MAIL MAGAZINE

下記からメールアドレスを登録すると、FUZEが配信する最新情報が載ったメールマガジンを受け取ることができます。


子守用ロボットに育児は可能か?対話型ロボットが引き起こしたパラドックス

IDEAS LAB
ライター福田ミホ
  • はてなブックマーク

2016年秋、サンノゼで行なわれた最新のロボット技術を集めた展示会「RoboBusiness」で、中国とアメリカを拠点とするロボット開発企業AvatarMindが、コンパニオン・ロボット「iPal」を発表した。The Guardianによれば、iPalは歌い、踊り、「太陽が熱いのはなぜ?」などの人間的な質問に答えることができるだけでなく、「大人の責任を引き受けるべく」作られている

AvatarMind創業者のジーピン・ワンは、「iPalは3〜8歳の子どもを2、3時間、大人の見守りなしで引きつけておくことができる」と語る。つまり、子どもが幼稚園や小学校から帰り、親が帰宅するまでの時間の相手役にぴったりだというのだ。

子どもと会話が可能なおもちゃはすでに数多く発売されており、代表的なのは人工知能を搭載したバービー人形「Hello Barbie」などである。ただしHello Barbieが発するセリフは(膨大ではあるが)ある程度固定的であるのに対し、iPalは「ほとんどの質問に答えられる」うえに、データベースに回答がない場合は人間の専門家がそれを引き継ぐことになっている。胸にはAndroidタブレットが埋め込まれており、それを通じて親とのビデオチャットも可能である。人のタッチを検知するセンサーや人の感情を推察する機能もあり、いろいろな点ではるかにインタラクティブである。

とはいえ、ロボットをベビーシッター代わりにするというアイデアには疑問の声があがっている。イギリス・シェフィールド大学でロボット工学と人工知能を専門とする名誉教授ノエル・シャーキーはiPalの存在を知り、「これはひどい(This is awful)」とコメントしている。シャーキーは2008年の論文「The Ethical Frontiers of Robotics(ロボット技術の倫理的最前線)」で、偽物のサルとしか接しなかった子ザルの実験では、子ザルの社会性発達に著しい問題が発生したことを指摘している。AvatarMindのアドバイザーであるマデリーン・デュバも、創業者のワンの発言とは矛盾するようだが、iPalは「ベビーシッターの代わりにはならない」と認めている。

このような意見が示すように、iPalまたは同様のコンパニオンロボットに対しては、人間の完全な代役となることを期待すべきではない。とはいえ現代の親たちは、どうだろう? たとえば仕事から帰宅後に夕食を作る間、子どもにタブレットなどを使わせたり、TVを見せたりすることが少なくない。「ロボットに子守をさせてはならないが、iPadで子どもを黙らせるのはいい」のだろうか。

さらに過去を振り返れば、たとえばかつて日本の農村では、子どもの世話をできない農作業中、嬰児籠(エジコ)という箱に乳幼児を詰め込んで安全だけを確保し、放置していることも少なくなかったという。両親も祖父母も、乳幼児の世話より農作業を優先せざるをえなかったのだろう。同様の子育ては他の社会においても見られ、農機具に子どもをつないでいたとか、幼い子どもにさらに幼い子どもの世話をさせていたと言われている。現代の先進国のように、大人が子どもの自由を奪うことなく常時見守れる環境が成立したのは、比較的最近のことである

現代でもたとえば中国の農村部では、親が都市部に出稼ぎに出ているために16歳以下の子ども約900万人が親と同居すらできない「留守児童」である。彼らの多くは祖父母や親戚と同居しているが、子どもだけで生活している者も36万人ほど存在する。

このように、「親が働かねばならない時間に子どもの安全をいかに守り、あわよくば教育の機会として活用するか」という課題はおそらく有史以来現代まで綿々と続くものであり、その解はそれぞれの家庭や社会が子育てに対し提供しうるリソースによって異なっている。一部の者が子どもを24時間大人の管理下に置けているからといって、さまざまな制約でそれを実現できない状況にある者を非人道的だと批難することは有意義なのだろうか。

そのように考えれば、コンパニオンロボットやその購入資金、それを開発した社会の知見の集積などは、子育てに使えるリソースのひとつと言っていいだろう。子どもを飽きさせずに対話できる機能、さらにビデオチャットによる見守り機能などは、生身の人間がそばにいる状況と比べればはるかに無機質だが、タブレットの延長と考えれば排除すべきものでもない。ただ従来のリソースと違うのは、それが今までにないほど「人間に近い存在」であり、そのようなものが子どもや社会に対して及ぼす影響を誰も測れていないという点だ。

そういう意味で問題は、こうしたテクノロジーの存在自体ではなく、その適切な使い方を我々が定義できていないことにある。つまりテクノロジーそのものの開発とともに、それらをどう使えばよく、どう使ってはいけないかについて、倫理や価値観を含めた議論が必要なのだ。前出のシャーキーは上記の論文の中でこう主張していた。

ロボット利用の限界を判断すべく、公共の議論が強く求められている。企業や忙しい親たちが判断を下してしまう前に。

「ロボットに子育てを任せるなんて」と頭ごなしに否定したり、遠ざけたりしているだけでは議論は深まらない。なぜロボットでは不足なのか、何らかの形で活用できるとすればそれはどのような形か、逆に必ず生身の人間が受け持つべき役割があるとすればそれは何なのか、社会全体で考えていく必要があるだろう。

#未来世紀シブヤ2017

100年後、「2017年の渋谷」はどんな姿をしているだろう?