって表現するかというときに生成文法という形式を使って表現すると、とてもすっきりします。言語の構造が認識の構造につながっている、言語の構造と人間の概念、あるいは知能というものの表現はすごく肉薄しているのです。
このように、我々の知能というものは、ある程度言語的構造によって構築されているという視点がひとつあります。

そういうふうに、この言語ならぬものがどんどん言語になっていくというところが(ちょっと語弊があるかもしれませんが)構造主義の出発点となります。人間の精神でも、言語でも、社会でも無形なるものがある構造を持ち始め、その構造には必ず共通点があるのです。
ソシュールが最初に言い始めた「シニフィアン・シニフィエ」という話があります。まず、言語ならぬ「ある想念」があって、それがどんどん言語化されていくプロセスがある。さらに言語がネットワーク化されてひとつの知性を作っていくプロセスがあるという考え方です。
人間の場合とチンパンジーの場合では複雑度合いが違いますが、ひとつひとつチンパンジーの言語構造を調査し明らかにして行くことで、どういうプロセスでチンパンジーが言語によって知能を作っていくかということがわかるわけです。
知能全体の中で、言語によっていろいろな思考をしている(知性)部分と言語化のプロセスを行っている部分を「言語によって精神が構造化されている」部分とみなすことができます。
ソシュールが言い出したのは、語と語の意味するものをきちんと分けて考えましょうということ。彼は表現されるもの(シニフィエ)と表現するもの(シニフィアン)としました。キーワードとして「分節化」という言葉が出てきます。我々の知能がこの世界を見ている、たとえば「そこは電灯で」、「椅子が床の上に立っている」というのは、一見、言語をただ使っているように見えますが、我々が世界をそういうふうに切り取って見ているということ。
切り取った自分からは、それが自然に見える。しかし、必ずしも、そういうふうに切り取る必然性は実はないのです。人間という存在の在り方、心と体の在り方が、世界を都合よく分節化します。我々はその分節に従って言語を形成しているのです。ですから、地球の裏側でもあっても、あらゆる言語には共通の構造が存在します。

このように、人間は恣意的に世界を切りとっているというのが「世界の分節化」です。その文節の仕方というのが、知能が世界をとらえるあり方だというのがソシュールがいわんとするところであろうと思います。ソシュールの「一般言語学講義」(元となる講義は1906-1911年頃、講義ノートの形で20世紀半ばに刊行)は彼が書いたものではなくて、彼が大学で行った講義を受けていた学生が取っていたノートを出版するという形で世の中に出たものです。後から学生のノートをたくさん集めるという曰くつきですが、ソシュール抜きには現代哲学は語れません。
さらに「言語化された知能」から意識が浮かび上がってくるわけです。意識の下の部分を前意識といったりしますが、無意識の部分は精神医学の領域になっていきます。今日は、ここには踏み込みませんが、ラカン(フランスの精神医学者。現代哲学、数学を取り入れた独自の精神医学を展開する)などの精神医学の本を読むと、やはりソシュールのシニフィアン・シニフィエの話を軸に話が展開します。こちらは第四夜でお話しましょう(「人工知能のための哲学塾」p197〜参照)。
境界面
ここでは、これらの境界面に注目してみましょう。言語・非言語境界面、これは言語ならぬものが言語になるところです。前意識と無意識の境界が知覚の境界面、意識と前意識の境界が意識の境界面(表象)......というように、いろいろな境界面でいろいろな世界がどんどん浮かび上がってくるわけです。
何も判断しない、世界そのものがあるがままの世界が映っている(余談ですが、これを大乗仏教で「阿頼耶識」といいます)という状態が、まずあります。ここは判断がされていない。では、判断がどこから入ってくるかというと分節化の部分です。言葉にして、言葉のネットワークが作られることで知能が恣意的に世界を解釈することになります。これが現代の言語学が教えるところです。
いろいろな哲学者のプレイヤーがいますが、言語・非言語境界面のあたりがソシュール、知覚の境界面のあたりがメルロ=ポンティなど現象学の第2世代、意識の境界面より上の部分「意識って何か」のあたりは、近代では現象学の始祖フッサールが大きな影響をなしています。
多くのキーワードがあり、たとえば現象学で言う「志向性」という概念は、「意識というのは常に何かに付いている。我々の心は環境から切り離して考えることはできない。我々の内面から世界に向かって何かをとらえようする流れがあるということ」です。メルロ=ポンティの「知覚の現象学」(1945年)の中で、「我々は知覚によってこの世界に住み着いている」と述べています。これは第五夜でご紹介します(「人工知能のための哲学塾」p234〜参照)。
つまり、知覚というのは、知能の階層を示すピラミッドの下にあって、まるで木の根のように世界をつかんでいる。世界から認識を吸い上げている。その上にこのピラミッドがある。現象学というのは経験から学問を始めようというもので、経験を還元することでさまざまな原初的な経験に至ろうとする学問です。
さて、人の意識は「上が人の意識、下が無意識」のように図式化できますが、実は人工知能の研究は上をメインにしていました。というのは、人工知能はやはり西洋から始まっています。西洋は言葉に非常に重きを置いていますから、はじめに言葉ありき、つまり言葉による記号操作によって知能というものを実現させよう、というところがスタートだったのです。
エキスパートシステムも推論も、知識表現というのもここです。長い間、人工知能はそういう記号系の研究をしていました。僕もここを勉強しました。だけど、ここ(知能の上層部)だけでゲームの中の人工知能を作ってもおもしろくないのですね。なぜかというと、あまりにも感情に遠くて、どんなにカッコいい推論を作っても、どこまでも機械的です。なまなましいところがない。それにあまり強い敵ができない。
推論というのは、人間の一番ドンくさい部分なのです。記号操作というのは、人間の一番遅くてドンくさい姿勢なのです。生き物にとってこういった意識的な知能は、知能のほんの一部に過ぎません。環境と人間を結びつけ行為を生み出しているのは意識よりも、意識の下の隠れた部分なのです。

実はこの下の部分をふくめて考える人工知能を「生体学的人工知能」と言います。これは環境と身体の結びつきによって知能を考えようという立場です。この部分の知能を考えようよというのが、主に記号系だけで知能を作る限界が見え始めた80年代に出てきた動きです。この発想は、身体を持ち環境に住まう人工知能を作ろうとするときに必要とされる人工知能の領域です。
もうひとつ大きな流れがあります。いま見てきたのは、意識の中で世界というものが徐々に浮かび上がってくるというところなのですが、もうひとつ逆の方向に、意志があって、運動を形成して身体に命令を出す、という知能から世界へ向けた流れがあります。
実は、人間が見ている世界は、知覚される世界(知覚世界)と我々が運動しようとしたときに見える世界(作用世界)、この2つが重なり合っています。そういうことを研究したのが、ユクスキュルという20世紀前半に活躍したドイツの生物学者です。2つの見えている世界を合わせることで、その動物が見えている世界になる。それは、決してカメラが見ているような、客観的な世界ではないのです。これは第二夜で詳しく説明しましょう(「人工知能のための哲学塾」p87〜参照)。
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