4 #ブルーノ・マーズと洋楽

避難所としてのクィア・ラブソング。「自分の歌」を手にするために洋楽が果たしてきた役割

ARTS & SCIENCE
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恋愛を歌にする。それは有史以前から人間が繰り返してきた、もっとも普遍的な文化表現のひとつだろう。誰かを思う高揚、幸せと喜び、別れの痛み。恋愛のさまざまな瞬間を切り取り、その感情を旋律に託す営みは、古今東西を問わず連綿と続いている。

けれど、そのラブソングを聴く私たちの立場は一様ではない。恋愛の語られ方や、関係性のあり方は共有されているわけではないし、とりわけ、日本社会において自身の恋愛やセクシュアリティを公に語ることが難しい立場に置かれてきたクィアの人々にとって、ラブソングはときに距離のある存在でもあるだろう。日本で洋楽に耳を傾けるとき、そこには言語の距離、文化の違い、そして、時に「自分の物語としてどう受け取るか」というプロセスが生まれる。

今回はとりわけ日本においてクィアな曲を求める人々が聞くラブソングに焦点をあてる。彼ら(They)は、洋楽としてのラブソングをどのように自分のものとして取り込み、どのような解釈を編み出してきたのか。その営みを通して、ラブソングという普遍とされてきた文化を別の視座から考えてみたい。

クィア達のラブソング探し

ラブソングは、単なる恋愛感情の描写にとどまらず、自己の内面や感情を表出する場としても特徴的だ。感情を旋律と歌詞に乗せることで、リスナーは自分自身の感覚を確認し、共鳴することができる。

しかし、邦楽でも洋楽でも長らくオープンに楽しまれてきたラブソングの多くは、異性愛表現が中心であった。例えば、本特集のキーアーティストでもあるブルーノ・マーズのヒット曲「Marry You」は男性ボーカルが歌詞内の「girl」に対して「君と結婚したいかも、結婚しようよ」とサビで繰り返しており、異性愛カップルが自然に想像される。

Video: Bruno Mars / YouTube

このように、楽曲に胸を打たれても「自分ごとではない」距離感が存在してしまう中で、英語にある特徴やクィア当事者、アライ(LGBTQ+の支援者)のアーティストが多い洋楽が日本のクィアの避難所になっているのではないだろうか。

そして、クィア達によるラブソング・ディグが始まるのだ。このディグの中で重要なのは、楽曲のヒット度やアーティストの意図ではなく、聴き手自身の感情が中心になることだろう。クィアのラブソング探しは音楽を介した自己表現の拡張でもある。こうして、既存のラブソングは、新しい文脈と物語をまとい、彼ら(They)の「自分の歌」として生まれ変わる可能性を秘めている。

「IとYou」が作る、受容の余白

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Image: Dean Drobot / Shutterstock.com

日本語と英語のラブソングには、構造的かつ文化的に大きな違いがある。

日本語の歌詞では「僕」「私」など、性別や異性愛を前提とした言葉が入り込みやすい。一方で英語は、歌っている声のジェンダーはさておき、一人称が I、二人称が you のみで構成されるため、日本語よりも、聴き手が自己と他者を投影しやすい。

この“余白”こそが、クィアなラブソングを求める日本のリスナーにとって特に重要である。

自分の恋愛や感情をそのまま重ね合わせやすい英語のラブソングは、日本語のラブソングよりもはるかに「自分のもの」にしやすい。そこでは、歌詞の主語や相手の性別を想像で補いながら、聴き手それぞれの「私とあなた」の物語が紡がれていく。

洋楽は、日本社会の中で語りにくかった感情や関係性に声を与え、日本にいるクィアのリスナーにとって“自分らしさを肯定するための音楽”として機能してきた。そして、日本人が洋楽を聴くという行為は、言語や文化の“ずれ”を通して、自分自身をより自由に、本来の自分へと開いていく営みでもある。

特に、作品をクィアな方向へ解釈していく「クィア・リーディング」の手法では異性愛を前提として作られた作品や表彰であってもそこにクィアネスを導き出すと言う点において有用な解釈の方法として機能してきた。

アーティストのカミングアウト

さらに、海外ではクィアアーティストが自らのセクシュアリティをオープンにしながらラブソングを歌うことも多い。ノルウェー出身のシンガーソングライター、girl in red の “I Wanna Be Your Girlfriend” もその一例だろう。

Video: girl in red / YouTube

彼女は自身が同性に惹かれること、楽曲の中では主人公が恋するハンナに「友達ではなく恋人になりたい」とまっすぐに告白する。その率直さは、クィア当事者、特にレズビアンのリスナーにとって“自分の恋愛”を肯定してくれる表現として受け止めることができる。このような楽曲は、日本のクィアリスナーにとって自分の恋愛を肯定してくれるものとして受け取られてきたはずだ。

そして、こうした洋楽は、そうした“アーティストへの信頼”を培う場でもあった。日本ではアーティストが恋愛対象やセクシュアリティを明示することが少ない中で、海外のアーティストたちは恋を語り、自らの立場を明かしてきた。その姿勢こそが、クィア・リスナーにとって安心して愛を聴ける場所を生み出しているのかもしれない。

カミングアウトはアーティスト自身の生き方を表明する行為だが、日本はアーティストにとってまだカミングアウトがしやすい環境であるとは言いがたい。ポップ音楽に政治的な内容を織り込む文化が育っていない日本において、カミングアウトの行為そのものが政治的に解釈されることで、カミングアウトに対して発言をためらわせる土壌をつくっているのではないだろうか。

しかし、その一方で状況は確実に変化しつつある。SHISHAMOのドラマーである吉川美冴貴氏が自身の同性パートナーシップを公表したり、XGのCOCONAがノンバイナリー・トランスマスキュリンであることをカミングアウトするなど、アーティスト自身が自らのジェンダー・セクシュアリティを言葉にする事例も現れてきた。これは日本の音楽シーンにおいても、自らのあり方を隠さずに語る選択肢が現実のものになりつつあることの現れだと感じている。

消費か、連帯か:コンテンツをめぐる実践

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Image: Shutterstock

さらに、アーティストのカミングアウトがポジティブに受け入れられるような潮流とともに、「クィアベイティングQueer‐baiting)」が増加してしまうのではないかという懸念がある。

クィアベイティングとは、作品やビジュアルにおいてアーティスト本人が性的マイノリティであるかのような表象を用いながら、クィアやアライのコミュニティへの明確なコミットメントを避けたまま注目を集める、という「クィア性を消費するマーケティング手法」を指す。

これまで洋楽のラブソングが日本のクィアリスナーにとって「避難所」たりえた背景には、クィア当事者・アライのアーティストがファンや多様性のある社会に誠実な姿勢であることに寄せる「安心感」がある。

しかし、単純にクィア表象の認知が広がり、そこにファンがつくケースが増えるほど、クィア表象が次第に商業的な価値を帯びていく。そしてアーティストを売り出したいマーケットで生じるのが、クィアコミュニティに目を向けず、アーティストのクィア性を匂わせ、ファンの耳目を集めるクィアベイティングである。

つまり、クィア・リスナーが安心して身を預けてきた場所が、単に消費を誘う表象へと変質してしまう危うさが内在しているのだ。

本来、洋楽が「避難所」たり得たのは、英語の I と You が生み出す「読み替えの余白」と、クィアの存在を否定しないアーティストの姿勢が生む「安心感」という、二つの条件が揃っていたからだ。

ラブソングを開きつづけていくために

洋楽のラブソングが、日本のクィア・リスナーにとって「避難所」として機能してきた理由は、2つある。英語の IYou が生み出す読み替えの余白。そして、クィアの存在を否定しないアーティストの姿勢が生む安心感だ。

そうした空間で、生存のために自らの居場所を見出してきた営みがあったからこそ、ラブソングはクィアにとっての「自分のもの」になり得たのではないか。しかし、またそれがクィアにとっての新たな囲い込みにならないかどうかも問われ続けなければならない。洋楽のラブソングをめぐる実践を、クィアを閉じるものではなく、社会の中へと開いていく営みとしてこれからも見つめ続けていきたい。

#ブルーノ・マーズと洋楽