NetflixとAmazonのストリーミング配信大手二社の動きを軸に、2017年は、あらためて、何をもってそれを映画と呼ぶのか、という基本的な問題に立ち返らされる一年となった。
2017年、早くも1月からサンダンス映画祭で絶賛された『マッドバウンド 哀しき友情』(監督は新鋭ディー・リース)の配給権を、最終的にNetflixが手にすることになる。もちろん、独占配信公開が条件だ。
ちょうど、1年前のサンダンス映画祭で『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の配給権を高額で勝ち取ったのは、AmazonのAmazon Studioだった。
Netflixが、劇場公開よりも、独占配信に重きを置き、劇場と配信で同時公開を最優先したがるのに対し、Amazonは、製作配給部門のAmazon Studioを有しているため、従来の形式に倣うように、劇場公開から一定期間を置いた後に配信する形式をとっている。2018年の3月には、その『マンチェスター・バイ・ザ・シー』と同じく配給に当たったイラン映画『セールスマン』があわせて3部門で、Netflixが製作・配給した短編ドキュメンタリー『ホワイト・ヘルメット シリア民間防衛隊』が1部門で、オスカーを獲得し、存在感を示してくる。
この手のドキュメンタリー作品、あるいは(旧作を含む)インディペンデント作品は、能動的な観客にしか観てもらえない上映期間が限られた劇場公開に比べ、ストリーミング・サービスのおかげで、想定外のより多くの人たちの目に触れる機会が生まれる。定額制で観られる配信作品リスト内に、口コミで話題の作品やアカデミー受賞作が含まれていたら、ちょっと観てみようか、となるだろう。
そうしたいっぽうで、配信公開のみで、劇場公開の予定がない作品を、映画祭のコンペ対象にするのは、いかがなものか、と難色を示したのが、5月のカンヌ映画祭だった。
フランスでは、映画作品の配信は劇場公開から36ヶ月後以降でなければいけない、という規定がある。Netflixは、そこに配信先行公開の『Okja/オクジャ』(監督:ポン・ジュノ)と『マイヤーウィッツ家の人々(改訂版)』(監督:ノア・バームバック)の2作品を送り込もうとしたからだ。どちらも、あくまでも劇場公開を前提に完成させた作品であり、配給権をNetflixが所有しているだけであるにもかかわらず。
配信映画は、映画ではないのか、何をもってそれを映画と呼ぶのか、という問いかけは、同じカンヌ映画祭で最初の二話のみプレミア上映されたアメリカのケーブルTV局、ショウタイムが製作した(配信でも公開される)『ツイン・ピークス The Return』を通じて新たな局面を迎えることになる。
これは、"映画監督として知られる"デヴィッド・リンチが全エピソードを監督したTVシリーズだ。でありながら、彼は4月の段階で「これは長編映画(feature)だ。18時間の長編映画で、18の部分で成り立っている」と語っている。TVシリーズの一シーズン分の全エピソードを、製作者サイドが、一本の映画と同等のものとして考えていること自体は珍しくはない。
ところが、フランスの〈カイエ・デュ・シネマ〉と英国の〈サイト・アンド・サウンド〉の老舗映画批評誌二つが、2017年のベスト10で『ツイン・ピークス The Return』をそれぞれ、第一位と第二位に選出したのだ。〈カイエ・デュ・シネマ〉には、2002年分で『24-Twentyfour』を、10位に選んだ前例がある。いっぽうの〈サイト・アンド・サウンド〉では、ベスト・フィルムと銘打ってはいるものの、ムーヴィング・イメージ(動画像)であれば、特に制限をもうけず、フィルムやビデオ・アートからTVやVRに至る2017年に発表されたベスト...と最初に断っている。
もっとも、『ツイン・ピークス The Return』は、形式的には、古くからのTVシリーズのフォーマットに忠実だ。例外はあるものの、ほぼ毎回、クロマティックスやナイン・インチ・ネイルズをはじめとするアーティストによる音楽ライブ場面をドラマの終盤に置く構成となっている。
そのため、視聴者はエピソードの終わりが近いことを察知できる。初回と最終回を除いて、基本的に、週1話放映だったので、エピソード間には1週間(ときには2週間のときも)の時間的猶予が与えられ、その間に、視聴者は、前の週(までに放映された)のエピソードの内容を整理し、自ずと来るべきエピソードでの展開に想いを馳せるということが繰り返され、習慣化されていたはずだ。
昨今のドラマ・シリーズ作品では、Netflixなどが提唱するような、一シーズンの全エピソードを一挙に同日公開し、"一気観(ビンジ・ウォッチ)"させるようなやり方が流行っている。むしろ、そのほうが長時間を要する一本の映画を観ている感覚に近いものを味わえるのではないか。ところが、リンチは、一シーズン分の作品を16週間かけて見せていったのだ。
これを映画だと言われて観せられた場合、視聴者側からすれば、矛盾というか倒錯を感じずにはいられないだろう。
同じことは、作品内の描写にも言える。シーズン中、最も強烈なのは、全編モノクロの第8話だ。ここでは、ダイアログの類いもなければ、なにがしかの話を語ろうともしておらず、大音響と実験映画のような映像が炸裂する。
この回の表現スタイルは、全編を通じて、TVドラマの基準では、前代未聞であるとしか言いようがない。噴火する火山から降り注ぐ灰や小石に自分の視界を遮られ、何が起きているか見えない(わからない)場面も続いたりする。しかも、モノクロなので、画面は度々真っ暗に近くなる。この黒みは、単純に考えれば、映画館の闇の中でこそ活きてくるものなのでは? とも思えてくる。何をもってその作品を映画と呼ぶのか?
こうして各メディアが、相次いで年間ベストを発表する12月に入ると、Netflixは、『マッドバウンド』の配信を一部劇場での限定上映(アカデミー賞の候補となる基準を満たすためだろう)と同時に行ない、22日には、ウィルスミス主演のアクション・アドベンチャー『ブライト』(監督は『スーサイド・スクワッド』のデヴィッド・エアー)を独占配信公開する。
おまけに、後者のようなシネコンでの上映が似合うようなブロックバスターが、配信限定で公開された上に、Netflix歴代トップ・クラスのストリーミング記録を樹立してしまう。もはや、こうしたブロックバスター作品であっても、視聴者としては、シネコンのスクリーンではなく、定額制の枠内で、TVやPCモニターからスマホ画面に至るスモール・スクリーンで観れば、十分なのだろうか。
さらに、こうした成功を積み重ね、財力を得た結果、こうしたストリーミング・サービス会社と映画との関わり方も変わってくる。元々制作に関わっていながら、資金調達不能に陥った(あるいは、作品を手放したくなった)ハリウッド・メジャーと入れ替わり、資金供与することで、大作映画の権利を手に入れるようになってきた(これは数年前まではHBOなどのケーブル局がおこなってきたやり方だ)。
2019年に公開予定で、ロバート・デニーロ、アルパチーノ主演のマーティン・スコセッシ監督作『The Irishman』が、まさにそれにあたる。見るからに超大作なこの作品も、Netflix独占限定配信公開となるのだろうか。それとも、Amazonのような総合的な意味での映画会社としての面を押し出し、世界中の映画館を席巻するつもりなのだろうか。
仮に、このまま、前者よりの傾向で進んでゆくとすれば、スマホで観て、映画館のスクリーンで観なくても、スクリーンで観れるなら、それはとにかく映画だ、という前出の〈サイト・アンド・サウンド〉誌的な解釈が広まってゆくだろう。
昨年の11月末に、スティーヴン・ソダーバーグ監督がHBOと組んで発表したシャロン・ストーン主演の『Mosaic』を例にとれば、そっちの方向性もありえなくもない。
『Mosaic』は、2018年1月にTVシリーズの形態で放映されたとはいえ、本来の姿は、11月の段階で発表された、スマートフォンやタブレットに搭載するiOSアプリあるいはアンドロイド・アプリなのだ。このアプリを搭載した者が、登場人物から一人を選び、その人物を通じ、殺人事件の犯人を突き止めてゆくというわけだ(勿論誰を選んでも行き着く先は同じ人物だ)。この試みは、あと数回予定されているようだが、TVシリーズとして作品化したものを放映することが前提であるとはいえ、ケーブルTV局が、こういうものの開発に積極的なのは興味深い。それにしても、これは、映画なのだろうか。
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