大方の先進諸国においてモータリゼーションが行き届いた20世紀に一般化することになった概念ーー「郊外」は、それ以前には存在しなかった特殊な磁場によって、小説や映画、多くのポップ・カルチャーの舞台になると共に新たな才能の温床となった。ごく最近の記憶として、90年代におけるグランジやインディ・ロック、あるいは、同時期のFOXTVのアニメ・シリーズ『ザ・シンプソンズ』における舞台装置としての郊外を思い起こす読者もいるに違いない。ある時期まで、サバービアは新たな表現の震源地と舞台装置のひとつであり続けた。
だが、同時に、「インナーシティ」を舞台に、そこから生まれたカルチャーもまた存在する。あなたが音楽ファンであれば、インナーシティという言葉はごく耳慣れたものに違いない。例えば、80~90年代デトロイト・テクノのオリジネイターのひとり、ケヴィン・サンダーソンのユニット名として。あるいは、英国のジャングル/ドラムンベースのプロデューサー、ゴールディが95年に放った時代を代表する曲“インナー・シティ・ライフ”を連想する者もいるだろう。
本稿のモチーフとなっている「ロンドンという都市とグライムとの関係」もまた、インナーシティという言葉なしは語れない。詳しくは以下の対話に譲るが、労働党が政権を奪取した90年代半ばのクール・ブルタニアの時代と、2012年に開催されたロンドン・オリンピックを契機とした大規模な都市再開発は、階級社会であり、多民族国家である英国の首都ロンドンという街の光景(の一部)を根こそぎ刷新することになった。そして、その新たな光景ーー「富裕層と貧困層が同居する過密人口の都市部=インナーシティ」から生まれた表現がグライムなのだ。
以下の対話の目的は、ロンドンという都市と、そこでの大規模なジェントリフィケーションから生まれたグライムという表現の関係を改めて浮き彫りにすること。あるいは、もうひとつの目的として、そこからの比較として、2020年の東京オリンピック開催に向けて大規模な都市開発の進む首都トウキョウの未来に向けての想像力を刺激することにもあるのかもしれない。と同時に、首都ロンドンにおける都市の生成変化と、そこから生まれてきたロード・ラップ~グライム~アフロ・バッシュメント~UKドリルと変化してきた英国のラップ・ミュージックの最新レポートとしても読んでもらえるだろう。
本稿における語り部はダン・ハンコックス。英国的なリベラリズムを代表するメディア『ガーディアン』紙を主な舞台に、ポップ・ミュージックと社会の関係についてレポートしてきた英国のジャーナリストであり、グライム誕生から現在へと至る歴史を政治や経済の変化と共に鮮やかに浮き上がらせた、昨年2018年の著作『Inner City Pressure : The story of Grime』の作者でもある。
聴き手は、DJ・プロデューサーユニット“Double Clapperz”のメンバーとして活動する傍ら、グライム以降の英国の音楽やカルチャーを中心にライターとしても活動している米澤慎太朗。それぞれ別の場所から、共通した作品や事象を見てきた者同士の会話は、ディテールへの目配せがありながら、全体を穏やかに俯瞰した視点を読者に提供する内容になっているはずだ。
本特集の別の記事、イースト・ロンドンで育った移民二世のアーティスト、NAOは自らの故郷を理想的な多様性を体言する未来として語っている。だが、ここで語られるブレグジット以降のロンドンは、全世界的な格差社会の縮図であり、ディストピアとしての今であり、少しばかり薄暗い未来でもある。だが、薄暗い街の光景からは必ず新たな光としての表現が生まれることを我々は知っている。
取材:米澤慎太朗 リード文: 田中宗一郎 通訳:萩原麻理

「ゼロ年代以降の英国における一大ユース・カルチャー=グライム」が生まれた背景とは
――ここ数年、世界的に郊外の団地から新たなラップカルチャーが生まれてきていると感じます。例えば日本ではKOHHやANARCHY、フランスではPNLなど。一方で、UKでグライムが最初に生まれたのは、「郊外」ではなく「インナーシティ=富裕層と貧困層が同居する過密人口の都市部のこと」であった点が、ひとつ特徴的だと思います。新たな表現の震源地がインナーシティに生まれたことの必然はどこにあったのでしょうか?
Dan Hancox:すごくいい質問だね。もちろんUKには、エキサイティングな音楽やサブカルチャーが郊外からも出てきた歴史がある。例えば70年代のパンク・ロックだって、多くのバンドが郊外の出身だった。ザ・メンバーズっていうバンドの“サウンド・オブ・ザ・サバーブズ”っていう有名な曲だってあるしね。だからロンドンだけでなく、マンチェスター、バーミンガムみたいな都市の郊外はこれまでもクールなユース・カルチャーを生みだしてきた。そこにはラップやグライムと同じようなエナジー、若者の怒りやアングストがあったんだ。インナーシティと同じくらいに、エキサイティングで反抗的で情熱的なユース・ミュージックやユース・カルチャーが郊外から出てくることもある。
――ええ、以前は間違いなくそうでした。ただ今現在、イギリスでは郊外から生まれるエキサイティングな音楽が伝統的に存在する一方で、インナーシティの表現に注目が集まるようになった理由はどこにあるのでしょうか?
Dan Hancox:70年代以降、ロンドンみたいな都市の構成においていろんなことが変わってきたんだ。これはアメリカの多くの都市でも起きたことだけど――日本でもそうかもしれない――50年代、60年代には車は高価なものだった。でもそれ以降、車が安価になり一般的になって、都市部の役割が変わったんだよ。人は郊外から都市に通勤するようになった。住むのは郊外、働くのは都市の中心部、とね。そのせいで70年代からインナーシティでは人口が減りはじめた。
――ええ、そのような現象は日本でも起こりました。
Dan Hancox:でもロンドンでは特に、2000年くらいから金持ちやミドルクラスの人たちが移ってきて、中心部の人口密度が上がったんだ。でもそこにはすでに団地があり、労働階級の貧しい人たちが住んでたから、緊張が生まれた。ジェントリフィケーションが不平等を生んで、きれいな家が並ぶリッチなコミュニティと、貧しい団地が隣接するようになった。それが、グライム・ミュージックがインナーシティや公営団地から出てきた背景のひとつだ。
――ジェントリフィケーションによる摩擦でインナーシティから新たな表現が生まれ始めた時期は、郊外では何か目立ったユース・カルチャーの動きは存在したのでしょうか?
Dan Hancox:同時期、郊外におけるユース・カルチャー的なものはなかったんじゃないかな。2000年代初めの郊外では、はっきりと定義できるようなムーヴメント、匹敵するようなサブカルチャーがなかった。当時は、ほとんどアメリカとかのバンドがインディ・バンドやギター・バンドがたくさんチャートに入ってきて、UKではストロークスみたいなバンドが崇拝されてたし(笑)。思いだすと、僕は当時ディジー・ラスカルみたいなグライムの連中の音楽を聴く一方で、ストロークスやヴァインズを聴いてた。そういうアーティでパンクっぽいインディ・バンドは海外から輸入されてた。だから実際、UKの郊外ではあまり何も起きてなかったんだ。
公営住宅の暮らしで若者に植え付けられた、閉所恐怖症/パラノイア的なフィーリング
――インナーシティ発のカルチャーは、表現としてどういう特徴があるんでしょう? あなたの本でも都市部の団地やユースセンターの重要性が指摘されていましたが、そういった場所と表現の関係性について詳しく教えてください。
Dan Hancox:グライムの発祥において、ユースセンターはすごく重要な役割を果たした。他にはないような空間、若者が集まれるスペースを提供してたからね。公営住宅を理解するとき鍵となるのは、狭い住居に大勢が住んでるってことなんだ。自分のスペースがほとんどない。団地の多くは60~70年代に建てられて、一世帯3〜4人の家族が想定されてたんだけど、実際住んでるのは大抵5人以上の家族で、子どもたちはベッドルームを共有することになった。だから狭苦しさとか、閉所恐怖症的なフィーリングがある。キッズはそういう家や家族から離れて、友だちと一緒にいたがったんだよ。だから、学校から帰ると行く場所として、ユースセンターや地元のユースクラブがとても重要になった。学校が終わると普通は家に帰るけど、家庭内に問題があったり、貧困につながる問題が彼らにはあったから、子どもたちはユースクラブに行くのを好んだ。
――ただ、そうした場所はここ10年の行政の変化のなかで、失われていったわけですよね。そもそもユースクラブやユースセンターというのは、具体的にどのようなことができる場所なのですか?
Dan Hancox:ユースセンターやユースクラブは大抵団地と同じ敷地、もしくは隣接地にあったんだ。そこで友だちと集まって、ビリヤードやテレビゲームをしたり、勉強するコースもあった。外ではバスケットボールやフットボールもやれたし、音楽に興味があれば、音楽を作るチャンスもあったんだ。ビートを作るソフトウェアがコンピュータに入ってたし、場所によってはマイクや録音機材まであったから。ラッパーになりたいと思ったらそのスキルを磨けるし、それを友だちや、うまくなるのを助けてくれる人と一緒にやれた。そういう共同作業的な環境が、グライムにとってはすごく重要だったんだ。アイデアを出したのは自分でも、それを才能のある仲間や知り合いと一緒に形にしていく。練習するのもやっぱりユースセンターとかだったしね
――先ほど挙がった「閉所恐怖症的」という言葉は、グライムやインナーシティ発の表現を考えるうえでとても重要だと思います。この言葉について、もう少し教えてください。
Dan Hancox:ロンドンっていうのは実際、都市としては全体的な人口密度は高くないんだ。NYや東京なんかと比べると、平方キロあたりの人口は多くない。あと、やっぱりNYや東京、シカゴやシアトルみたいな都市と比べても、高層建築が少なくて。でも公営住宅に限ると、人口密度が高くなる。ロンドン全体ではテラスハウスなんかが多いから、人口密度が低いんだ。テラスハウスは高くても二階建てで、そこに一家族が住んでる。僕もミドルクラスの子どもとして、そういう家で育ったんだけど。そういう家が延々建ち並んでるんだ。でも公営住宅は、例えばワイリーやディジーが育ったイースト・ロンドンの団地は20階建てとかのタワーブロック(高層住宅)だった。
――我々日本人からすると、ザ・ストリーツの1stアルバムのアートワークに使われた写真として記憶されています。
Dan Hancox:スケプタやJME、チップが出てきたトッテナムの団地も大勢が狭いスペースで暮らしてたし。そういうところで暮らすとより閉所恐怖症的で、パラノイア的なフィーリングになる。地元でトラブルに巻き込まれないように気をつけなきゃいけない。(もしトラブルが起きても)隠れられないからね。その空気がグライム・ミュージックのピリピリした、爆発的な雰囲気を作りだしてると思う。ロンドンはほぼ全域にそういう公営団地があるんだけど、ほとんどが60~70年代に建てられた、15階から20階建てのタワーブロックなんだ。最近建てられた公営住宅はタワーブロックが少なくて、3~4階建て。だからもうちょっとリラックスしてるね(笑)。
グライムを育んだ多文化的な移民の街、イースト・ロンドンの歴史的背景とは?
――グライムの発祥地であるイースト・ロンドンですが、そもそもなぜそこに地価の安いエリアが生まれたのでしょうか。
Dan Hancox:UK全体においても、イースト・ロンドンはとても興味深い場所なんだ。ロンドンの歴史を通じて、東部は街の産業的な地区で、それは2000年前にまで遡る。基本的にローマ人の侵略のせいでロンドンという都市が建設されたんだけど、その頃からずっと、東部はロンドンにおいてもっとも貧しい地域で、産業的な役割を負ってた。港が作られた場所のすぐ隣にあったし、船による貿易はイギリス帝国を形成するのに不可欠だったんだ。つまり何世紀もの間、ロンドン東部は産業地区であり、低賃金の仕事がたくさんあって、ワーキング・クラスの人々が集まってきた。工場があったし、港では船から荷を降ろしたりする人手が必要だったからね。ロンドンでも一番貧しい地域だった。
――ただ、最近はだいぶ開発が進んでいるようですね。
Dan Hancox:それが変わったのはこの10年間なんだ。まぁ厳密に言うといまでも一番貧しい地域なんだけど、ジェントリフィケーションのせいで様変わりした。その背景のひとつにオリンピックがあるんだけど、それはまた後で話そう。
――イースト・ロンドンに幼い頃から住むNAOはここを「多様性の街」と説明していましたが、あなたはイースト・ロンドンの文化的なアイデンティティをどのように捉えていますか?
Dan Hancox:イースト・ロンドンのアイデンティティとしては、ずっと他の地域のどこよりも労働階級で、同時にとても多文化的なんだ。最初は18世紀から19世紀にかけて、宗教的な迫害を受けたユグノー(新教徒)がフランスから逃れて入ってきたんだ。それから20世紀の初めにアイルランド移民が、次にロシアやポーランドからユダヤ移民が移り住んできた。基本的にそのパターンの繰り返しなんだ。NYのロウアー・イーストサイドに似ていて、最初に移民がやってきたときに住む場所なんだよね。で、その次の世代、二世か三世になって、もう少し稼いで社会的地位ができると、郊外に引っ越すっていう。例えば、いまのイースト・ロンドンのバングラデシュ人のコミュニティは、ドックランズに一番最近できた、最大の移民コミュニティだったりする。だから全体的にすごく多文化なんだ。雰囲気としては労働階級文化であり、多文化であり。そこはグライムの背景としてすごく重要だね。
オリンピックの再開発で失われた、グライムの文化的な拠点
――では、先ほど話に出たオリンピックについて聞かせてください。2020年には東京でオリンピックが開催されるのですが、豊洲といった会場エリアだけでなく、下町や渋谷などでも大規模再開発が進行中です。景色が変わり、渋谷ではクラブの移転が行われています。そうした背景から、イギリスのオリンピックと文化との関わりというのはひとつの関心ごとになっています。
Dan Hancox:ロンドンでオリンピック開催が決まったのは2005年だったと思う。あれは爆破テロがあった日の翌日だったから。すごく変な日だった。ともかく、開催地に決まった日は関係があるんだ。その後、2010年~2011年からオリンピックが開催された2012年にかけて、イースト・ロンドンはがらっと様変わりしたから。それはグライムにとって重要なんだ。
――オリンピックは具体的に、グライムにどのような影響を与えたと思いますか?
Dan Hancox:グライム初期の有名な海賊ラジオ局、デジャ・ヴFMは……僕の本のプロローグはほとんど、ここで行われたディジー・ラスカルとクレイジー・ティッチの伝説的なクラッシュについてなんだよね。デジャ・ヴのスタジオで開かれたんだけど、場所としてはほんと、ストラトフォードの何もない空き地みたいなところだったんだ。そこに伝説的なラジオ局があって、地下にはクラブEQがあった。ここも伝説的なヴェニューで、UKガレージやグライムのパーティが開かれた。でもその後、それがあったウォーターデン・ストリートでオリンピックが開かれたんだ(笑)。グライムの中心地がまさにそのままオリンピックの開催地に作り変えられたんだよ。
――なるほど。グライムというカルチャーにとっては、とても破壊的なことが起こったわけですね。
Dan Hancox:ただ、オリンピックの影響はストラトフォードにとどまらず、ニューアムやタワー・ハムレッツにも及んだ。ディジー・ラスカルやワイリー、ロール・ディープ・クルー、ニューハム・ジェネラルズ、スリュー・デム・クルー、ラフ・スクワッドみたいな連中はみんな、オリンピックで様変わりしたその2地区の出身なんだ。そこではインフラや住宅に金が投資された。いまだに新しい家が建設されてるくらい。そのほとんどは特に大金持ち、富裕層向けってわけじゃなくて、専門職とかの若い世代のための家なんだ。子どもを作ろうとしてるミドルクラスの若夫婦とか、教師と病院勤務のカップルとか。特別裕福ってわけでもないミドルクラスの若い世代。つまり、投資によってイースト・ロンドンの貧困層が恩恵を受けたわけじゃない、ってこと。トリクルダウン効果(*「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる」とする経済思想)は起きなかったんだ。イギリス政府は90億ポンドを使った。それだけ巨額の金が使われて、ほとんどの人は僕の意見に同意してくれると思うけど、地元のコミュニティには、ほとんどなんの利益もなかったんだよ。まあそれって、世界の他のオリンピック開催地でもよく出てくる話なんだけど。シドニーとか、アテネとか……。
――東京でもトリクルダウンは起きないだろうな、というのはすでに感じられます(笑)。
Dan Hancox:そうなんだ(笑)。実際、オリンピックが東京をどう変えるかにはすごく興味がある。イースト・ロンドンでもたくさんクラブが閉鎖されたんだよ。例えば、ストラトフォード・レックスっていうクラブがあった。そこも伝説的なグライム・ナイトが開かれた場所で、僕は2005年にそこでロール・ディープを観た。でも、オリンピック・サイトの真向かいにあって。そこには巨大なショッピングセンターが新たに建設された。センターの所有主はウェストフィールドっていうオーストラリアの大企業。つまり、ピカピカした新しいショッピングモールができて、あの地域も前よりきれいになったとは言えるし、それ自体は悪いことじゃないんだけど、文化的な施設が犠牲になったんだよね。
――クラブの閉鎖以外にも、オリンピック開催の余波を受けて起こった文化的な変化はあるんでしょうか?
Dan Hancox:もうひとつ、オリンピックとジェントリフィケーションがグライムが生まれた場所を変えた例を挙げるなら、グライム関連のレコード・ショップとして一番有名だったリズム・ディヴィジョンっていうレコード屋がある。そこでもいろんな伝説的なことが起きた。グライムを生んだ連中がそこに集まって、『ワイリーの新しいレコードは聴いた?』とか、次のコラボレーションについて話してたんだ。いまじゃそこは高いコーヒーやサンドイッチを売る、小洒落たコーヒーショップになってる。ロンドンにそんな場所は有り余ってるのに(笑)。そこのコーヒーなんてどこでも買えるんだよ! もちろん街はつねに変わるものだし、原則としてはそれに逆らうべきじゃない。変わるべきだからね。でも、イースト・ロンドンのあの変わりようを見て思うのは、グライムみたいな音楽がそこから出てくるチャンスがなくなってしまった。それはすごく残念だと思う。
富裕層と貧困層との格差、その強烈なコントラストを象徴する「カナリー・ワーフ」
――一方で、高層ビルの立ち並ぶ金融街、カナリー・ワーフがそうしたエリアの目と鼻の先にあります。あなたの本でも指摘されていますが、カナリー・ワーフとグライムの関係性を改めて教えてください。
Dan Hancox:カナリー・ワーフは高価な企業や個人住居のある高価なエリアなんだ。90年代後半から2000年代初めにかけて、特に銀行や金融サービスが次々そこに新しいオフィスを構えた。だから、グライムが出てきたのとほぼ同時期、まあその数年前に作られたのがカナリー・ワーフになる。以前は港だったんだけど、60年代以降急速に衰退して、再開発されることになったんだ。だからディジー・ラスカルやワイリー、イースト・ロンドンで育ったグライムの連中はみんな、小さい頃からカナリー・ワーフの建設を見て育ったんだよ。で、15歳くらいの頃にそれが完成して、現代資本主義のモニュメントがそこにそびえ立つことになった。ゴールドマン・サックスやリーマン・ブラザーズみたいな、2007~2008年に世界的な経済危機を引き起こした多くの企業、銀行がそこをベースにしてたんだ。まさにある種の資本主義を象徴するものが、貧困層が住む団地のすぐ隣にあったんだよ。ディジー・ラスカルが部屋の窓から外を見ると、そこにはカナリー・ワーフがあった。
――つまり、カナリー・ワーフというのは、富裕層と貧困層との間の強烈なコントラストを可視化するような存在なわけですね。
Dan Hancox:だからこそ緊張感があるし、同時にグライムの連中がときどき面白い表現をしてるんだ。一生手に入ることもかなわないような富を見せつけられてるような屈辱的な気持ちだったり……ロール・ディープのDJターゲットは『カナリー・ワーフは自由の女神みたいだ』とも言ってる。つまり、自分は貧しい生まれでずっと苦しんできたけど、カナリー・ワーフを見てると、ここから出ていって成功してやる、って思える――とか。自分を鼓舞する存在だね。つまり、グライムの連中にはカナリー・ワーフに対して相反する感情があった。
――なるほど。英国の中産階級的なアティチュードを代表するバンド、レディオヘッドのトム・ヨークが「カナリー・ワーフこそがニュー・レイバー時代のもっとも醜悪なモニュメントだ」と発言したことを思うと、それぞれの社会的な立場が浮き彫りになるような気がします。
Dan Hancox:僕が取材したディジーやスリムジーが言ってたのは、『確実にいつも身近にあった』ってこと。彼らが10代の頃、ハッパ吸って窓の外を見ればそこにはカナリー・ワーフがあって、宇宙船がそこに浮かんでるみたいな想像をしたりしてたんだよ。ライトが点滅してたから。スリムジーは『あのてっぺんで海賊ラジオを放送したい』とも言ってた(笑)。相反する感情、愛憎関係があるんじゃないかな。
「イースト・ロンドン発のブラック・ミュージック」に留まらない、グライムの民族/地理/音楽的な広がり
――ワイリー、ディジー・ラスカルといったMCは再開発の激しいイースト・ロンドンを舞台としていますが、他のエリア、特にサウスやノースでも海賊ラジオ・グライムが発展していました。
Dan Hancox:実際、そこは強調しておくべきだね。イースト・ロンドンはいまもこれからもグライムの生誕地、グライムのホームとされるだろうけど、2003年から2005年にかけて、ロンドンの他のあらゆる地区からも重要なクルー、ラジオ局が出てきたから。例えば、スケプタやJME、彼らのクルーはノース・ロンドンのトッテナムから出てきた。僕が生まれ育ったサウス・ロンドンにも、有名にはならなかったけどグレイトなクルーがあったんだ。音楽もグレイトだった。例えばサウスイースト・ロンドンのルイシャムのクルーで、エッセンシャルズっていうのがいて。
――グライムはイースト・ロンドンに留まらず地理的な広がりを見せていたということですが、人種の多様性についてはいかがですか。グライムは単にブラック・カルチャーである以上に、様々な移民から生まれた音楽であるという見方もできますが、グライムはマルチエスニックなカルチャーであると言えるでしょうか?
Dan Hancox:そう、グライムの大部分はブラック・ミュージックだし、黒人音楽の伝統から生まれてる。でも同時に、すごく多文化的な音楽でもあるんだ。オープンな態度があるっていう意味で。その人がそこに加わりたいって思えば、それで十分。人種として、民族として、文化として、どんな背景を持った人でもかまわないんだよ。興味深い例としては、ロンドンから出てもっと東へ行くと……実際、郊外に近い。裕福な郊外じゃないけど。タワーハムレッツやボー、ニューアムからさらに東に、バーキングっていう場所がある。ここは白人の労働階級の小さなエリアなんだけど、かなりいいグライムのMCやプロデューサー、DJが出てきたんだ。彼らも白人だった。主なクルーはO.T.クルーっていって、そのMCのデヴリンはなかでも一番有名になった。レーベルと契約して、シングルも出したしね。“ロンドン・シティ”っていう曲では、実際彼が自分とロンドンの街との関係を表現してる。バーキングっていうロンドンの外れから、夜遊びするのに中心部に繰りだす――っていう曲。
Dan Hancox:だからグライムは圧倒的にブラックの音楽だし、圧倒的にイースト・ロンドンに集中してはいたけど、他にもぽつぽついろんな場所で起きてた。それは本当に、その場所にどんなラジオ局があったとか、そこで数人がグライムにハマってたとか、そういう理由なんだよね。勢いが生まれて、他の人たちも巻き込んでいったり。彼らの音楽を聴いて、また誰かが始めたり。地元のラジオで地元のヒーローの音楽が流れるようなもんだから(笑)。17歳とかが作った音楽が流れて、それを聴いた13歳がマイクを手にしたんだ。
――なるほど。
Dan Hancox:2003年にロンドンで盛りあがってた他のサブカルチャーとはまた違う文化もあった。例えば、ロード・ラップ。ロード・ラップっていうとギグスやクレプト&コーナンが一番有名なんだけど、みんなサウス・ロンドンの出身なんだ。グライムっぽい地域とはちょっと離れたところにあって。サウス・ロンドンではルイシャムっていう地域がグライムのベースで、ブリクストンやペッカムがラップ・ミュージックなんだ。ダークで、ダンスフロア向けにはできてない音楽。頭を上下に振って聴く、アメリカのラップみたいに楽しむ音楽だね。
グライム復活の狼煙、スケプタの大ヒットという事件はいかにして起こったのか?
――2003~2005年まで盛り上がりを見せたあと、グライムはForm 696(*グライムのイベントを不当にターゲットにしていたとされるロンドンのリスク・アセスメント。2017年に廃止)による警察の弾圧や、開発によるラジオ局の閉鎖などを通じて追い詰められていきました。しかし、そこから2014年以降のスケプタの“That's Not Me”のヒットをきっかけに、鮮やかに反転していきます。あなたはリバイバルのきっかけというのはどこにあったと思いますか。
Dan Hancox:いや、ほんとにあれは誰も期待してなかった、意外なリバイバルだったんだ(笑)。確かに2009年〜2010年頃には何人か、グライム・シーンの連中がポップ・ヒットを放ったりもした。比較的成功したっていうか、実際ナンバーワンになったシングルもあるしね。ティンチー・ストライダーは何曲かナンバーワン・シングルを出したし、ワイリーの“ヒートウェイヴ”も1位になった。ディジー・ラスカルは何度か1位になってるし、ロール・ディープは二度ある。ただそういう曲はどれもグライム・チューンじゃなくて、エレクトロニックなポップ、って感じで、ラップもほとんどなくてね。
――そうですね。
Dan Hancox:で、その頃同時進行的に、アンダーグラウンドのグライムは続いてはいたんだけど、あまり人気はなかった。レコードも売れず、クラブも閉鎖されたし、海賊ラジオは閉鎖じゃなくて消えていったんだ。ミックスを作ってネットにアップロードするほうが簡単になったから。それがある意味オンラインの海賊ラジオになったっていうか、そのほうが逮捕されることもないし、機材が盗まれる心配もないし、全体的にずっと安価ですむ。
――シーンの震源地がオンライン上に移行したわけですね?
Dan Hancox:ただ、そのせいでカルチャーとしては、コラボレーションに欠けるようになった。物理的な場所、実際に触れ合えるハブがなくなったわけだから。人が集まって、コラボやマイクのスキルなんかについて話す場所がなくなったんだ。そういう沈滞期、ほとんど何も起きなかった時期があって……僕の考えでは、そこで突然ひらめいたのがスケプタだったんだよ。
――なるほど。
Dan Hancox:当時のポップ・ミュージックに、彼が満足できるものはまったくなかった。彼自身エレクトロのシングルは何枚か出してたし、チャートでもまあまあだったんだけど、彼にとってはどうでもいい曲だった。クリエイティヴ・プロセスにおける満足感もなくてね。で、スケプタが出したのが“ザッツ・ノット・ミー”っていうチューン。それに大勢の人が反応して、BBC1のデイタイムのプレイリストにまで入って。それに彼自身すごくびっくりしたんだ。2014年にグライムのチューンがそのプレイリストに入るなんて、前代未聞だったから。とにかく爆発的にヒットしたんだよ。
――その後、ビヨンセがロンドン公演を行った際、彼女がセットリストのなかに、スケプタの曲を使うまでになった。ただ、その事実をメディアが報道しなかったことを受けて、スケプタが抗議したりと、いずれせよ、一気に彼に脚光が当たることになります。このタイミングでスケプタが大ヒットした理由については、どのように分析していますか?
Dan Hancox:その人気、グライム・シーンへの熱狂が生まれた理由についてはいくつか説があるんだけど、僕は、若い世代がグライムをよく知らなかったのが大きいと考えてる。2003年にはみんな、せいぜい小学生の子どもだったんだよね。初期の有名な曲を知ってても……リーサル・ビズルの“POW!!!”とか、ディジー・ラスカルの“スタンド・アップ・トール”とか。それだって、その2曲がリリースされた2004年には、まだ幼くてリアルタイムでは聴いてなかったかもしれない。
Dan Hancox:そこに突然、スケプタみたいなファッション・センスもあるクール・ガイが出てきて、『これは俺じゃない』っていうグレイトな曲を歌ったんだ。
――誰もがラグジュアリーなファッションに身を包むことに憧れる風潮に対して、彼ははっきりと異を唱えた。
Dan Hancox:それに若い子たちが驚いたし、スケプタ自身驚いたんだよ。ヒットなんてまったく予想してなかったから。でもみんなが反応した。『ワオ、こいつはめちゃくちゃ正直に自分のことを語ってる』とね。しかもそいつはジャージ着て団地の仲間とつるんでて、モデルみたいな格好もしてなければ、カリブの島でビデオを撮影して金持ちのフリもしてなかった(笑)。まさに『バック・トゥ・ベーシックス』、原点回帰だったんだ。もともと自分が知っていること、自分のスピリットに忠実で、そのことにみんなが喝采した。『そう、これこそいま欠けていたもの、俺たちが探してたものだ!』と。それはスケプタのひらめきであると同時に、みんなが『単にグライムのバンガーがあれば最高なんだ』ってことに気づいたんだよ。で、続くスケプタの“シャット・ダウン”みたいな曲や、あとストームジーが急に成功したこと、このふたつのアタックが効いたんだと思う。以前のアーティストが自分を再発見するのと同時に、若くて新たなレジェンドが現れたんだ。ストームジーはこのジャンルの未来でもあったしね。
UKラップ・ミュージックは、あらゆる人種の若者が聴くメインストリームになった
――グライムのビデオ、そして今のラップが最も多く見られるチャンネルのひとつは、実はBBC Radioだったりします。こうした文化、ギャングスタな音楽を公共放送のBBC / BBC 1 Xtraが積極的にサポートしたりするのは、他の国ではなかなか行われないことだと思います。公共放送はどのような意図でサポートしているのでしょうか。
Dan Hancox:いい質問だね。BBCの予算は政府からも出てるけど、視聴者が受信料を払ってる。年に120ポンドくらいかな。それが番組の製作費になる。払わないとテレビが観られないから、まあ強制的なんだ。で、ともかく、2000年か2001年に、BBCがブラック・ミュージックのためのラジオ局を作ることを決めた。それも若い世代のブラック・ミュージックだね。ジャズやチャック・ベリーを流すわけじゃない。若者が作る、最新のブラック・ミュージック。で、そのラジオ局、1Xtraが作られたのがグライムが出てきたのとほぼ同時期だったから、長年の関係性があるんだよ。
――なるほど。
Dan Hancox:BBCはイギリスの人口構成においてブラックのエスニシティがかなり多いこと、それに大英帝国という歴史と関係して、東南アジアのエスニシティも多いことを認識したんだと思う。で、ブラック・ミュージックのために1Xtraを、そしてインドやパキスタン、バングラディシュの移民、その子孫のカルチャーのためにエイジアン・ネットワークを作ったんだ。ひとつにはBBCとしてイギリスの人種構成を反映しなければいけない、っていうのがあっただろうし、Radio1とかが流す音楽がほとんどホワイト・ミュージックだった、という事実とも関係してると思う。当時のBBCはインディ・ミュージックかポップ・ミュージック、ハウスやテクノみたいなダンス・ミュージックが大半だったから。だから、あれは満たすべき必要性を満たすための動きだった。ただ、1Xtraが創設された2002年以降で一番変わったのは、ブラック・ミュージックが主流になったことだよね。グライムやラップ、いまではドリルやアフロ・バッシュメントが――アフロ・スウィングやアフロビート、好きなように呼んでくれていいけど――人種や民族の背景に関係なく、若者全般にとってポピュラーな音楽になった。
――メインストリーム化したんですね?
Dan Hancox:僕は昨年末、『ガーディアン』でレビューするためにドリル・ラップのライヴに行ったんだけど、ドリル自体は、ほぼすべてが若い黒人男性によって作られてる音楽なんだ。それと比べると、グライムにはもっと多様性がある。いろんなエスニシティの人がいるし、グライムをやってる若い女性もいるからね。それはドリルではほぼ見られない。で、まあとにかく、ライヴはスケンド& AMっていうふたりのラッパーのライヴだったんだけど、観客は過半数が白人だった。
――日本では2014年以前のグライムに対するアンダーグラウンドなイメージもありますが、ここ数年のイギリスでは、グライムやラップ、アフロ・ビーツがすっかりメインストリームの音楽になったということが実感として伝わっていないんですよね。
Dan Hancox:実際、若い女の子や女性も多かったし。つまり、ロンドンの郊外で育ったような白人のキッズは、いまはみんなドリルやアフロ・ビーツ、グライムを聴いてるってことなんだ。基本的にそれがメインストリームってこと。それももうひとつ、グライムが最終的にイギリスで文化的に確立された理由だと思う。
グライムを始めとするアンダーグラウンド・カルチャーを後押ししてきた海賊ラジオの伝統と、その合法化の流れ
――また、グライムをプッシュしていたRinse FMが2011年に合法化されたり、Reprezent Radioも同年にスタートするなど、合法化の流れもグライムやUK音楽を後押ししてきたと言えるでしょうか。
Dan Hancox:というよりイギリスには、海賊ラジオがメインストリームに影響を与えてきた長い歴史があるからね。その一方で、海賊ラジオが合法化されて、メインストリームになってきた歴史もある。60年代に遡ると、最初の海賊ラジオは文字通り、海上から音楽を流してた(笑)。他に放送する方法がなかったから。で、船で海へ出て、ビートルズやローリング・ストーンズ、ビーチ・ボーイズのポップ・ソングを放送してたんだ。BBCが流さなかったから。でも一番有名な海賊ラジオ局、レディオ・キャロラインに押されたあまりに、BBCはレディオ1を作ってポップ・ソングを放送することになった。それ以前はビートルズもストーンズも流さなかったなんて、いま考えるとありえないんだけど、これはBBCみたいな団体が時流に追いつくには時間がかかるってことを証明してる。大抵は海賊がやってることをコピーすることになるんだ(笑)。
――アンダーグラウンド、あるいはイリーガルな文化が時代を作ってきたという歴史があるわけですね。
Dan Hancox:一方で、リンスFMがコミュニティ・ラジオ局になり、合法的にグライムを流して、文化的ランドスケープとして一般に受け入れられるようになったことにも前例がある。例えば、ダンス・ミュージックのラジオ局で一番有名な局のひとつにキスFMがあるんだけど、あれも90年代にはアシッド・ハウスを流す違法の海賊ラジオだったんだ。リンスFMがグライムやダブステップに影響力を持っていたように、キスFMにも影響力があった。基本的に、イギリスでは同じパターンが起きてるんだよ(笑)。キスFMもビッグになりすぎて警察や自治体から注意を集めてしまったから、最終的にはライセンスを取得した。合法化して、合法的に収益を上げる決断を下したんだよね。それと同じことをいまリンスFMがしてるんだ。
市井の感覚を持った労働党党首ジェレミー・コービンの登場が後押しした、グライムの積極的な政治的アクション
――最近は多くのMCが表舞台の政治に対してアクションを起こしています。ノヴェリストが表明した"Stop Killing the mandem"、JMEとジェレミー・コービンとの対話、近年ではストームジーのBRIT's 2018でのパフォーマンスなどには、わかりやすい意味での社会との関わりがあります。まず彼らが政治に対して意見をするのにはどのような背景があると思いますか? 日本では芸能人や音楽家が特に政権に対して意見を表明することは嫌がられる傾向があります。
Dan Hancox:それはイギリスでもそんなに変わらないよ。長い間ミュージシャン側も政治的な発言をしたらメディアやファンと揉めるから、何も言わないほうが楽だ、って考えてきたしね。たとえ政治的な意見があったとしても、表立っては発言しなかった。でも、確実に何かが変わったんだよね。それはごく最近、やっぱりジェレミー・コービンが労働党党首に選ばれてからじゃないかな。グライムが突然表立って政治的な発言をするようになった理由は、初めて彼らが『自分たちの価値観や信条を代弁する政治家が出てきた』と感じたからだと思う。ジェレミー・コービンと彼らはあるスピリットを共有してたんだ。
――というのは?
Dan Hancox:グライム・シーンもつねにアウトサイダーで、エスタブリッシュメントの外側にいた。あとこれも重要なんだけど、ジェレミー・コービンは長年ロンドンの労働階級の人々、ブラックやアジア系の人々を支援してきた議員だったんだ。彼の選挙区はノース・ロンドンのとても貧しい地域だったから、他の政治家よりグライムが出てきた世界を理解してたし、話すことも誠実で、そこを若者やグライムのファン、グライム・アーティストはリスペクトした。しゃれたヘアカットで、いいパブリシストがついてるような政治家とは違って、ジェレミー・コービンは黒のジャージ姿のスケプタと同じだよ(笑)。彼はジイさんっぽい古い服を着て、トニー・ブレアみたいにパリッとしたスーツを着ることもなかった。それが理由のひとつ。
――なるほど。
Dan Hancox:ただ、僕としてはグライムはつねに政治的だったと思う。表立って政党や政治家をサポートすることはなかったけど、別の意味で政治的だった。グライムは、ずっとハードな状況における貧困や犯罪について語ってきたし、そこからの脱出、エスケープについても語ってきた。成功して、合法的に金を稼いでここから出てやる――みたいな。そういう全部が音楽のなかで語られてるんだ。そこに政治性があった。でもノヴェリストやJME、ストームジーみたいな人たちはさらに言いたいことがあるのに気づいたし、同時に初めて、彼らを代弁するような政党、政治家が出てきたんだと思う
誰もが手をこまねくしかない、ブレグジットという「悪夢」
――ちょっとした好奇心なんですが、いま彼らはジェレミー・コービンに対してどんな感情を持ってるんでしょう。先日『ガーディアン』でも、ジェレミー・コービンがブレグジットを容認するような態度を見せたことで、若者が失望している――みたいな記事を見かけたんですが。
Dan Hancox:彼は最近、そのせいで労働党支持者の間でもいろんな論議を醸してるんだよね。うん、どこまで話が逸れていいのかわからないんだけど(笑)……僕は政治記者でもあるから、労働党やEU離脱についてはずっと記事を書きつづけてるし。でも大半の人たちは我慢強く、どうなるのか様子を見てるんじゃないかな。というのもブレグジットはもう政治のゲームみたいにもなってて、駆け引きやら我慢比べやら、いろんなことが起きてて。労働党とジェレミー・コービンのほうも政府から保守派を追い出そうとして、ゲームを仕掛けてるし。つまりブレグジットの周囲では右から左まで、相反する感情が渦巻いてて、複雑っていうよりも……うん、誰もちゃんとした答えが見つからない悪夢が続いてる――って感じかな。
――難しい状況ですね。
Dan Hancox:例えば、『国民投票はキャンセルして、EU加盟国のままでいよう』ってことになるとする。僕の友人たちも僕自身も、それが可能ならすごくうしい(笑)。ただ残念なことに国民投票は行われたし、最終的にはものすごい接戦ってわけでもなかったんだ。投票結果は51%が離脱賛成、48%が反対。その数字を見るとギリギリなんだけど、実際には残留より100万人も多くの人が離脱に投票した。僕らはその理由を理解して、どうにかする方法を見つけなきゃいけないんだけど……まあ、基本的にはずっと悪夢だよ(笑)。グライム・シーンはいま、あんまりそれについて語っていないと思う。その理由は、ほとんどの人が何を言えばいいのかわからないからじゃないかな。ほんと、解決策が見つかるといいんだけど。
最新のアンダーグラウンド・ミュージック=ドリルが映し出す、気の滅入るほどダークな現実
――「Inner City Pressure」は最後にハーレム・スパルタンを取り上げ、ハイパーローカルな音楽の現在について論じていますが、現在はいかがでしょうか。
Dan Hancox:ハーレム・スパルタンはドリル・ラップのすごいクルーだ。ドリル・ラップにはシカゴで生まれたラップ・ミュージックのスタイルがあって、ロンドンのキッズがYoutubeのビデオを見てインスパイアされて、それを真似はじめたんだよね。この2年、それがロンドンの公営団地のある地区でずっと盛りあがってるんだけど、同時に問題になってもいるんだ。実際、グライムやロード・ラップ以上に論議を呼んでて。リリックがすごく暴力的だし… ロンドン全体でも多くの暴力が起きてるんだ。
――1月に『ガーディアン』で「ロンドンの人口が増えるにつれ犯罪率が高まっている」という記事を書かれてましたね。それとドリルについても。
Dan Hancox:ああ、読んでくれた? いや、ほとんどの人にとってはロンドンはとても安全な街なんだよ。ただ家族が貧しくて、公営住宅で育った若い黒人男性にとってはずっと危険になる。学校でちゃんと勉強してるような真面目な男の子でさえ、危険な目に遭うリスクがぐんと高くなるんだ。公営住宅にはドラッグを取引するギャングがいて、たまたまロンドンの別のエリアの出身だと、暴行を受ける危険がある。最悪なのは政府の予算が削られたせいで、ユースセンターやそれに類似したサービスが閉鎖された。そのせいで、状況がますますひどくなったんだ。僕があの記事で書いたのはそういうこと。
――実際のところ、今後ドリルのシーンはどうなっていくと思いますか?
Dan Hancox:ドリル・ミュージックはいま苦境にある。そういうドラッグの取引や暴力みたいなカルチャーと強いつながりがあるし、歌詞も、例えば僕が聴くと暴力的すぎて、なんか落ち込んだりするくらい。グライムにも暴力的な表現はあったけど、大抵はジョークっぽくふざけてるか、シアトリカルなパフォーマンスだった。怒りとかの表現で、現実のリアルな暴力をそのまま描くものじゃなかったんだ。それと比べると、ドリルはずっとダークで。でももうすでにドリルは、音楽スタイルとして変化もしはじめてる。よりポップな感じになったりね。
――その変化を象徴する曲を挙げるとすれば何になりますか?
Dan Hancox:ラスっていうアーティストの“ガン・リーン”っていう曲が1ヶ月ほど前に出たんだけど、それはポップでハッピーな曲で、ダンスの振り付けもあったりして。その側面がもうちょっと広がるといいな、と思ってるんだ。じゃないと気が滅入るから。
Dan Hancox:ドリルを作ってる若い連中の状況は本当に厳しいんだよ。彼らにとって、音楽をやることが成功とか、そこから抜けだす機会につながればいいんだけどね。ただ、若者を救うのは音楽の仕事じゃない。彼らには教育と住居、メンタル・ヘルス・サポート、ユースクラブを通じて支援が与えられるべきなんだ。それこそが若い世代の暴力を止める方法だし、音楽だけが脱出ルートであってはいけないんだよ。
次の新しいカルチャーは都市の周縁部から生まれる?
――その通りだと思います。では最後に、今注目しているロンドンのムーブメントがあれば教えてください。
Dan Hancox:やっぱり一番最近の例を挙げるとすれば、ドリルってことになるだろうね。グライムが始まった2000年代初頭には、レコード屋も海賊ラジオもクラブもあった。でも、そういう物理的空間がなくてもドリルは出てきて、ジャンルとして盛り上がったんだよね。代わりにみんながネットでやり取りして、ビデオをプロモートして。ということは、地理的な要素が若いワーキング・クラスの連中にとって悪い方向へ変化したとしても、やっぱり地理的に特徴のあるシーンは出てくる、ってことが証明されたいい例だと思う。
――例え、その中心がオンライン上に移行したとしても、ローカルとしての特徴は浮かびあがるんだ、と。
Dan Hancox:ただ僕にとっては、ロンドンがますます高価になり、ジェントリフィケーションが起きると、中期的に目にする現象といえばやっぱり、貧しいコミュニティやワーキング・クラスが都市の外れに追いやられていること。郊外っていうよりは周縁部だね。パリの都市計画と似てる。パリだと公営住宅はぐるっと周辺に建てられてるから。だから、黒人のワーキング・クラスの若者によるユース・カルチャーっていうことで言えば、未来のジャンル、ラップのサブジャンルはそういう周縁部から生まれてくる可能性がある。実際、ストームジーだってインナーシティの出身じゃないんだよ。彼の出身地のソーントン・ヒースをロンドンの地図で見ると、中心部からはかなり離れてる。次のジャンルがなんであれ、それが近い将来のトレンドになるかもね。
――都市の変化と共に、アートの震源地も移動し続けてるというわけですね。
Dan Hancox:いまはいろんなことが起きてるんだ。ドリルもあるし、アフリカの影響を受けたアフロ・スウィング、ジャマイカのダンスホールに影響を受けたサウンドもあるし。その次に出てくるのがどんなものであろうと、周縁から出てきても不思議はないんじゃないかな。
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