ゲームのナラティブって何?
おそらく多くの読者にとって「ナラティブ」という用語は耳慣れないと思うのですが、ゲーム業界ではここ数年、急速に浸透してきた概念だったりします。今年の3月14日から5日間にわたって、米国サンフランシスコで2万7000人近くの参加者を集めて開催された、ゲーム開発者会議「Game Developers Conference(GDC)」でも、ナラティブを専門に議論する「ゲームナラティブサミット」(今年は第4回目)が開催され、全21本の講演やパネルディスカッションが行われました。
このナラティブを用いた議論は2000年代以降、欧米のゲームアカデミズムの間で、物語論を巡る研究から生まれてきました。ひらたくいえばRPGやアドベンチャーゲームのような、ゲーム特有の物語体験に関する研究です。
これが2010年代に入り、学術研究の枠を越えて、ゲーム開発者の間で広く議論されるようになりました。この主要なきっかけの一つが、2013年にGDCで初開催された「ゲームナラティブサミット」でした。

しかしこのナラティブ、詳しくは後述しますが、実は「ゼビウス」をはじめ、日本のゲーム業界が1980年代から無意識のうちに活用してきた手法だったりもします。しかも、企業の宣伝やマーケティング活動など、ゲーム業界を越えて応用できる手法でもあり、すでに多くの事例が存在します。たとえば、「ビックリマン」のヒットの背景にもナラティブを応用したプロモーションの手法がみてとれます。ユーザーが無意識に点と点をつないで線(=ストーリー)を作るように仕向けるコンテンツを作ることは、ナラティブの典型的な活用事例の一つだからです。
そこでGDCでの議論をもとに、あらためてナラティブの解説とゲームにおける実例、そしてビジネスへの応用について考えてみたいと思います。
ナラティブ=
「ストーリー」+「ストーリーを語る技法」
朝日新聞社のインターネット用語辞典「コトバンク」で「ナラティブ」について検索すると、
文芸理論の用語。物語の意。1960年代、フランスの構造主義を中心に、文化における物語の役割についての関心が高まった。その過程で、「ストーリー」とは異なる文芸理論上の用語として「ナラティブ」という言葉が定着した。(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より)
という解説が表示されます。
詳しい説明はそちらに譲るとして、ポイントは我々が通常用いている「ストーリー(=物語)」とは別に、「ナラティブ」という概念が存在すること。そして現実社会において、医療・公共政策など、さまざまな形でナラティブが登場することを、ぼんやりと理解してもらえればOKです。
その上でナラティブについて説明してみましょう。フランスの文学批評家のジュラール・ジュネットは、ナラティブを「ストーリー」と「物語言説(ストーリーを語る技法)」の融合だと定義しました。ここでいうストーリーとは、「最初から最後まで時系列でつながる一連の出来事」です。

例として「桃太郎」について考えてみます。桃太郎の「ストーリー」は「桃から生まれた桃太郎が成長し、犬・猿・雉を従えて鬼ヶ島にわたり、鬼を退治して宝物を持ち帰る」というように、「時系列でつながる一連の出来事」として構成されています。
一方で「桃太郎」の物語も、神の視点(三人称視点)、各キャラクターごとの視点、はたまた退治される鬼の視点と、さまざまな視点によって変化するでしょう。また物語の終わりから冒頭へと、時間軸を逆転させた形で叙述することも可能です。このように「ストーリーを語る技法」には、語り手や時間軸といった要素がふくまれます。
ゲームでしか体験できない「物語」とは何か?
さて、それではこのナラティブが、なぜ今になって(海外の)テレビゲーム開発で注目を集めてきたのでしょうか。そのためにはゲームの歴史について振り返る必要があります。
1970年代:アナログゲームからデジタルゲームへ

1980〜1990年代:ハードウェアの多様化とスペックの向上

2000〜2010年代:いつでもどこでもゲームで遊べるように

逆説的ですが、ゲームにとってストーリーは必ずしも必要なものではありません。「テトリス」のようにストーリーがなくても大ヒットするゲームは多数存在します。
一方でゲームと映画や小説などとの最大の違いが、プレイヤーの操作によって進行すること、いわゆるインタラクティブ性です。映画や小説は体験者がコンテンツを受動的に楽しむメディアですが、ゲームでは能動的に進めなければ展開しません。そのため、ゲームに物語性を組み込む上では、常に「プレイヤー視点での設計」が求められます。そこでは自ずと「ゲームならではの物語体験」が求められることになるでしょう。
しかし、1980年代から90年代にかけて、コンピュータの性能にはまだまだ限界がありました。そのためゲームの物語表現も、パズルなどの仕掛けをクリアしながら決められた物語をなぞっていくものや、選択肢によって分岐していくものなど、いくつかの手法に留まっていました。そこでは物語は既存ジャンルからの借り物にすぎませんでした。
それが1990年代後半から2000年代に入ると、技術進化によって状況が大きく変化します。「ウルティマオンライン」(1997年)のように、サーバ上で数万人が同時に楽しめるMMO(大規模同時接続型)RPGはその一つです。また「グランド・セフト・オート」シリーズのように、広大なゲーム内世界を舞台に、さまざまなミッションが同時多発的に展開し、プレイヤーが自由にゲームを進められる、オープンフィールド型ゲームの登場も革新的でした。
これらのゲームには従来のような決められたストーリーラインがありません。にもかかわらず、プレイヤーは濃密な物語体験が得られます。では、こうしたゲームをどのようなフレームワークで捉えるべきだろうか......。こうした議論が海外のゲーム開発者や研究者の間で、徐々に高まってきました。
インディゲームで、ナラティブがブームに
もっとも、ゲームと物語の間には大きなジレンマがあります。展開の多様性を求めるほど、開発コストが増えるのです。1本道のストーリーを途中で分岐させると、それだけ開発コストがかかります。しかもプレイヤーによっては、片方のルートをクリアしたところで満足して、やめてしまうかもしれません。オープンフィールド型のゲームに至っては、桁違いの(それこそ数十億〜100億円超)開発費がかかります。
ゲーム制作は、物語展開の多様性を求めるほど、開発コストが増える
とはいえ、ゲームの開発費の多くはシナリオによって増加するグラフィックの制作費であり、アーティストの人件費です。だったら物語体験のユニークさだけを追求することで、開発費を抑えた斬新なゲームが作れるのではないか......。こうした動きがインディゲーム開発者の間で生まれてきました。
こうした背景のもとで、2012年にテキスト表現が一切ないアクションアドベンチャー「風ノ旅ビト(Journey)」がPlayStation 3で登場し、世界中で大旋風を巻き起こしました。
開発はThatgamecompanyという、学生が中心になって起業した米国のスタジオです。翌2013年には架空の社会主義国家の入国管理官となる、個人制作のアドベンチャー「Papers, please」がブレイク。これによって全世界のインディゲーム開発者が色めき立ちました。
まとめると、ここには、
- ゲームには従来のメディアにはない、新しい物語体験を提供できる可能性がある
- その可能性は技術革新によって広がり、2000年代にブレイクした
- インディゲーム開発者でも実現可能になった
という流れがあります。では、この「ゲームならではの物語体験」とは何か。それをどのように定義して議論するべきか。そうしたときに格好の枠組みとして再発見されたのが、ナラティブだったのです。
前述のようにナラティブにはストーリーを語る技法という要素があります。これはプレイヤーの能動的な操作によって異なる物語体験が得られるという、ゲームのインタラクティブ性と相性が良さそうです。
というわけで2013年に開催された第1回ゲームナラティブサミットでは、ナラティブに関するさまざまな議論が展開され、まさに百花繚乱状態でした。
このムーブメントは現在も続いており、斬新なナラティブを提示したとされる実写アドベンチャー「Her Story」(行方不明になった男性の妻への事情徴収とデーターベースの検索で推理を進めていくサスペンスゲーム)が、ゲーム開発者の投票ベースで贈賞される「Game Developers Choice Award(GDCアワード)」でナラティブ部門とイノベーション部門の部門賞に輝くなど、高い評価を受けています。 それは、一見無意味な複数の情報をストーリーによって理解しようとする脳の仕組みに根ざしているのです。
また、時間を巻き戻す超能力を得た少女が主人公の「Life is strange」がGDCアワードでオーディエンス部門を受賞。さらに物語体験を重視したオープンフィールドRPG「The Witcher 3: Wild Hunt」がGDCアワードの大賞(ゲームオブザイヤー)に輝くなど、ナラティブ重視のゲームは海外のゲーム開発者の間で、依然として高い注目を集め続けています。
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