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31990年代、オルタナティブの始まりと終わり

Zeebra、自身の血肉を形づくる90'sヒップホップシーンを語る

ARTS & SCIENCE
ライター渡辺 志保
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1995年にラップ・ユニット、キングギドラとしてアルバム『空からの力』でデビューし、その後も「THE RHYME ANIMAL」や「BASED ON A TRUE STORY」など力強いソロ・アルバムを発表してきたZeebra。自身の音楽活動のみならず、最近ではクラブとクラブカルチャーを守る会の会長としての活動や、「BAZOOKA!!! 高校生RAP選手権」、そしてテレビ番組「フリースタイル・ダンジョン」などでも活躍し、90年代から現在に至るまで、常にアクティヴィストとしてヒップホップ・シーンの拡大に務めてきた人物だ。本稿では、渋谷や六本木のストリートを中心に90年代のヒップホップ・シーンを体感し、牽引してきた氏に現場感覚溢れる話を聞いた。結果として、Zeebra自身が90年代ヒップホップをマッピングしたような、既存の文献等では伝わらないような貴重なストーリーとなっている。

90年代以前:ヒップホップを受け入れられない80年代日本

——今回は、90年代のシーンのことをメインに伺っていきたいのですが、まず、1980年代後半から90年代にかけて、ご自身はラッパーとしての活動を始め、かつアメリカのヒップホップカルチャーがすごく盛りあがっていた、という時期だったと思います。当時のシーンをどのように振り返っていらっしゃいますか?

Zeebra(以下、Z):まず80年代は「ヒップホップは明日終わる」なんて言われていました(笑)。来年はヒップホップなんかもうねえよっていう時代なんですよね。

——一過性のブームでしかない、と。

Z: そう。一瞬で終わるものだっていう風に。だって、ヒップホップカルチャーって、ラップは歌でもないし、そこらじゅうにグラフィティもかいちゃう。ブレイキンはアクロバティックだし、DJはレコードも直接いじる。普通の人たちは「ふざけるな」って思ってたと思うんですよ。当時のアナログレコードって、こうやって(レコードの淵を丁寧に両手で持ってターンテーブルに置く仕草)丁寧にレコードを扱いながら聴くような感じだったでしょ? だから、レコード盤をゴシゴシ擦るということ自体、どうなのか?と。そんな雰囲気だったから、俺なんか当時はもうハナから「変わり者」みたいな扱いだった。

——そうだったんですか。

Z: 自分たちの周りの何人かが好きだったからアレだけど、一般社会では「この人、何で首から時計下げてんの?」みたいな。

——Public Enemy(パブリック・エナミー)のフレイヴァー・フレイヴみたいな感じですね。

Z: 「何なのこの人…なんでジャージで歩いてるの?」とか、そういう感じ。実は俺、19歳くらいのときに「対人赤面症」みたいのになったことがあるんですよ。

——それは意外です。

Z: ヒップホップが好きなヤツらとしか話してなかったから、それ以外の人とは話せなくなっちゃって。そのとき、ちょっと別の仕事とかもしていて、接客しなきゃいけないのに顔が真っ赤になってしまって。自分を追い込んで何とか仕事をできるようにしていきました。それくらい、俗社会というか普通の世間からかけ離れた感覚でした。

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——Zeebraさんは、もともとディスコ系の先輩たちと一緒にいたそうですが、ディスコのシーンの方々からしてもヒップホップは異質なものだったんですか?

Z: 「お前、きったねえ格好してんな」っていつも言われてましたね。その頃、六本木のディスコは綺麗な格好じゃないと入れてくれないから、Gパンにスニーカーなんか着てたら入れない。だからそこに居場所がないなと感じてきて、「渋谷のほうが居場所あんなあ」と思って渋谷に移動しました。当時、渋谷にはまだクラブがなかったうえに、ディスコは県外の連中が中心でダサかった。だからディスコには行かず、街でたむろしてたな。深夜の渋谷にはほぼ何にもなかったんだけど、センター街だけ明かりが煌々としてるから、「最後はセンター街に行くしかないな」って溜まりだす。そういう感じでしたね。

——それは90年代のことでしょうか?

Z: いや、85年、86年くらいのこと。

——90年代の頭にもかぶる話だと思うんですが、その頃登場したクルーには、Boogie Down Productions(ブギーダウン・プロダクションズ。以下、BDP)とか、Native Tangues(ネイティヴ・タン)などがいます。彼らはアーティストとして活動すると同時に、思想的な表現も含めたヒップホップというイメージがありますが、Zeebraさんはそんなアーティストたちにどのようにアプローチしていったのでしょうか。

Z: 自分のアイデンティティ自体をそこから見いだしていったというか。はじめはヒップホップの「音楽」や「カルチャー」の雰囲気が好きで入っていくんだけど、どんどん80年代後半のヒップホップーー本場アメリカのヒップホップがすごく「アフロセントリズム」になっていくなかで「みんな黒人の話だけしてるわ!」って気がつきました。「これは、なかなか俺らには入っていけないわ」ってことになるわけです。そこで自分が壁にぶつかって「俺がしてることはアメリカの黒人の真似なのか? でも、真似で収まるほどのものじゃねえんだけどな」みたいな葛藤が生まれました。それがだんだん、自分の中で再構築されていったんです。たとえばアメリカ社会の問題について、「アメリカでクラック(=ドラッグ)が流行ってます」と言う場合、じゃあ日本の問題はなんだろう?って考えるようになる。すると、日本でもちょっとシャブにハマっちゃう子がいたり、ガン(銃)はないけどナイフを持ってるヤツはいたりするな…みたいな。俺は、チーム(註:当時、チーマーとも呼ばれた不良グループ)とかは、高一くらいのだいぶ早いうちに卒業しちゃったから、そのときは比較的おとなしい時代だったんだけど、その後チェーンソーを持ってるヤツとかもいるような時代もあったんですよ。

そうやって考えていくと、「場所や物自体は違えど、抱えている問題ってのは同じだ」と感じました。アフリカ系アメリカ人がアフリカ回帰(註:1910年代、ジャマイカ出身のマーカス・ガーベイによって広く唱えられ、ボブ・マーリーなどへも影響をもたらした思想。アフリカから無理やり連れてこられた黒人たちは全てアフリカに帰るべきと唱えられ、KRS-One(KRS・ワン)らも、この思想をベースにアーティスト活動を行なっていた)を唱えていたとき、日本人としてはどう考えるべきなのか?と。こじつけで、大きな話をしちゃえば「すべての祖先はアフリカだ!」みたいな考えもあるかもしれない。そもそも、アフリカ系アメリカ人がアフロセントリズムを謳うのは理由があって、彼らのバックグラウンドには、スレイヴリー(Slavery=奴隷制)があり、自分たちが意図しない形で生かされている、と。「俺たちにとって、それは一体何なんだろう?」って考えたときに日本人は第二次世界大戦で負けて、アメリカ軍に全部なんだかんだ法律も決められて、いわゆる白人至上主義的なヨーロッパ、アメリカの存在が絶対的だったわけですよね…それって、完全に属国じゃないですか。だから、そういう風に他国にいいようにされているっていう感じをそのままトレースしていきました。

——そうして「俺もラップしよう」というモチベーションへと繋がったというところに、ロマンを感じました。

Z: 一番はじめはただ「ラップをやってみた」って感覚でした。DJ Jazzy Jeff & The Fresh Prince(DJジャジー・ジェフ&ザ・フレッシュ・プリンス、フレッシュ・プリンスは、現在のウィル・スミス)が「Parents Just Don't Understand」を出したころくらい。16歳のときにやってみたくなっちゃって。あの曲の真似みたいな英語のラップを一回書いてみたんだけど、そのときの俺は、韻を踏むということもわかっていませんでした。でも、ラップってたまに同じような音を2回続けてるな…みたいなイメージがなんとなくあって、結果的に、リリックでは2、3箇所くらいは韻を踏んでたのかな(笑)。

Video: DJJazzyJeffVEVO/YouTube

——かなりフレッシュなエピソードに聞こえますね。Zeebraさんが押韻と遠いところにいたとは。

Z: その後にちゃんと、ライミングっていう言葉も知って、「あー、そういうことだったのか!」と気づいて。「全部、韻を踏んでるのか! わかっちゃったー!」って。リリックを全踏みで書いたのが17歳で、それは初めてニューヨークに行ったときでしたね。

——17歳でいきなりニューヨークへ。

Z: もう、ヒップホップが好きすぎて、向こうがどんなもんなのかやっぱり一度は見てみたい、とにかく行きたいと思いました。友達が向こうの高校に行ってたから、一ヶ月半くらい、そこの家に転がり込んで。そのときに、まずニューヨークという場所にやられたというか。

——特に80年代後半のニューヨークって、今とは違いますよね。

Z: まだまだ治安も悪いしね。23時すぎになると、ブロードウェイでもクラックヘッドとかホームレスがそこらへんでクラック吸ってるし、「クレイジーなんだなあ」と。これは自伝でも言ってるんだけど、そんな状況下でも、DJ Red Alert(DJ レッド・アラート)の番組でKRS・ワンがホームレスのためにデモのパレードをやるっていうのを、「お前らみんな来い」と言っていて。とにかく「ラッパーに会えるなら行ってみたい」と思って、そのデモに行ったら「俺の大好きなラッパーが皆いる! 」みたいな。そこでは、元ホームレスでもあったKRS・ワンはやっぱりリーダーシップを取っていましたね。たしか、5thアベニューをロード・ブロックして、そこでデモをスタートしたんだけど、なかなか始まらないわけよ。そしたら業を煮やしたKRS・ワンが「始めるぜ」とか言って勝手にBDPの一派だけ、6、7人で歩き始めちゃったの。

——そのとき、何かサウンドは鳴っていたんですか?

Z: 何にもないです。「Home For Homeless!(ホームレスに家を!)」って言ってるだけ。「あ、行っちゃった」と思っていたら、そこに中学生くらいの黒人少年3人くらいがタタタッってKRS・ワンを追いかけて行って、「俺も!」と思って追いかけました。向こうにいた日本人の女の子の友達と、その団体をフォローしながらみんなで「Home For Homeless!」って歩いて、「何だこのシチュエーション!?」と興奮して。

——非常にヒストリカルですね。

Z: 当時の日本では、若い人がやるデモって、かつての学生運動の時代くらいからなかったから、俺らはそういう経験をしていなかったんだよね。デモをやっていたマンハッタンのど真ん中って、当時からしても世界の文化の中心だった場所。そこをロード・ブロックして、メッセージを伝える、しかもそれを、ヒップホップが中心になってやってるってことに「すげー!」みたいなね。「これを日本でもやりてえ!」と思ったのが、「ラップを本気で書こう」と思った瞬間です。

90年代の始まりとヒップホップカルチャーの加熱

——そして、いよいよ90年代がスタートすると同時に、Zeebraさんもラッパーとしてのキャリアを積み始め、DJ OASIS(DJオアシス)さんと組み、K DUB SHINE(Kダブシャイン)さんとの出会いがあってキングギドラを結成しますよね。それまでKRS・ワンやフレッシュ・プリンス、Rakim(ラキム)などは、Zeebraさんにとってレジェンダリーかつお手本たるラッパーたちだったと思うんですよ。でも、90年代に入ってプロのラッパーとしての活動を行っていくということは、ラキムたちの後に出てくるNas(ナズ)やJay-Z(ジェイ・Z)らは自分の同期みたいなものじゃないですか。アメリカのラッパーが自分たちと同じ土俵にあがってくるみたいな、そういう感覚はありましたか?

Z: もちろん。「来た、こいつタメだわ」みたいな感覚はありましたね。それまで、(アメリカのラッパーたちは)ちょっとお兄ちゃんだったから、その兄貴たちの背中を追ってるような感覚でいたんだけど、本当にビギー(The Notorious B.I.G=ノトーリアス・B.I.G、以下ビギー)は一個下、タメがSnoop Dog(スヌープ・ドッグ)、2PAC(2パック)、Method Man(メソッド・マン)とかで、彼らが90年代前半から中頃にかけてウォーっと出てきた。俺が一番、食らったのは2コ下のナズが94年にリリースした『illmatic』。それこそ当時、K DUB SHINEがオークランドに住んでいて、俺がちょうどオークランドを尋ねていたときにリリースされた。もちろんリリース日にレコード屋が開くのと同時に入って買ったんだよね。

——ちなみにその頃、もうすでに「今度、デビューアルバムを出すナズって新人がヤバいぞ」という情報は東京でも広く認知されていたんですか? それはMain Source(メイン・ソース)とのシングル「Live at the Barbeque」の評価が理由なのでしょうか。

Video: Vilosophe/YouTube

Z: それもそうだし、その前に『SOURCE MAGAZINE』で5本(註:当時、ソース・マガジンのアルバム・レビューはマイクの本数で得点が示されていた。マイク5本は最高評価)を獲得していたし、とにかく、みんながリリース前から大騒ぎみたいな感じでした。あと、12インチの「It Ain't Hard to Tell」や「Halftime」も出てたし。アルバムを買って、早速聴いたら一曲目のイントロがいきなり映画『WILD STYLE(ワイルド・スタイル)』のシーンで。本当にゾクゾクしたし、今思い出しても、涙が出そうになる。あそこで使われているのは(劇中で)主人公のゾロが家にいるところに、兵役に行ってる兄貴が家に帰ってくる。そしたら部屋中がグラフィティだらけで「お前何やってんだ? 俺は国のために戦ってきたのに、お前はこんなことのために家にいんのか? 馬鹿野郎!」と兄貴に言われるシーンがあるんです。「いや違うんだよ。ここには何にもないんじゃなくて、これがあるんだ」というゾロのセリフで、「Illmatic」がスタートする。話しながらウルウルしてきた(笑)。多分、俺もナズも10代のはじめに『ワイルド・スタイル』を観ちゃって、それで「すげえ!」とヤられちゃった、みたいな。だから本当に、ナズは俺と同じ世代。同じモノを同じタイミングで見てきた、という感じがしたんだ。

Video: drjohn/YouTube

——その分、ヤラれちゃいますよね。

Z: もう、そうなんですよ。

——Zeebraさんはキングギドラとして95年に『空からの力(註:キングギドラのデビュー・アルバム。以下、ソラチカ)をリリースする、と。当時、アメリカのヒップホップのシーンを言葉だけでトランスレートするのではなくて、思想やスタイルも何とか一緒にトランスレートしていこう、という思いや自負はあったんですか?

Z: キングギドラ時代は、とにかくそれをやらなきゃダメだって考えていて。俺は、ヒップホップはブレイキンから入ったけど、DJをやってた時間が長くて、感覚も昔からDJ的感覚というか。一人のアーティストだけをずっと聴くのではなく、とにかくいろんなアーティストを聴きたい。それに、一発屋とかB級、C級のキャラの人たちもいるじゃないですか。俺は、そこまでひっくるめて好きだった。だから「日本でヒップホップが普通に、当たり前になってほしい」というのをすごく考えていた。どちらかというと「我々がヒップホップをやってもいいという理由を作らなきゃ」っていう感じだったかもしれないです。

あとはやっぱり、時代だね。80年代のヒップホップは思想がベースだったけど、90年代に入って、さらに92年くらいでヒップホップのストリート化がまた進んでいって、荒れ始めていった。それまでは「ストリートが荒れているから、ヒップホップが世直しをしよう」っていう姿勢だったんだよね。でもそれが、92、3年くらいになってラフになってきて。そのときのラフさっていうのはガン(銃)ではなくNaughty By Nature(ノーティ・バイ・ネイチャー)がバットを持っていたような、素手を使ったりする「男の子」としてのラフさ。クリミナルやバイオレンスというよりも、やんちゃな闘いって感じですかね。そこは俺も「すげぇ、アリ」と思って。「男の子なんだもん、喧嘩していいじゃん」って気持ちでした。そのときの代表格がONYX(オニックス)とかですね。モッシュして「ウワー!」みたいな。いっぽうで、Wu-Tang Clan(ウータン・クラン)が出てきて。

——『Proteect Ya Neck』ですからね。

Z: だってさ、ウータン・クランとか「中近東の人かな」くらいな感じで、顔もぐるぐる巻きにしてたもんね。ゴースト・フェイスだって顔ぐるぐる巻きで、なぜかというと、あのとき彼はたぶん指名手配中だった。なのに、PVに出ちゃったものだから顔がわからないようにしていて。当時面白かったのが、93年か94年くらいに、「ニューミュージック・セミナー」っていうコンベンションみたいなのがあって、それはヒップホップだけじゃなく、当時のクラブ・カルチャーっぽい音楽が、全部わーっと参加していたんですよ。その会場に俺も行って、ライブを観てたら、途中向こうから女の子に「No、No!」と言われて必死に引っ張られながら大股で出てくるヤツがいて、それがOl' Dirty Bastard(オール・ダーティ・バスタード)だった。そのまま、いきなり誰かを見つけてボッコボコにしてて…。

——その女の子は仕込みではなかったんでしょうか…?

Z: 全然仕込みじゃないです。もう「やめてやめて!」みたいな。そこで、「オール・ダーティ・バスタード、半端ねえわ」と思いました。当時、俺はシーンが骨太になっていく感じが好きだった。その頃はラッパー自身も80年代の影響を受けているから、根は真面目っていうか。まだヒップホップのバックグラウンドがあった時代だから、メソッドマンとかラフな感じはあってもヒップホップの枠からは外れていなかった。それが90年代の面白さですね。

Video: DopeBanger Tv/YouTube

——80年代後半から90年代前半のヒップホップカルチャーを支えたひとつのメディアとして、MTVで放送されていた『Yo! MTV Raps』という番組があります。そしてZeebraさんもそこにご登場されていました。そのときのエピソードをお聞きしてもいいですか?

Z: ある日、マンハッタン・レコードに行ったんですよ。その頃、まだできて1、2年くらいの頃だったんですが、そこで「Fab Five Freddy(ファブ・ファイヴ・フレディ)が来るぞ! みんなで日本をレップしよう」みたいなフライヤーを見つけたんですよ。「『Yo! MTV』の撮影が来るって、マジか」と。フライヤーには、日本のラッパー、DJ、ダンサーとか、ヒップホップのシーンでちょっと名前の出てるヤツらがズラーっと羅列されていました。その頃、我々(キングギドラ)はまだ何者でもなくて、ちょっとデモテープを配り始めたかなくらいの感じで。一応、フライヤーを確認したけど、当たり前のように自分たちの名前はない。「まあ誰も知らねえからな、しょうがねえけど」って感じだったけど、「でも、これは出るしかなくね? とにかく、これに出ないと話にならないよ、とにかく行こう」と。撮影の日までに、その場で渡したり配ったりするためのデモテープを作ろうってことになりました。ただ、俺らはいつも「ギドラ入り」(註:本番ギリギリに現場に到着すること。キングギドラの面々は度々時間に遅れて集まることから生まれた言葉)だから、前の晩からギリギリ昼くらいまで作って。そのあと、また集まって会場のJAVA-JIVE(ジャバジャイブ)っていうスクエアビルの地下のクラブに降りてみたら、まだ撮影クルーも誰も来てないない状態でした。「まだいいか」って、その頃いつも行ってた1FのゲーセンでUZI(ウヂ)とかと遊んでいました。「遅えな、そろそろかな」と思ってふと外を覗いたら、外苑東通りのほうから、ファブ・ファイヴ・フレディが一人でこっちに来たんですよ! いつものあの鳥打帽みたいなのを被って、レイバンをかけてました。すぐに声かけて「俺ら、キングギドラっていうグループなんだけど、キングギドラって知ってるか?」って聞いたら「えっ!? なに?」という反応で。そこで「ゴジラに出てくる金色の龍、わかるだろ」って説明したら「ドープだ!」って。「俺ら3人組の金色の龍で、アジアをレップしてるんだ」みたいなことを言いました。「俺たちはまだアンダーグランドだから誰も知らないかもしれないけど、日本で一番ヤバいから、インタビューしないと絶対後悔するぜ」って言ったら「わかった。インタビューする」と。

——英語を話せるというアドバンテージは大きそうですね。

Z: それはめっちゃ大きかったね。しかも、俺たちの英語は普通の英語じゃないというか。聞けば、「こいつら、自分達と同じバックグラウンドだな」ってわかるような英語というか。だから、それは強かったと思います。

——『YO! MTV Raps』に出た反響は、国内外からありましたか?

Z: 超ありました。それこそ、MTVは日本だとちょっと時間が経たないと見られなかったけど、ハワイとかに住んでる友達から「出てたー!」って連絡が来たね。その前に、オニックスが日本に来たときに、Sticky Fingaz(スティッキー・フィンガズ)とJam Master Jay(ジャム・マスター・ジェイ)と、俺とK DUB SHINEとで遊びに行ったのね。MTVでも最後のほうに「Yo! Big Shout Out to Sticki Fingaz」って言ったりしていたから、あの後、どこかでスティッキー・フィンガズに会ったときにもその話ができました。

——Zeebraさんが90年代を代表するラッパーたちの中で、実際に会って印象的だった方は誰でしょうか?

Z: 俺がトロットロになっちゃったのは、やっぱりKRS・ワン。そもそも当時、ゴールドのチェーンの奪い合いや暴力をなくすために、メダリオンていうレザーのアクセサリーをぶら下げるようになった時期があったんですよ。アフリカのマークが入ったものくらいしか売ってないから、俺は自分でオリジナルのヤツをいっぱい作ってた。東急ハンズに行って、自分で皮に穴を開けて、文字も彫って、色を塗って…みたいに。KRS・ワンのライブの日は、BDPってヤツをつけて行ったの。しかも、片面は当時KRS・ワンも好きだったラスタ・カラーになっていて、もう片面はセカンドアルバムのジャケットみたいな白黒の模様になったリバーシブル仕様のヤツ。で、それを作って、川崎の「クラブチッタ」でのライブのときに、客席の最前列でぶら下げて見せた。そしたらKRS・ワンも「おおー!」となって、そのまま俺の手からメダリオンを取って、それをつけたままライブしてくれたんです。そのあと、会場で出待ちして「さっきのあれ、渡したの俺です」「おお、そうか!」って超喜んでくれた。そのとき、俺がラスタ・ハットみたいなのをかぶっていて、「それいいな、くれ」と言われてハットを渡したら、「Stop the Violence Movement」の帽子をくれて。もう、悶絶! 「師匠ー!」って感じ(笑)。

日本のヒップホップシーンに訪れた変化

——でも、そういうことをできてしまうのがZeebraさんの行動力というか、信念をもって追いかけているからこそな気がします。私はZeebraさんの楽曲を聞いて育った世代ですが、Zeebraさん世代のヒップホップ・リーダーたちが日本にもいてくれたというのは、日本におけるヒップホップ・スピリットの継承という点において、間違いなく影響を与えていると思います。

Z: 俺の世代はみんなそうだよ。英語分かるかわからないかでちょっとだけ理解度の違いはあったかもしれないけど、みんなそういうことを意識していた。たとえば、YOU THE ROCK★(ユウ・ザ・ロック)も俺と同い歳だけど、彼もKRS・ワンが師匠だし。俺と彼とは生まれも環境も全然違うんだけど、同時代にヒップホップ好きになると、やっぱ、共通した気持ちになっちゃうというのはあるかな。

——たとえば、今のストリートでは、「Kendrick Lamar(ケンドリック・ラマー)が新曲を出した」というと、日本にいようとどこにいようと、瞬時にSNSなどを使って「この曲の、このラインがやばい!」みたいな思いをすぐに共有できるじゃないですか。当たり前ですが、当時は違うわけですよね。そのときって、たとえば「A Tribe Called Quest(ア・トライブ・コールド・クエスト)の新しいアルバムが出た」とか「ラキムの新しい12インチが来た!」というときには、どうやってみんなとドープな気持ちを共有していたのかな、と。今の子たちにはその感覚がわからないんじゃないかと思います。

Z: そうだね、おばさま連中じゃないけど、とにかくクラブやレコ屋で死ぬほど「井戸端会議」みたいなのをしてた。だいたい、週に2、3回はレコード屋に行く。だって、昨日出た新曲を知らないのは悔しいもん。当たり前なんだけど、今やiTunesやそのほかのファイル形式であれば、誰でも曲を登録してリリースできる。だから新曲が無尽蔵にあるでしょ? でも、当時は12インチとかCDとか、とにかくモノにしなきゃけなかった。モノにするってことは、制作費もかかるから、下手したら赤字になる。だから、リリースされるというだけでハードルが高かったんだよね。その分販売される枚数も少量だったし、本気で追おうと思えば、新譜が全部追えた。多分、95年くらいくらいまではそうだったかな。俺が全部追うことを諦めたのは、1995年にRawkus Records(ロウカス・レコーズ。モス・デフとタリブ・クウェリをBlack Star(ブラック・スター)としてデビューさせる)あたりが出てきて、アンダーグラウンド・シーンができた頃です。ヒップホップ・シーンも、メインストリームとアンダーグラウンドにわかれだして「俺、アンダーグラウンドまでは全部追いかけられないわ」と。それで、メインストリームというか…サグ一直線に行きました。

——サグ一直線…いい言葉ですね。そしてもちろん、当時もヒップホップのドープさをかり合える仲間たちがいた、と。

Z: はじめはキングギドラや、その周りがAtomic Bomb Crew(アトミック・ボム・クルー)。そこから、シーンに殴り込みをかけていったらRHYMESTER(ライムスター)だったり、MICROPHONE PAGER(マイクロフォン・ペイジャー)だったりKAMINARI-KAZOKU(カミナリカゾク)たちと仲良くなっていって。DJもいっぱいいたから、KEN-BOとまず仲良くなって…と。そうすると、CISCO(註:当時、シーンの草分け的存在だったレコード・ショップ)に行くと「ワタさん(DJ WATARAI)、オッスー」と会話が始まって「Zeebraくん、あれ聴きました?」「聴いたよ、ヤバいよね」みたいになる。「プロモ盤みたら、もう一曲リミックスが入ってたよ」とか(笑)。そうそう、アカペラはプロモ盤にしか入ってないとか、とにかく白盤のプロモ盤(註:製品化される前に、関係者だけに配られたプロモーション用のレコード。ただの白いラベルが使用されることが多く、白盤と呼ばれていた)はとにかく争奪戦で、すごかったんだよね。そういう話題を、ひたすらみんなで話してたかな。あとは、コンちゃん(DEV LEARGE)とか、何人か英語がわかる人たちが、その周りのコミュニティに説明を入れていたりして。

——アツいコミュニティですよね。Zeebraさんはシーンが拡大していくとともにご自身のキャリアも広げてらしたわけですけど、同時に、日本にもヒップホップのスピリットが浸透して来ているなとか、シーンがデカくなって来てるな、という手応えはありましたか?

Z: まず「対人赤面症」じゃないところに行けたタイミングっていうのが、手応えを感じた瞬間の一つです。そのきっかけは(テレビ朝日のダンス番組の)「DADA L.M.D.」。あのとき、日本の人々が初めてヒップホップの方向に振り向いた瞬間だった。特に「ダンス甲子園」は大きかったです。あのお陰で80年代後半から90年代前半にガーッとブームが来たから、そこでちょっとヒップホップが市民権を得始めた。その次は、95、6年あたりに日本語ラップが成立したタイミングですかね。

——「さんぴんCAMP」(註:1996年7月7日に日比谷野外音楽堂で開催されたイベント。提唱者はECDで、日本のヒップホップ・イベントとしては初めて大会場で開催された)あたりでしょうか。

Z: そうだね。俺たちも93年くらいからオムニバス・ライブをやりまくっていて、95年にソラチカを出したときはアルバムをリリースする前から、ライブではみんな一緒にサビを歌ってくれているような状況でした。俺たちやライムスターがアルバムを出したあの頃は、みんな「待ってました!」みたいな感じだったね。「満を辞してやっと出た!」みたいな。その頃は、手応えを感じてたかな。

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——究極の質問なんですが、Zeebraさんが90年代を象徴するレジェンドを選ぶとしたら、どなたを挙げますか?

Z: アーティストというより、いくつかのベクトルがあったなと思っていて。それこそ、ウータン・クラン的なラフ&ラギッドみたいなタイプ。そして、Puff Daddy(パフ・ダディ。以下、ディディ)のようにビッグステージで成功して、ライトでパリーンみたいなタイプ。それと、アンダーグラウンド的な潮流になっていった者たち…たとえば、Boot Camp Click(ブートキャンプ・クリック)とかもそうだし。彼らはウータンと違うよね。ウータンはハナからエンタメ集団というか。

——各MCのキャラ立ちがすごかったですもんね。

Z: そうそう。キラキラって訳ではなく、キャラで攻めていくというか。キャラで攻めるといえば、もしかしたらナズもそうかもしれない。メインストリーム感のあるストリートをラップしていたというか。

——ちょっとコマーシャルイズムもある感じですかね。でも、それこそディディの世界ってすごくわかりやすいですけど、90年代の初頭にCraig Mack(クレイグ・マック)『Flava In Ya Ear』で当てて、その後にビギーのデビューを仕込んで、白いスーツを着せてマフィア感を出してみたり。かたや、自分が裏方として手がけたMary Jane Blige(メアリー・J・ブライジ)がいて、自身のレーベル、BAD BOY RECORDSからFaith Evans(フェイス・エヴァンス)とかトータルをデビューさせ、女の子たちにもヒップホップ・ビートのうえで歌わせちゃって…っていう、そうしたディディの商才というか、業界での動きをお手本にしていたところはありますか?

Z: もちろん。それこそディディの自伝を読んだら面白くて。ヤツはもともと大学のパーティー・オーガナイザーで、はじめっからビジネスに繋げていくことを考えてやっていた、というのがすごいところだな、と思ってます。あとやっぱり、彼の仕掛けるサンプリング・トラックが一般の白人層に向けて届くようにまで考えて作られていた。Duran Duran(デュラン・デュラン)まで使うわけだからね。

Video: papermate96/YouTube

——Sting(スティング)がいたザ・ポリスとか。

Z: そうそう。David Bowie(ディビッド・ボウイ)も使うし、俺はそういうのもすごいなと思ってた。実際にそう言ったサンプリングが使われていた曲は、ヒップホップが好きなヤツからしてもかっこいいループ(のトラック)だったし、ディディはいわゆる、ブレイクビーツの幅を広げたのかもしれないね。

あと、ディディにとってはニュー・ジャック・スウィングのブームがあったことが、大きかったのかとも思う。歌とヒップホップが混ざって共存する状態を、Teddy Riley(テディ・ライリー)とかが作っていてくれてたから。そこに、さらにヒップホップに乗せたものっていうのがディディのやり方だったわけで、あれはすごくうまかったなあ、と。

——やはり、商才とセンスあってこそというか。

Z: ともすれば、ディディなんていつもビギーの横をちょこちょこ着いてきて「うるせえな」と目立ちたがり屋みたいに揶揄されて、別にラップなんてうまくもない。むしろラップは全部ゴーストライターに書いてもらってるから。そんな存在でもあったのに、そことは別に、ビジネスマンでもあり、なによりエンターテイナーとしてのセンスがすげえな、と。

アメリカの東西ヒップホップが日本にもたらしたもの

——当時、ニューヨークを中心に、ディディによるバッド・ボーイ帝国がのしあがってくと同時に、肩や西海岸ではギャングスタラップが興隆してきました。ICE-T(アイス・T)に始まり、N.W.Aがいて、その後に2パックがデビューしていきましたよね。2パックも所属していたDeath Row Records(デス・ロウ・レコーズ)が巨大な力を持って、嫌な意味で東西のシーンがお互い極端な方向に助長されていってしまう、という状況でもあったかと思います。それは当時の日本のヘッズにはどんな風に映っていたのでしょうか。

Z: 当時、日本でも東海岸系と西海岸系でそういう事件があって。皆、それぞれのアイデンティティがあって、自分の信じる方向性が少しずつ違っているから、ぶつかることもいろいろあった。たとえば、当時のEAST END(イースト・エンド)はいい意味でポップなグループで、彼らの場合はダンスっぽいモノとかと繋がってたし、曲とかも俺が大好きだったKwame(クワメ)みたいなイメージ。それとは別に、かたやMUROくん(DJ MURO)たちは、すでにD.I.T.Cとか大好きだったわけだし。だから、日本でも皆少しずつベクトルが違っていて、そこで衝突とかはあったかもしれない。ただ、アメリカは衝突するとパンパンいっちゃうこともあるから、大変だねえって…。まあ、不謹慎だけど、誰かが戦うのは楽しいという思いもありました。

Z: 西海岸のシーンが形成されるはじめの段階で、Universal Zulu Nation(ズー・ルー・ネーション)のAfrika Islam(アフリカ・イスラム)がLAで頭角を現したアイス・Tと周りのヤツらにヒップホップとは何かを教えてあげたという流れがありました。そういう良好な関係だったんですよね。でも、それとは関係ないEazy-E(イージー・E)やDr. Dre(Dr.ドレー)が出てきて「ふざけんなよ」と、エスカレートしていったんです。

——N.W.Aからは、早い段階でIce Cube(アイス・キューブ)が喧嘩別れの形でグループを抜けて、ニューヨークのチームに合流していくという流れもありました。

Z: 当時は、とにかくラップのスキルに関してはイースト・コーストが断然上で、ウェスト・コーストのラップは「F**k」と「S**t」と「B**ch」を言っておけばいいみたいな感じでした。そのなかで、スーパー・リリシストだったアイス・キューブがN.W.Aを抜けて、パブリック・エナミー周りのThe Bomb Squad(ボム・スクワッド=当時、パブリック・エナミーやスリック・リックらを手がけていたプロデューサーチーム)と一緒にやるっていうのは、当時「うわあ」って感じでした。

ーー90年代後半になってくると、Zeebraさんのキャリアとしても、ソロ・アルバムを出して、Dragon Ash(ドラゴン・アッシュ)との『Greatful Days』も出して…といったところですが、その当時アメリカではジェイ・Zがヒット曲を連発して、サウンド的にもSwizz Beatz(スウィズ・ビーツ)やTimbaland(ティンバランド)などが出てきて…と、どんどんいろんな方向に変わっていきました。それを当時はどうご覧になってましたか?

Z: 当時はそういうサウンドを「チキチキ系」って言ってましたよね。サンプリング原理主義の連中が「何だこりゃ! こんなんヒップホップじゃねえ」と言ってました。ただ、俺はサンプリング原理主義の人よりも前の、サンプリングすらなかった頃のヒップホップから入ってるから、新しいサウンドが流行っても「俺にとってのヒップホップはこれで普通」という感じでした。だからすんなり受け入れられましたね。当時、TLCの『Silly Ho』のインストでライブをやったりもしてました。昔から「ヒップホップは常にフレッシュであるべき」と思っていて、使い古されたものは面白くもなんともないし、新しいものが出てくるべきだと思ってます。

Video: TLCVEVO/YouTube

現在を駆け抜けるヒップホップシーンへの思い

ーー最近では若い子達が、音楽でもファッションでも90年代リバイバル的なものに惹かれている。その理由は何だと思いますか?

Z: 型を破ること。たとえば服のサイジングに関しても、ここ何年かはヒップホップでも普通のタイトなサイズになって、いわゆる洋服として普通に作ってあるものを「セオリーがあるからそのとおりに着ます」みたいになってますよね。でも、最近では90年代リバイバルによってわざとデカいヤツを着る。それって、自分なりにアレンジをするという感覚だと思ってます。それが90年代っぽいですね。

音楽的なことでいえば、90年代に入ってサンプリングが厳しくなるわけですよ。サンプリングするならちゃんとクリアランスを取らなきゃダメという時代になって。だから、パブリック・エナミーのセカンドとか、De La Soul(デ・ラ・ソウル)のファーストみたいな作品は二度と作れないです。あとは、ラジオでヒップホップが放送禁止になった状況もあったから、自分たちで型を破りながら工夫して曲を作っていきました。

ーーZeebraさんは、現在でも「高校生ラップ選手権」や「フリースタイル・ダンジョン」を牽引されていることもあり、常に若い世代のラッパーの子たちをフックアップする存在だと思うんですが、最近BAD HOP(バッド・ホップ)だったり、KANDYTOWN(キャンディタウン)だったり、あらたに活躍しているのは90年代生まれのラッパーたちですよね。自分が経てきた90年代に生まれた子たちがシーンを盛りあげているという状況ですが、世代の分断を感じることなどはありますか?

Z: どうだろうね。日本だけの話じゃないじゃない。海外だと、常にYoung Thug(ヤング・サグ)が何をしたとか、 Lil Uzi Vert(リル・ウージー・ヴァート)がどうしたとか、みんなああでもないこうでもないと言っているわけで(註:昨今、アメリカではかつてのラッパーたちが次世代のラッパーたちに向けて苦言を呈し、それに若手ラッパーが反発する出来事が頻発している)。俺は、世代に関わらず、みんな好きなものを聴けばいいと思う。ただ、それを聴いているリスナーの層が細く分断されるのではなくて、それぞれの(ジャンルを聴いている)リスナー層が広がってくれればいいな、とは思いますね。昔からずっと思ってることは、「とっとと早く無双したい」ということ。「ほかの音楽ジャンルの皆さんには申し訳ないんだけど、ヒップホップにシーンを全部持っていかせてください」っていう状況を一度作りたいんですよ。

ーーそう考えると、今の若いヘッズの子が「まず、フリースタイルでラップをやってみよう」とヒップホップに親しむことは希望のようにも思えます。

Z: 必ずしもそうじゃないとは思いますが、たとえば、ウチの息子は物心ついた頃からヒップホップが常に周りにあったからずっと聴いていて、10歳の誕生日にユタカくん(DJ YUTAKA)にウータン・クランのCDをもらう…みたいな感じでした。そのときからの影響を、今の自分のエッセンスとしていろいろ使ってるという感じはがしますね。次男はヒップホップじゃなくてハウスをやってるんだけど、ビートを作っているのをフラっと聴いてみると、いきなりBrand Nubian(ブランド・ヌビアン)をループしていて「おぉ、そんなところをサンプリング・ネタに持って行きますか、へぇー」という気持ちになる。そういうのが面白いと思うし、Joey Bada$$(ジョーイ・バッドアス)とか、それこそKANDYTOWNとかの感覚ですよね。モロというか、昔のまんまの雰囲気の曲が結構あるわけじゃないですか。

今のヒップホップを含めたサウンドは、そういうのがあってもいいと思うし、いっぽうでメインストリームのトラップ・サウンドでクレイジーになるのもいいと思います。

皆さんにとっての「現在90年代を象徴するもの」を教えてください。TwitterもしくはInstagramで「#90年代オルタナの生と死」でハッシュタグ付きで投稿してください。特集期間中、FUZEがピックアップして定期的に再投稿していきます。

Photo: Victor Nomoto - METACRAFT
ヘアメイク: MEI
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