< Prev 「落合陽一さんインタビュー1:コンピューターも人間も大差ない。人工知能の時代の知性とは?」
「みんなiPhoneによって社会が変わったと勘違いしてるでしょ。AppStoreだよね、変えたのは。ソフトウェアなんですよ。だってアプリが手に入らなかったらスマホなんて誰も使わないわけですから」
メディアアーティストで筑波大学助教の落合陽一さんの提唱する魔法の世紀、デジタルネイチャー。それが実現した世界で、人間はどんなふうに生きているんでしょうか? 来るべき世紀を恐れず、手放しに夢見るでもなく、鋭い思考と冷静な情熱をもってその先を見据え続ける彼の想像を語ってもらいました。
すべてはソフトウェアになっていく
落合陽一(以下、落合): アップルがAppStoreをiPhone 3Gのときに出したことで、世の中が変わり始めたんです。「魔法の世紀」に書きましたけど、象徴的機械が終わったあとの時代、デジタルネイチャーの基本概念はソフトウェアなんですよ。ハードウェアじゃなくて。IoTだってそれが本質なんだけど、頭ではわかっていても意外とみんな象徴的なものに目がいってしまうなあって思うんですよね(笑)
ハードウェアストラクチャーがソフトウェアストラクチャーに移行するっていうことは、すでに起こっています。21世紀最大の不動産サービスはAirbnbだけど、Airbnbは家を1軒も所有してないし、Uberだってタクシーを1台も所有してない。ハードウェアを所有しているはずの企業から、ハードウェアがなくなったんです。
落合: それはあらゆる所有の概念に対して発生しうる変化で、次はレストランにくると思います。今でもチェーン店では、ある店舗で材料が足りなくなると隣の店舗からスタッフが持ってくるようなことをやってます。それは中央のオペレーションが指示していて、中の材料や人はきわめてソフトウェア的に動くんです。
ありとあらゆるソフトウェアに人間が入るようになる。この次は、ロボットを人間が運転するようになるんじゃないですかね。極端な例だけど今、ルンバって自動化されてるけど、ごみ取りとかやりにくいでしょ(そこを人間がやる)。あと犬のお守りするルンバとかいてもいいですよね。人が入ったロボットが見守る社会。見守るのに人間ほど全部が揃った身体いらないしね。で、犬のお守りするルンバ(の最適解)ってきっと隣のおじいちゃんなんですよ、ヒューマンコンピュテーション的な考えでは。そしたら人工知能の隙間を体外離脱した人間が仕事として行なうようになるんじゃないですか? 職奪う論の一つのアンサーだと思います。
―― 人間をひとつのコンピュータと見なすヒューマンコンピューテーションの世界では、レストランの中央オペレーターが自身と切り離された人材の動きをデザインするのとは違って、オペレーター自身も含んだネイチャー全体をデザインする必要がありますよね。それは作り手にとってどういう難しさがあるんでしょうか?
落合: 自分自身を含めたネイチャーをコンピューテーションするのって、じつはきわめてよく起こっていることなんですよ。一番良い例は、自分でやるRPGゲームをデザインしてみること。優しすぎるとつまらなくて、厳しすぎるとはまらないから難しい。それが、個人の体験がどんどん虚構化していくことにつながります。
デジタルネイチャーでは、「俺友だち多いよー」って言ってるうちの95%がbotだったりするはずなんですよ。そうなってきても、お互いに齟齬なく暮らせる世界なんです。たとえば喧嘩した嫁さんとの仲直りを双方のbotが謝りながら代わりにやってくれるとかね。そうなったときに、もう人間とコンピューターの区別は、少なくともTwitter上とかだったら絶対につかない。僕のtwitter、ほとんどの時間はbotですし。
そうやって、人間であること自体の価値っていうのはどんどん下がっていくと思います。人間かコンピュータかって比較で価値を出すことの意味のなさにその後気づくと、「ああ、それでいいか、肩の力抜いていいか」ってなると思うんですよね。そこから先がたぶん楽しい。
重すぎる「身体」
落合: そうやってあらゆるものがソフトウェア化していく中で、人間の身体性の議論はだんだん崩れていくと思います。「私がいまここにいる」っていうことに価値がなくなってくるからです。むしろ私が今どこにいてもいいことにもなる。そうなったときに、身体ってなんなんだろうと。
例えば、新幹線に乗って身体は物質的に移動しているんだけど、VRヘッドセットによって精神はもう会議室についているような状態が容易に想像できます。会議の最後に、物質的な身体が送られてくるので握手して飲み会に行けるみたいなことですね。アルコールで肝臓をいじめたり合理的な判断を下せなくなった脳味噌を楽しむには身体が必要だから。つまり自分の精神が、遅れてやってくる身体を待つことになるんです。そしたら身体ってのは重たい物体にすぎない。
自動運転になったらもっと顕著になるはずです。身体を輸送することと、精神が作業することが乖離し始める。もちろん我々は今はそういうような価値観では動いてないです。精神と身体が一致している状態で、すべてのサービスを体験している。でも、きっと身体が重くて邪魔くさくて精神のほうが早くむこうに行ってしまうようなことは、あらゆるところで実践されるし、実践できるはずなんですよね。
実際、僕は老人ホームに入ることがあれば重くて動かない身体よりも視覚や聴覚だけを切り離して世界中旅したいし、自由にいろいろなところに行ってみたい。ひょっとしたらさらにそこに触覚もつくかもしれない。そうなったら自分を身体に閉じ込めておくのはすごく寂しいなって思う気がする。ルンバに入って隣の家の犬の面倒見てて小遣い稼ぎできるなら、そうしたいしね。

落合: デジタル計算機の中のデジタル計算処理ってそもそも個体差をなくすための技術なんです。電圧がいくらであろうと2値に切り分けて0と1で表現するから、アナログ値はすべて切り捨てて単純に数と桁、速度だけで議論しましょうっていう。これがあらゆる文化にインストールされていったわけです。
そう考えると、軍隊教育って極めてデジタル的だし、ソフトウェア的なんですよ。全員同じ戦闘隊員に落とし込んで、インストール、シェアする。個体差があり過ぎると戦闘単位の計算が難しいから、各ユニットごとになるべく同じような個体をそろえることに価値がある。
今の教育だって、どんな業種に就いても結局はどのソフトウェアを入社後にインストールするかだけの問題ですよね。日本の教育は、心身のハードウェアについてはデジタル的な特徴の人間を作ってきたんです。個性を均質化して、インストールの手順を簡単にする。それが、イノベーション主体の時代に飛び出た才能を産まなくなったのが問題なだけです。強烈な個性を作る教育も必要だけど、均質化された精度の高い人々はそれよりも多くの数必要だから、要はそこのバランスを時代時代で計算していきましょうっていうことだと思います。僕は今大学で、完全に尖った人を育てるにはどうしたらいいか考えて実践してみてるけど、そんな人々は1%いれば充分じゃないかな。
こういう話をすると善悪論になるから嫌いなんだけど、はっきり言って個性なんてなくたっていいわけですもんね。俺はプラットフォーム型人類って呼んでるんですけど、女子大生の70%くらいはそうだったことがあるんじゃないですか。CanCamとか読んでみんな同じ格好して、量産機のかっこよさみたいなのはあったよね、ガンダムのザクみたいな。そのなかで赤いシャアザクみたいな読者モデルがいる。ザクのなかでもかっこいいザクがコレクションに出てるからみんな憧れることができた。CanCamがインストールされてる人は、AneCanにアップグレードしても、他のインストールしてもいいですし。Macの話で言ったらBoot Campもできるしね(笑)
溶ける「現実」と多様化する生き方
落合: そうそう、最近「現実」っていう言葉をやめて、「宇宙」って言ってるんです。なんでかっていうと、現実って人間がとらえるから現実なんですよ。

落合: 人によってリアリティって違うし、あとものによっても違う。もはやリアリティっていう主観的な表現が溶けそうなんです。むしろ全部が主観的な表現だから、それだとこの現実が定義できないんです。だからより脱人間的な視座に立って、宇宙ですね。
―― 私が現実って言ってる現実と、イーロン・マスクが現実っていってる現実はぜんぜん違うでしょう。ただコンピューターがもし現実って言ったら、それはすべての宇宙を指している?
落合: そうですね。そういう意味で「貧者の仮想現実(バーチャルリアリティ、VR)」っていう概念はきっと生まれると思います。サンフランシスコに住んでる貴族はみんな好きなことやって、この世界がまるでバーチャルリアリティの世界であるかのように好き放題に暮らしてるんだけど、他の人たちはそれを夢見るために段ボール(簡易型VRゴーグル)をかぶるっていう状況。「現実逃避」みたいなものです。段ボールか、もしくは数万円のハードをかぶって毎日過ごして、時間つぶして一生を終える。でもそっちが楽しいから、この世界でただの労働単位でいたとしても別に苦じゃない。だって、この世界で自己実現する必要がないんですもの。この考え方ってどんどんシェアされてる気がする。それを問題にした映画も最近出てきたじゃないですか。

―― 体験を実際にできないから、VRで体験するということですか?
落合: そう。VRで体験する。VRっていまは両手離しで喜ばれてるものなんだけど、将来それが加速していってやがて問題になるだろうなあって思いますね。テレビより没入感があるうえに、個人に提供してくれる。意外と人間の歴史の中では最低ですよそれ。完全にマトリックス。でもね、それが最低じゃない価値観に移行するかもしれないし、選択しちゃう人は多いよ、たぶんね。
だって、誰もが主体的に自己実現していかないといけないようなマッチョで人間性をすり減らす世界観ってかなり疲れるじゃないですか。僕は人間性を削っていくことが好きで気持ちいいからやってるけど、多くの人はそんなに好きじゃない。しかも無駄な努力や環境破壊も多いかもしれない。
そして、人間中心主義が崩れていくっていうことは、多様な価値観を生んでいくってことです。何かを成し遂げることより、清貧な、そして慎ましく地球を破壊せず暮らしていくことのほうが重要だという価値観が生まれてくるかもしれない。そうなったら貧者のVRは有利だよ、だって質量もないし身体もない、データとソフトウェアの世界で自己実現していくことはロハスだし、環境に優しいし、競争主義じゃないし、何より個人の幸せに寄り添う世界だからね。清貧の意味がVRで再定義されていくのかもしれませんね。
「UNCANNY VALLEY (2015)」 by 3DAR:VRジャンキーを描いたショートムービー。タイトルのUNCANNY VALLEYは「不気味の谷」「落合陽一さんインタビュー3:インターネットに墓石は置けるか?」 > Next
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