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「他言語を学ばなくてもいい日」は来ない。言語と機械翻訳を改めて考えてみる | 人間編

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ライターabcxyz
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このシリーズ記事では、現在の機械翻訳が求められる意味と、そこから生まれる問題を紐解くべく、言語と翻訳をテーマに、人間アルゴリズムの別軸から2回シリーズで読み解いていく。

機械翻訳の質の向上はめざましい。最近それを理由に「もうじき他言語を学ばなくてもいい日が来る」といった意見を目にすることがある。

しかしそう考えるには問題がある。理由の一つは、それが「言語」も「翻訳」も理解していない言い分に思えるから。もう一つは、単純に現在の機械翻訳の問題に関する理由だ。機械翻訳の問題を語る前に、まず人間が使用する言葉について理解しなければならないだろう。本記事では、「言語」と「翻訳」に焦点を当てて、解説する。

この記事の執筆にあたって、ヘルシンキ大学の文学修士で言語学/翻訳学専門家のPetra Andoとの会話を参考にした。彼女の「村上春樹の小説のフィンランド語訳における翻訳ストラテジーの分析」についての論文はこちらで読むことができる(フィンランド語だが)。

話す言語で世界の見え方は変わるのか?

「よろしくお願いします」という日本語の言葉に該当する英語はない。これは、英語という言語文化には日本語の「よろしくお願いします」にピッタリと当てはまる概念がないからである。このように、言語にはそれぞれの国の文化や考え方が内包されている。どの言語の単語を拾いあげたとしても、そこには文化背景や歴史背景など言語にまつわるさまざまな要素が絡み合っているのだ。

ここまで読んで「ああやっぱり日本語は独特なんだ」と考えるのであれば、それは勘違いである。正しくは「すべての言語は独特」だ。言語は文化なしには語れない。言語は文化と互いに影響を与えながら生みだされ、共存していく。ゆえに、言語はその言葉が話されている文化が持つ考え方を内包しているし、その逆もまた真だ。

言語を学ぶことはある人物の世界を広げ、より多角的な物の見方を可能にする

Kolik jazyků znáš, tolikrát jsi člověkem.

あなたが理解する言語の数は、あなたの人生の数でもある。

チェコスロバキア初代大統領トマーシュ・ガリッグ・マサリク

「言語的相対論」もしくは「サピア=ウォーフの仮説」というものがある。これは映画『メッセージ』(テッド・チャン著『あなたの人生の物語』が原作)のストーリーの基礎にもされており、簡単に言うと「言語はその話者の世界認知に影響を与える」というものだ。この説には「言語が認知を決定づけるほど言語の影響力が強い」という見方(『メッセージ』にはこの考え方が用いられている)と、言語は「認知に影響を与えるが、言語がすべてを決定するわけではない」という見方がある。翻訳学専門家Petra Andoによれば、現在の言語学において「言語が認知を決定づけるほどの強い影響力はない」とみられているようだ。その理由はこうだという。

見方は一生変えられないものではないし、一つの言語を話すからといって皆が同じ見方でもない。言語は脳の根本にまでは影響を及ばさない。

でも言語が認知に影響を与えるという見方は、ある程度認められている

映画『メッセージ』本予告編
Video: Sony Pictures Japan/YouTube

「認知に影響を与える」ことの例を挙げよう。日本語話者の世界には「よろしくお願いします」と言わなければいけない状況が存在するが、英語話者が同じ状況に置かれたときには、何か言う必要を感じない。しかし、それまで英語話者として育った人物が日本語を学んだ後に同じ状況にあったとき(何語が話されている状況かは重要ではない)、「あれ? このタイミングで『よろしくお願いします』って言うべきじゃない?」と考えるようになる。それぞれの言語に独自の世界観と使用方法があり、それが考え方にも影響を与えるのではないか、ということだ。

端的に言ってしまえば、言語を学ぶことはある人物の世界を広げ、より多角的な物の見方を可能にするということである。これは、先に引用したマサリクの言葉に繋がる。

私の言語では「言い表せない」言葉

言語と文化が共に成長し続けると、「足りない言葉」も出てくる。新たな概念が見つかったとき、その言語における既存の言葉で言い表せないと、新たな言葉がもたらされる。その概念は使用する言語内から新たに見つかって生み出されるかもしれないし、ほかの言語とのふれあいの中からもたらされる場合もある。

前者としては、FUZEの記事「The Dictionary of Obscure Sorrows」名前のない感情を定義する辞書が好例だ。記事に書かれている辞書は、一人のアーティストがそれを表す言葉を持たないさまざまな感情を定義するために言葉を生み出すという作為的な試みだ。だが、このような新たな概念に名前がつけられる状況は自然発生的に生じることもある。特に新たな物事が文化にもたらされた場合だ。

たとえばパケット通信料金が想像を超える金額に膨れあがる事を指す「パケ死」という言葉などはいい例かもしれない(ITmedia Newsによる「パケ死」の定義が昔と今では変わってきているという指摘も興味深い)。また、最近アメリカ大統領ドナルド・トランプのツイートに記載されていたことで話題となった謎の単語「covfefe」は、多分「coverage」の打ち間違いであるにも関わらず、皆それを無視して新たな意味を見出そうとしている。これは言葉が先に存在して、そこに「ドナルド・トランプ」という文脈を元にした概念を当てはめようとする現象に思える。

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President Trump Pretends Like He Meant to Tweet 'Covfefe'| Matt Novak - Gizmodo US

ほかの言語と触れ合うなかで、ほかの言語にはあって自らの言語にない概念が見つかることもある。英語のオンライン辞書であるOxford Dictionariesの「word of the year 2016」の候補となった言葉は、デンマーク語で「いい雰囲気、心地よい環境で、仲のよい友達と楽しむ」などを意味する「hygge」という言葉だった。つまり、外来語だ。

So what is Danish hygge?
Video: VisitDenmark/YouTube
動画はVisitDenmarkより。さまざまなシチュエーションから「hygge」という概念を説明しようとしている

デンマークの観光組織VisitDenmarkによればこの言葉は「ポークローストと同じくらいデンマークらしく、デンマーク人の魂を照らすほど深く根ざしたもの」だそうだ。つまり、hyggeの概念を知らずしてデンマークを理解することはできないということである。それは同時に、外来語としてこの言葉を輸入したとしても、この言語が深く根ざしていない文化の中ではこの言葉の概念の再現性は低くなるし、デンマーク語とその文化を学ばずしてこの言葉を完全に理解することもできないということでもある。

「言語」というコミュニケーションの不確実性

そもそも、言語を完全に理解するということは不可能なのかもしれない。それがあなたの母語であったとしても。ある言語に付随する文化や歴史の全貌を知ることが無理だからだ。そうなると、その言語を母語とする者同士の会話にも問題が起こる。それは共通認識の精度の問題だ。

たとえば言葉を口にすることができるようになったばかりの幼児が「ママ」と言ったとする。この幼児は家族のコミュニケーションを観察して、母親であろう人物を「ママ」と呼んだ。これは家族間でのこの言葉の使われ方から、この人物が「ママ」と呼ばれていることを推測し、用い、そして正されない限りはこれを自分の中で正しい用法と考える。

しかしこの幼児にとっての「ママ」という存在は、「パパ」にとっての「ママ」とは異なる役割を持っているし、兄弟にとっての「ママ」とも同一のイメージではない。その言葉と関連する経験が個々人で違うからである。また、ある言葉に対してまったく同じ経験をしていたとしても、それをどう捉えるかによって言葉はそれぞれ違う性質をもつ。

自己の言葉の表層が、他人が考えるその言葉の表層とある程度噛み合っていれば、その言葉に対して共通の認識があると理解されてしまう。「赤い太陽」と言われたときにそれぞれの人が思い描く赤さや、太陽の像に違いがあることは容易に想像できるが、これをどれだけ細かく分析し、「赤はカラーコードで言うと#ff0000、太陽系の太陽で、富士山の頂上からX月X日X時X秒にこの方向から見た様子」などと指定したところで、それぞれの読み手が内面に呼び起こす概念のずれは完全に消すことができないだろう。また、そのずれの大きさを確認をすることも不可能である。

このように言語の理解というのは、曖昧なものだ。常に曖昧だから、翻訳しようとすると、それはさらに曖昧なものになる。

「他言語を学ばなくてもいい日」は来ない。言語と機械翻訳 第一部
Image: wolfram/Shuttterstock

翻訳とは

ドストエフスキーの『罪と罰』を日本語で読まれたことはあるだろうか? 誰による翻訳が一番だろう?

そんな質問が成立してしまうほどに、それぞれの翻訳版には差異がある。しかしあなたの答えた訳者名が誰であっても、それはドストエフスキーの書いたものとは違う作品だ。どんな腕のいい翻訳者に訳されたとしても、原本と同じ経験を与えるのは不可能なのである。このことは、これまで書いてきたことを理解していただければ想像に難しくないと思う。

フィンランド語の「脇の下に来て」は日本ではどういうメッセージか

スコポス理論」(Skopos Theory)というものがある。「スコポス」というのはギリシャ語で「意図」「目的」などを意味する。この理論によると、翻訳は元となるテキスト(ソース・テキスト)と翻訳先のテキスト(ターゲット・テキスト)の役割を考慮したうえで、訳者の意図を持って行なわれる。「翻訳する」という行為そのものが意図を持っており、ゆえにその意図が変われば翻訳も異なるのだ。つまり「ターゲット・テキスト」は、元となる「ソース・テキスト」の純粋な代表にはなれない。指向性をもった存在にしかならないのだ。

フィンランド語で「Tule kainaloon」という言い回しがある。日本語に直訳すると「腋(ワキ)の下に来て」となる。「腋の下」という言葉にどんな光景を思い浮かべるだろうか? ワキ毛、汗臭い、汗のせいで濡れてる、剃ってある、レーザー処理されてツルツル、デオドラントがつけてある...どんなものを思い浮かべても、腋の下に来いと言われるなんて、一体どんなシチュエーションだろうと考えてしまう。

実はこれはロマンチックな光景だ。ソース・テキストの意図を汲み取り、ロマンチックさを伝えるということを念頭に置いて日本語に訳すなら「腕の中に来て」となる。しかし、そうしたことで「腋の下」という言葉は消え、代わりに「腕の中」が現れた

ソース・テキストを直訳すれば、言葉一つ一つを日本語の該当語に変えることはできるが、正しい意図は伝わらなくなる。また、先の例ではソース・テキストの意図を汲みとってターゲット・テキストに当てはめたことで、言葉の一部が改変されることとなった。「訳注:フィンランド語では『腋の下』はロマンチック」と書き加えてもいいが、ソース・テキストの持っていた簡潔さは失われることとなる。

翻訳によって失われるものや生み出されてしまうものがでてくる

日本語のように尊敬語、謙譲語、丁寧語などを持つ文化と、それらを持たない文化とのコミュニケーションでは、ソース・テキストの文脈で敬語の差異がどれだけ意味を持つのかを、どうにかして伝えることも一つの重要な点となる。その場合にもやはり元の文章を完全に伝えることは無理で、翻訳によって失われるものや生み出されてしまうものがでてくる。

ヨーロッパの多くの言語で尊敬語に該当するのは、二人称代名詞「あなた」に相当する言葉かもしれない。そこが親しさに応じて変わるのだ。ドイツ語では「du」が親しい相手に話しかけるときに用いる親称、「Sie」が敬称となっており、フィンランド語では「sinä」が親称、「te」が敬称だ。他方、日本語の敬語は二人称代名詞だけでなく、その人物と話者の行動にまで影響を与え、単純な会話ですらヒエラルキーを示す。フィンランド語のように平等性のある言語では、あなたが仕事で訪れた先の若い社員に「Istu vaan」(座ってね)と言われることだってあるだろう。

ここで日本語とフィンランド語を理解する通訳者はどうこの文章を訳すだろうか?「座ってね」と日本語で言えば、まるで来客者を小馬鹿にしているように聞こえる。日本語のヒエラルキー関係を考えると、そう言えば意図を間違えられてしまうし、通訳者としての能力を疑われたり、下手をするとあなたが怒り出す可能性もある。そのためこの場合は「おかけください」と訳されることだろう。ここではこの文章を巡って意思の疎通に問題がみられないから、この何気ない着席を促す言葉は忘れ去られる。しかし、先方の社員は来客したあなたを対等な存在とみなしているにも関わらず(*)、その言葉が状況的に「適切」な訳を与えられたことにより、あなたは先方から尊敬語を使われる関係にあると考え、両者のヒエラルキー認識にずれが生じてしまう。これは、何をするにも言葉の行為すべてに立場を考えなくてはならない日本語に訳すことで、フィンランド語の持つ言語の平等性が失われるという例だ。

*フィンランドでは社長であろうが清掃員であろうが社会の中では平等な立場であり、言葉のうえでヒエラルキーが生じない。ただ、大統領など社会的に立場が違う人に話す場合には「Istukaa olkaa hyvä」(おかけください)などの言い方をすることでヒエラルキーを生じさせることができる。

「他言語を学ばなくてもいい日」は来ない。言語と機械翻訳 第一部2
Image: gwolters/Shuttterstock

伝言ゲームを信じられるか

「翻訳の意図」がどれだけ翻訳そのものに影響をあたえるか、一つ例を挙げよう。『ドナルド・ダック』のコミックのフィンランド版『Aku Ankka』(*)は、さまざまな国で制作されたドナルド・ダックのコミックを、フィンランド語訳したものを収録した子供向けのコミックだ。Petra Andoが参加した翻訳者セミナーでは、イタリア語版ドナルド・ダックをフィンランド語へと訳した翻訳者が「イタリア語版の冗談の質があまりにも低すぎて、フィンランドの『Aku Ankka』のクオリティーに足りなかったために、まったく新しい冗談を書かなくてはならなかった」と語ったそうだ。この例は「子供向けに質のよい作品を提供する」という、翻訳するためのそもそもの理由、つまり「翻訳の意図」により、一部の内容が完全に置き換わったケースだ。

*「Donald Duck」という名前そのものも帰化しているため、フィンランド名は「Aku Ankka」(アク・アンッカ)となっている。Akuはフィンランドの男性名、AnkkaはDuckと同じく「鴨」の意。「フィンランドの子どもたちは『Aku Ankka』によってフィンランド語が読めるようになる」と言われるほど人気があり、そのためにクオリティーも一定のレベルが保たれている(日本をレプレゼンテーションすることにおいては質が低いが。)
オススメ記事Disney Depicts Japanese Inappropreately フィンランドの『ドナルドダック』コミックで描かれてる日本人が適当すぎる|空耳フィンランド語!

伝言ゲームのように情報が欠けたり変わったりするのが翻訳

ここまで挙げてきた例からは、翻訳の意図、またそれを達成するための方法(翻訳ストラテジーとも呼ぶ)が違えば、内容がかなり異なってしまうこと、そしてソース・テキストとまったく同一の内容を伝えることはできないことがおわかりいただけたと思う。

このように、まるで伝言ゲームのように情報が欠けたり変わったりするのが翻訳である。そして、だからこそ「翻訳の翻訳」といった間接翻訳になればなるほど、ソース・テキストと内容がかけ離れていく。フィンランドのソフィ・オクサネンの世界的に有名な小説『Puhdistus』は、日本語版が『粛清』として早川書房から出ている。原文はフィンランド語で書かれた本だが、これは英語版から日本語版へと翻訳されたものもある。原文から翻訳がなされることで世界的に知られることになったわけだが、何度も伝言ゲームのような工程を繰り返すことで、原作の内容からは乖離していく。フィンランドでは以前、村上春樹の小説が日本語からでなく英語版からフィンランド語へと翻訳されていた。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』で初めて日本語からフィンランド語へ直接翻訳されたことで、文学者や翻訳者達の間では「ようやく出版社が間接翻訳よりも直接翻訳のほうがよいと認めてくれた」と喜ばれていた。

蛇足だが、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』には「ヘルシンキのナンバープレート」といった、舞台となった時代のフィンランドには存在しないモノが記されていたが、この明らかに間違っている部分はフィンランド語への翻訳の過程で削除された。同じように本作には「1960年代のタグ・ホイヤーの腕時計」も出てくるが、これも他国語の翻訳者に「当時はタグ・ホイヤー社はなかった」と指摘されている。このように、他言語への翻訳の過程を経ることで原書の間違いが判明することがあるのは面白いことだ。それに、翻訳版が原作と同じものにはなり得なくとも、翻訳版のほうが原作よりもよい作品となる可能性もある。この意味でもやはり翻訳版は元の作品とは別の作品といえるだろう。

言語を知らずに訳を理解できるのか?

「腋の下」の例に戻ると、翻訳のターゲットとなる読者が「フィンランドの文化では「腋の下」にロマンチックさがふくまれる」という理解をしているという前提があれば、「脇の下に来て」という直訳は成り立つ。「座ってね」の例でもフィンランド語が言葉の平等性を持った文化だと理解していれば、直訳が成り立つように思えなくもない。

では言語を学ばずとも、その文化への理解を深めれば、直訳したものを読むことで、原文が持つ意味を最大限保った文を理解することになるだろうか? そうなれば、機械翻訳が直訳さえできれば「もうじき他言語を学ばなくてもいい日が来る」ことになるだろうか?

それはない、と言い切れる。それは、ほかの文化を学ぶうえでも「hygge」のように自国語が持っていない価値観や考え方をふくんだ言葉が出てくるはずだからだ。複数の意味を持つ同音異義語や韻を踏むような文の雰囲気も、そのままの訳では伝えることができないし、アナグラムへの対応も難しい。「腋の下」とロマンスとの関係を文面ではわかったつもりであっても、その二つが恋しく切なく絡み合う光景を思い描いた経験なくしてはそれは正しい理解となりえないし、「座ってね」という日本語にふくまれる気さくさは「Istu vaan」の持つ雰囲気と同じにはなりえない。

「翻訳」ができるのは、要点を伝えること

これだけ翻訳についてネガティブなことを書けば、翻訳することには意味なんてないとでも言いたいのだろうと思われるかもしれない。しかしそうではない。翻訳は意味があるものだ。

言語を学ぶには時間がかかる。難しいとは言わないが、努力なしに容易くできることでもない。そして世界中のすべての人にその時間と労力があるわけではない。だから複数の言語を理解し、なおかつ翻訳がどういうことなのかを理解する人がこれを生業としてきた。翻訳業は世界でもかなり古い職業の一つだし、職業として存在する以前からも翻訳/通訳という行為は、異なる言語を話す民族との架け橋として用いられてきた歴史がある。

そんな「翻訳」ができることは、ソース・テキストの言語がわからない人に、その(翻訳意図に準じた)要点を伝えることである。

元の文章の持つすべては伝えられないが、それを翻訳しなければいけない理由に基づき、その要点を崩さないまま運ぶのが翻訳なのだ。では機械翻訳にこれができるのだろうか?

>>アルゴリズム編につづく

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