2010年代の様々なテクノロジー・プラットフォームと、音楽や映画、ゲームなどのエンタテインメントの関係を振り返る機会が増えたのだが、近年を調べれば調べるほど、アメリカを中心にSNSやプラットフォーム、ウェブメディア、ニュースメディアがどこも「キャンセルカルチャー」を議論する投稿や記事で溢れ返っていたことに気付いた。
キャンセルカルチャーに対する疑問は自分の中で長く抱えていた。が、議論することとなればなかなか難しい。この特集では企画当初、エンタテインメント産業やビジネスにおける「ファンダム」と、テイラー・スウィフトあるいはビリー・アイリッシュの関係といった極めて明るい話題を取り上げようとしたところから始まったのだが、ファン・コミュニティの実情を調べていくうちに、「ネット上での発言権の自由」や「ヘイト」「アクティビズム」といった認識や行動倫理の違いにもぶつかり、徐々に膨らんできた違和感を事象として捉えて俯瞰したとき、この特集のテーマを「キャンセルカルチャー」に変えたという経緯があった。
キャンセルカルチャーがメディアで問題視されるキッカケともなったのは、イギリスのChannel4とアメリカのHBOが制作した、故人マイケル・ジャクソンの性的虐待と人間関係を追ったドキュメンタリー映画『ネバーランドにさよならを』(原題:Leaving Neverland)だろう。3月にイギリスとアメリカで放送され(1月のサンダンス映画祭で初上映された)、その後Netflixでも全世界に配信された同作は、少年時代にマイケル・ジャクソンから性的虐待を受けた被害者の証言があまりにも衝撃的だったため、SNSやメディアではあっという間にマイケルを「キャンセル」し始めた。(参考:マイケル・ジャクソンの「被害者」が、少年だった頃の性的虐待を赤裸々告白 ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト)
公開当時から、彼を擁護するファンや関係者、特に家族関係者やかつての音楽仲間であるアーティストたちは、マイケルの支持を表明し始め、ドキュメンタリーの事実無根を主張する者や、無実を証明する動画が公開されるなど、あらゆる方法で反論を試みた。だが、一般的にも目に入ってくるのは、不快な感情を抱いた大勢の視聴者たちによるSNSでの過激な反応。そして、メディアが連日公開するニュースの数々。フィルターバブルの中からお互いが論争を繰り広げるわけだが、客観的な「ウォッチドッグ」的役割を果たす人もいれば、主観的な防衛本能を公の場でフル稼働させその考えに固執する場合もあるだけに線引きが難しい。そこに企業やエンタテインメント産業も介入し、統制を図ろうとして問題の解決を試みてくるのでさらに波紋も拡がっていく。
マイケル・ジャクソンの糾弾に繋がったのは、同ドキュメンタリーがサンダンス映画祭で公開される3週間前に米ケーブルテレビのLifetimeが放送した、R&B界の大物シンガー、R・ケリーの性的暴行告発に迫るドキュメンタリー『サバイビング・R.ケリー』(原題:Surviving R. Kelly)であることは否定はできない。新たに露呈されたケリーの悪行の数々が放送された後での『ネバーランドにさよならを』となれば衝撃は大きい。
この数年では、R・ケリーの作品だけでなく、ケビン・スペイシー出演のNetflixシリーズ「ハウス・オブ・カード」を、いかに取り扱うかという問題も浮上している。今やプラットフォームでさえ、問題の人物の作品を否定してキャンセルする消費者と向き合わねばならない時代になった。かといって、作品を取り下げれば問題が解決するわけでもないし、Netflixは現在も「ハウス・オブ・カード」を配信し続けている。(参考:暴力とハラスメントが止まらぬ米音楽業界に、なぜ「#MeToo」の波は押し寄せないのか?|WIRED.jp)
2019年ではまた、美容YouTuber、インフルエンサーのジェームズ・チャールズ(James Charles)とタティ・ウェストブルック(Tati Westbrook)が広告商品の宣伝投稿を発端に批判投稿で応酬しあい、お互いをキャンセルし合うというYouTuber同士の騒動も起きる。この件では、マスメディアやメインストリームのウェブメディアよりも、YouTubeやInstagramの「ドラマチャンネル」や「Tea」と呼ばれるチャンネルが情報拡散の大きな役割を果たしていたことも、SNSがいかにキャンセルカルチャーを加熱させるか、その現代社会における影響力をまざまざと見せつけられた気がする。(参考:James Charles, Tati Westbrook and the Chaos of Cancel Culture – WWD)
さらにはデイヴ・シャペルやケヴィン・ハート、サラ・シルヴァーマンなどアメリカ人コメディアンがキャンセルカルチャーと対峙することとなるが、実際にアメリカの「お笑い」ではテレビやラジオ、ポッドキャスト、SNSの投稿まで掘り返され、過去の失言によって仕事が無くなったりするなど、オーディエンスと向き合うための笑いのルールが急速に現代化し、今までとは全く違う新しい価値基準を持つことが重要視され始めている。(参考:Dave Chappelle Slams Michael Jackson Accusers, "Cancel Culture" in Netflix Special | Hollywood Reporter)
#MeToo以降、エンタテインメントとポリティカル・コレクトネスの境界線は再定義され続けている。そのコンテンツ供給の役割を担うプラットフォームも、企業としてのスタンスを消費者から問われるようになり、頻繁なポリシー変更とユーザーコミュニティとの対話を繰り返すようになっていった。
さらには、エンタテインメント産業では対応が遅れていたダイバーシティへの取り組みが進んでいるが、アーティスト本人あるいはそのファンダムとの向き合い方(ビジネスを含めて)が発端となり、新しい産業構造に業界がアップデートするキッカケを作ったと考えれば、ある意味でポジティブな流れと言えるはずだ。こうした海外のエンタテインメントにおけるダイバーシティやポリティカル・コレクトネス(PCカルチャー)に対する認識の変化を見ると、日本とのギャップの広がりを痛感させられる。
しかし、音楽や映画、YouTubeにしろ、キャンセルカルチャーを擁護するつもりは毛頭ない。その行動は、映画や音楽、ゲーム、メディア、テクノロジー業界に至るまで、さまざまな産業ですでに拡がっており、そこをウォッチする一般人の発言の自由の解釈まで左右しているが、つい最近も「○○をキャンセルする」という発言がアメリカのティーンエイジャーの間で蔓延しているというニューヨークタイムズの記事を読んで、子供への影響力に恐怖を感じたばかりだった。この実情を2010年代の「オルタナファクト」「フェイクニュース」と続く危険なベクトル上にあると捉えてしまうと、キャンセルカルチャーは産業や大人の世界に留まらない行動のひとつにさえなっているのだろう。(参考:Tales From the Teenage Cancel Culture - The New York Times)
キャンセルカルチャーの違和感や恐怖観念を、メディアが煽りがちな「ネットの闇」といった単純な言葉だけで解釈できないと思う。その認識を軸に、FUZEでは「キャンセルカルチャー」の現象を海外での事象を中心に議論し、様々な観点から掘り下げているが、この特集はエンタテインメントビジネスやメディアビジネス、カルチャービジネスに蔓延する社会的価値観と責任の対話を考えるものとなっている。一方で最近は「ミドル・グラウンド」という言葉もまた、社会的または文化的な文脈で見るようになった気がする。翻訳すれば「中道」「中立」という意味となるが、イデオロギーが多様化する社会構造の中で、いかに中立地を作れるかは、今後大きな焦点になっていくのかもしれない。
目的と価値消失
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