終戦から半世紀以上。渋谷という街こそが欧米の音楽文化を貪欲に取り込みつつ、日本固有の都市型音楽を生み出し続けてきた震源地だった―― 加藤和彦、大瀧詠一、シュガー・ベイブの山下達郎や大貫妙子、フリッパーズ・ギターなどと仕事をしてきた音楽プロデューサー、牧村憲一が今年初めて上梓した著作『渋谷音楽図鑑』における主張のひとつを乱暴にレジュメするなら、そういうことになるかもしれない。
そこでは、70年代におけるはっぴいえんど周辺のロック・カルチャーや、 90年代における渋谷系など、 50年以上にも渡る「都市型音楽」の歴史と背景がその当事者である牧村憲一の視点から活き活きと綴られている。
では、何故、渋谷だったのか。彼の著作『渋谷音楽図鑑』からは、そこにはいくつもの偶然と必然が複雑に絡み合っていたことが読み取れる。行政が牽引する都市計画や企業が推し進める文化政策と、それと相対するクリエイターたちの活動が時には衝突し、時には互いを利用しながら、固有のカルチャーを培ってきたということ。つまり、『渋谷音楽図鑑』という書物は、一人の当事者として牧村憲一が並走してきたポップ・ミュージックの変遷の歴史であると同時に、戦後半世紀以上に渡る渋谷という街の生成変化の歴史を綴った書物でもあるということだ。
街、そして、そこでの暮らしが音楽を生み出し、そこで新たに生まれた音楽が街の景色を変えていった。おそらくそれは世界中の大衆音楽、優れたポップ・ミュージックに共通する普遍のメカニズムでもあるだろう。では、現在の渋谷はどうなのか?
現在、渋谷という街は2020年の東京オリンピックの開催を念頭に、何度目かの大規模な再開発が進んでいる。
「土地というか街には捨てていいものと捨てちゃいけないものがあるんだけど、今はそれをせーのでぜんぶ捨てちゃってる」シブヤの生き証人、牧村憲一は分析する。「音楽にたとえれば、カットアウトではなくて、緩やかなフェードアウトにできるはずなんですよね」
本稿は、ポップ・ミュージックの歴史の書物である『渋谷音楽図鑑』を、都市の歴史の書物として読み直すという試みだと言っていいだろう。著者である牧村憲一と共に、実際に2017年の渋谷の街を歩きながら、今一度、「街と音楽の関係」を浮かび上がらせる。そんな企てだと言ってもいいかもしれない。そこにはどんな人々のどんな想いや思惑が交錯していたのか。では、まずは渋谷から少し離れた、戦後間もなくの原宿から始めてみよう。
60年代:原宿「戦後カルチャーの裏側に潜むアメリカの影」
「今日の裏テーマは、アメリカ文化の爪痕だと思います」そう語る牧村さんが今日の取材の出発点に選んだのは、原宿ラフォーレ前だ。
「現在の代々木公園一帯に、かつてワシントン・ハイツという米軍宿舎がありました。だから、この周辺にもアメリカの文化が部分的に残っていたんですね」
ワシントン・ハイツがあった頃、この場所には原宿教会というプロテスタントの教会が建っていたという。それだけではなく、周辺にはバーガー・ショップやコインランドリーなど、アメリカ人が日常で必要とするものがいくつも点在。60年代、都内でもこの一角にはアメリカ的な風景がひろがっていた。


「そういったアメリカ文化の名残が、ここで起こることのベースになっていくんです」と牧村さんが語る通り、ワシントン・ハイツが日本に返還された1964年4月には、マイク真木も参加していたMFQ(モダン・フォーク・カルテット)や、小室等のPPMフォロワーズなど、米国からの輸入音楽=フォークを演奏するバンドたちが原宿教会でコンサートを開催。アメリカ的な洋楽文化は、こうした土壌の上に花開いていった。
「僕らはいわばアメリカへの愛憎二筋世代なんですよ。20代の頃はアメリカの音楽やファッション、文化にものすごく憧れていながら、同時に日米安保反対でもあった。アンビバレンツなものがあって共存している。だから、なぜかここには郷愁と苦みがあるんです」
70年代:道玄坂「 花街に咲いた日本語ロック 」
続いて我々が向かったのは渋谷の道玄坂。坂を上る途中、右手に入ったところに広がる百軒店は、いわば渋谷における歌舞伎町的な位置づけの一画。1964年の東京オリンピック開催前後に大きな賑わいを見せたこのエリアは、どのように発展を遂げていったのか? その歴史には、都市開発の思惑と アメリカ文化の影 が入り混じっていた。
「西武の前身である箱根土地の堤康次郎が、関東大震災で被災した下町の名店を百軒店のあたりに呼んで街づくりをしようとしたのが始まりです。でも、震災後しばらくして銀座や浅草が復興していくと、店はそっちに帰って行ってしまった。前述のワシントン・ハイツは、もともとは陸軍の練兵所があったところです。軍のあるところには大人の遊び場ができるんですね。隣接する円山町は芸妓を抱える花街になったんです」
そんな百軒店の全盛期にはジャズ喫茶が何件も並んでいたという。 「200円くらいのコーヒー代を払って、あとは数時間ずっと目を閉じてジャズを聴くようなお店のことなんだけど(笑)」というジャズ喫茶は、もちろん収益性もよくない。しかし、このあたりは商業地ではなかったので土地代や家賃が安かったため 、経営は成り立っていたのではないかという。
「でも、70年代に入るとジャズ喫茶の人気が急速に落ちるんですよ。コルトレーンを失ったあたりから始まっていたのかな。集客能力が落ちてきて、『それなら、ロックだ』と」
そのような時代の移り変わりのなかで、1969年に百軒店に創業したのがロック喫茶〈B.Y.G〉だ。
「当時はまだロックをやらせてくれるような店も限られていました。そこで、はっぴいえんどやはちみつぱいが出演していたのが、この〈B.Y.G〉なんです。ここは店内も昔のままですね」


ただ、牧村さんいわく、70年代の道玄坂の音楽文化を支えたのは、坂をさらに上ったところにあったヤマハ渋谷店の方だったという。
「ここには楽器と楽譜があって、ミュージシャンを大事にしてくれる店員がいました。週末になると、学生バンドでも、デビューしたてのバンドでも、1階の売り場でライヴやらせてくれたり。あと、この上の会議室をつかって、細野晴臣さんがベース教室を開いたこともあったんですよ。実際は一度もベースを教えなかった、っていう話がありますけど(笑)。すきなレコードをかけて、細野さんの話を聞くという感じだったらしいですね。百軒店のほうは暗い、その暗闇に入っていくおもしろさがあったけど、ヤマハはそれとはまったくちがう明るい場所でした」
しかし、そんな道玄坂も、公園通りが生まれ、宇田川町にレコード屋が出来始めると、だんだんと集客力が落ちていく。
「このあたりは連れ込みホテルが立ち並ぶようになり、音楽の匂いがしない地域になっていったんです。そういう地域で音楽主体の店をやることは、大変だったんじゃないかな。でも、今は通りを挟んでいますがヤマハ渋谷店のあったところにクラブができ、音楽のあった場所には、また音楽がやってくるんですね」
ヤマハ渋谷店が入っていた新大宗ビルの地下には、今では渋谷を代表するクラブのひとつ〈サウンド・ミュージアム・ヴィジョン〉が入っている。「必ずある時代に栄えるところは、その前の歴史がある」というのが牧村さんの持論だが、じつはここにも目に見えない歴史の集積があった。

70年代:公園通り「企業の都市開発を背景に生まれた、日本版“サン=ジェルマン=デ=プレ”」
道玄坂の百軒店は、西武の前身=箱根土地の都市開発によって発展の契機を迎えた。そして、その後も、渋谷は西武グループが牽引する形で「劇場化」が進んでいく。1973年、西武の手掛ける渋谷パルコがオープン。そのパルコをひとつの象徴として、渋谷は瞬く間にカルチャーの中心地となった。
「勤労会館で卓球をやるしかなかったような公園通り、元の区役所通りが、いきなり文化的な雰囲気になったんです。きっと西武とパルコが仕組んだ街づくりだったと思うんです。今もってその裏付けが取れないので、あくまで推論ですけど」
公園通り沿いに今もある東京山手教会の地下には、パルコの建設より一足早く、渋谷ジァン・ジァンという小劇場がオープン(1969年7月)。芝居も歌も詩の朗読もなんでもありだったこの空間を吉田拓郎らフォーク・シンガーが満杯にし、五輪真弓といったシンガーソングライターを次々に輩出し、おのずと若いミュージシャンの登竜門となっていく。
「一時期ジァン・ジァンは、夜10時くらいにお客さんが捌けたあと、レコーディング・スタジオとしても使われていたんです。僕がCMディレクターになって間もない頃、大瀧くんがここにシュガー・ベイブのメンバー3人を呼んで録ったのが、三菱ジーガムのCMソングでした。シュガー・ベイブと大瀧詠一の初CM仕事は、ジァン・ジァンの地下で行われたんですね」
教会の地下に多目的ライヴハウスがうまれ、その近くにはフランス風の喫茶店ジローもオープン。そして、パルコの建設などの開発もあって、公園通りは発展を遂げていく。そうした街並みの形成に、牧村さんはパリのカルチャー・スポット、サン=ジェルマン=デ=プレを連想していたという。

「堤清二はパルコと西武をつなぐこの通りの道を、一種の仮想サン=ジェルマン=デ=プレみたいなものにしようとしてたんじゃないかなと。ここにくれば文化と一緒に遊ぶことができる。そういうのをイメージしてたんじゃないかと思いますね」
しかし、そのシンボル的な存在だったパルコも老朽化で2016年8月に閉鎖。いまやこの周辺は当時の面影すらない状況だ。
「こんなに変わってしまった通りもないですね。元々この公園通りは本当になにもないところだったんですけど、そこがパルコを中心にガラッと変わって、今はそこからまた大きく変わろうとしている。二周しちゃった感じなんです」
80年代:原宿「都市計画とクリエイターたちの有機的なコミュニティ」
時計を進めて、もういちど話の舞台を原宿に戻そう。ワシントン・ハイツ返還以降に培われた洋楽文化の土壌もあってか、原宿界隈は80年代にもクリエイターたちの拠点となっていく。しかも、その形成には当時の渋谷の都市計画を牽引していた西武グループの介入もなし。これまで見てきた例とは異なり、あくまでもそのコミュニティは自然発生的なものだった。
「こういうコミュニティって、やっぱり金勘定でつくれるものではないんですよね。その時代のキーマンのまわりに人が集まり始めて、それがまた大きな輪を作っていくんです」
その当時を象徴する建物が、原宿セントラル・アパート(現在は建て替えられて東急プラザ)。カメラマン、コピー・ライター、アート・ディレクターといった職業の才能あふれる人々が、次々とこのセントラル・アパート内に事務所を設立。いわばここはクリエイターたちのサロンだったのだ。

「僕がここの7階に引っ越してきたのは、1978年の11月。その頃にはすでにみんなの憧れるような世界がこのなかに構築されていました。当時は、アパート内でほぼすべての仕事ができたんです。たとえば『あのアルバム、ジャケットはどうしよう? 写真は鋤田正義さんにお願いしようか』という話になれば、電話した1分後には鋤田さんが登場してくれる。とにかく前段がいらないんですよね。ひらめいたことがすぐに実現できるスピード感と、共有できるセンスがあるから、最初の発想がどんどんいい意味で転がっていって、クオリティの高いものに行き着くんです」
セントラル・アパートから表参道を5分ほど歩くと、今度は同潤会青山アパート(現在の表参道ヒルズ)が見えてくる。アメリカ文化に影響をうけた人々がセントラル・アパートに入ったのと同様、この鉄筋コンクリート構造の古いアパートにもさまざまなクリエイターたちの事務所が並んでいた。
「セントラル・アパートは常に満杯で、家賃もそれなりに高かった。そこで代わりになったのが同潤会アパート。ここにはムーンライダーズのオフィスも入っていたから、僕もこの距離をよく行き来してましたね。そしてここから宮益坂上のほうにもう少し歩くと、RVCレコードがあった。僕の仕事場と人脈のほとんどが、徒歩15分圏内にあったんです。なにかしらのコミュニティを持つためには、歩いていける距離というのが重要なんですよ」
しかし、そんな理想的にも思えるクリエイターたちのコミュニティも、最終的には都市開発の波にのまれて終焉を迎えてしまう。海外の音楽シーンで言えば、NYのブルックリンやイースト・ロンドンと同じように、流行の地域となって地価が高騰することにより、文化が経済に押しつぶされてしまったのだ。
「僕がセントラル・アパートに入居していたのは正味4年。最後の一年は追い出しとの戦いでした。地上げ屋が入ってきちゃったんです。で、あんまりうるさいんで、契約期間を残したまま出てっちゃったんですよね」


90年代:宇田川町「90年代レコード文化の中心地を、その歴史的地層の深さから考える」
「この記事を読む若い人たちにとっては、自分たちがよく知っている場所だし、僕が語るよりもっと思い入れいっぱいの方がいると思います」と言って牧村さんが案内してくれたのは、宇田川町だ。宇田川町と言えば、日本が世界に誇った90年代レコード文化の中心地。だが、その歴史を紐解いてみると、やはりそこにもアメリカの影がある。このあたりは、通り一本で在日米軍施設のワシントン・ハイツとつながっていた。
「このへんの古道具屋さんや質屋さんにはアメリカ人が残していった家具やレコードが売られていたんですね。アメリカ軍が宿舎をつくると、そこで必要とされる街づくりになる。で、そこからアメリカ人が出ていくと、今度はそこで残されていったものが、新たな街を作るんです」
また、宇田川町という地名が示唆するように、この辺りにはもともと川が流れていた。そういった土地の特性も、固有の文化の形成に影響を与えたのではないかと牧村さんは考えている。
「この一角はもともと川を埋め立てた場所だから、簡単に高いビルも建てられない。せいぜい建てられても(現在ではHMVが入っている)ノア渋谷みたいな8階建てくらいでしょう。こういった文化的、地理的背景を踏まえると、駅からも遠かった宇田川町にちっちゃなレコード店が、多く分散するのは、そんなに不思議な話ではないと思えるんです」


その圧倒的な音楽情報量の密集度を背景に、「音楽オタク」たちによる都市型ポップスのムーヴメント=渋谷系の土壌にもなった宇田川町。その全盛期には、このあたりを歩いていると、10人のうち8人くらいはどこかのお店のレコードバックを持っていた、と言っても過言ではなかった。
「ノア渋谷だけでも多いときはレコード店が4~5室あったんじゃないかな。そのなかにはカジヒデキくんや現〈ビッグ・ラヴ・レコーズ〉の仲真史さんがバイトしていた〈ZEST〉というレコード屋さんもあったんですけど、今そこには〈BOY〉という音楽も扱っているお店があるようですね。そしてこの近くにある〈マンハッタン・レコーズ〉は、〈シスコ〉撤退後もずっと続いている、今でも指折りのレコード店。ここはレコードの街なんですよ」
90年代:ファイアー通り「レコード屋という“コミュニケーションの場”を潰したもの」
文化は経済に押しつぶされてしまう――80年代の原宿セントラル・アパートで見られたその構図は、奇しくも渋谷のレコード・カルチャーにも当てはまる。この話を聞く舞台に我々が選んだのは、原宿から渋谷方面へと明治通り沿いを歩いていく途中にある、ハイファイ・レコード・ストアだ。ハイファイがこの場所に店を構えたのは2001年で、それ以前は旧ファイアー通り沿いにあった。創業は1982年。30年以上にわたって渋谷の移り変わりを見守り続けている老舗レコード店である。
「当時のファイアー通りにはセレクト・ショップが多くて、お店の考え方が品揃えに反映されてたんです。もちろんハイファイもそこにこだわっていて。レコードを意識的に掘る人たちは、そういった文脈を共有できるお店に通っては、そこで店員さんにオススメを訊ねるんですね。ただレコードを買うだけではなくて、ある意味文化的なコミュニケーションの場でもあったんです」


しかし、そうしたレコード屋の空気にも少しずつ変化が生まれてくる。そのきっかけは、レコード会社がタワーレコードやHMV、ヴァージン・メガ・ストアなどの店内のスペースを買い取り、試聴機なども置くようにもなったことだという。
「今言われている渋谷系が勢いを持っていたころです。乗り遅れたレコード会社が、どうやって逆転しようかと。それでスペースを買ってしまったんです。本当はコミュニケーションの場だったのに、それをモノを売る場に変えちゃったんですよ」
そうした影響もあって、コミュニケーションの場としてのレコード店は徐々に街から姿を消していくことになる。
「あれが間違いの第一歩でしたね。こうしてハイファイのように昔と変わらない姿勢を貫いているお店があるから説明できることなんです。原宿教会みたいに面影も残っていないところは、やっぱり説明がなかなか難しい。この差は大きいですよ」
2010年代:渋谷「これからのシブヤに必要なものは何か?」
渋谷という街では、行政が牽引する都市計画や企業が推し進める文化政策と、それと相対するクリエイターたちの活動が時には衝突し、時には互いを利用しながら、固有のカルチャーを培ってきた。しかし、そうした歴史の舞台となった場所は、今ではほとんど失われてしまった。大半がその面影すらない――それが今回の企画で改めて浮き彫りになったことでもある。冒頭に引用した、大規模な再開発が進む現在の渋谷に対する牧村さんの懸念は、その事実認識に基づいている。
「今の渋谷で起きていることって、これからすべての都市が直面することですね。その土地というか、その街には捨てていいものと、捨ててはいけないものがあるはずです」
歴史は切断されるべきものではなく、受け継がれるべきものである。なぜなら、先人の知恵と努力とアイデアの集積の上にこそ、素晴らしい未来は築かれるのだから。『渋谷音楽図鑑』の根底に流れるのも、そういった牧村さんの考えだ。
「『渋谷音楽図鑑』はノスタルジックに書いたつもりはないんです。『新しい音楽を作りました』と言ったら、『それって本当に新しいの?』と返ってくることがある。『どこかでそういう曲を聴いたことあるよ』って。でもそれでもいいんです。『過去の遺産を引き継いで、より完成度の高いものにしたらどうかな?』というのが、僕がこの本に込めた思いです。どこかちょっとでいい。既視感を残すことによって、どの世代にとっても語れる場所にしておくということが、これからの街づくりには重要なんじゃないかな 」
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原宿〜表参道(ワシントン・ハイツ、セントラル・アパート、同潤会アパート)道玄坂(BYG)公園通り(山手教会)宇田川町(Manhattan Record)ファイアー通り(Hi-Fi Record Store、現在は明治通り)
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目的と価値消失
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