渋谷という街がその姿を常に変化させていくなかで、この街とミニシアター文化の関係も少しずつ形を変えてきた。あらためて口にすることはなくても、考えてみると渋谷はミニシアターの街だ。上映中の映画を探せば、無意識のうちに渋谷の片隅にある小さな映画館たちにたどり着くことは少なくない。久しぶりに足を運んでみると、そこにはもう別の建物があったりして、もの寂しい気持ちにもなる。だが、今も数々のミニシアターがひっそりとしかし確かに存在し、カルチャーの源泉となって息づいている。
もしもあなたがその作品を観たことがあっても、渋谷という不思議な街に人工的な郷愁を馳せながら再生ボタンを押せば、いつもと一味違ったテクストを感じられるかもしれない。
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ハッピーアワー濱口竜介(2015・日本)
渋谷には「自分ではない何者か」になることを求めてやってくる人が多いように思う。
本作は、30代後半に差し掛かった4人の女性の人生模様を通じて、「今の自分は、本当になりたかった自分なのか」という不断の問いかけを観客に与え続ける。5時間半というとても長い尺であるが、観客の情動をダイレクトに揺さぶる強度を持った作品であり、この作品を観ることで「自分ではない何者か」になるための糸口が見つかるだろう。
恐怖分子エドワード・ヤン(1986・台湾)
1980年代の台北を舞台にした、孤独に生きる人々の群像劇であり、台湾の巨匠、エドワード・ヤン監督の出世作でもある。
渋谷と、エドワード・ヤンの撮る台北は酷似している。両者ともに、騒々しいけれどどこか素っ気ない無色透明な空気が流れる街であり、また孤独を抱える人々が行き違う街である。エドワード・ヤンは生涯、台北を離れることなく、台北を自らのミューズのごとく撮り続けたが、最も台北への愛が溢れているのは本作であると思う。彼のように、慈しみと愛情を持って渋谷を撮り続ける監督が現れて欲しい、と切に願う。
ポンヌフの恋人レオス・カラックス(1991・フランス)
渋谷のミニシアター文化を代表する本作は、渋谷で流行したのがある種必然であると言って良いほど、とにかくオシャレで、エモーショナルな映画だ。フランス映画の永遠のミューズ、ジュリエット・ビノシュと、筋肉隆々でありながら、どこかナイーヴな佇まいのドニ・ラヴァンが花火とボウイをバックに踊り狂うシーンで涙をこらえるのはいささか難しい。2017年の今でも全く色あせることないオシャレさを湛える本作を渋谷で観ることで、1990年代当時にこの作品を目撃した観客たちの熱狂ぶりを追体験することができるだろう。
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