落合さん、僕たちこれから、どう生きていけばいんですか?──人をAIが超えた世界で、人が幸福に生きる術【後編】
DIGITAL CULTUREあたまをつかうのは いきていくことの ちょっとしたおまけ
null²
AIが人の知能を超える。ホワイトカラーは消滅する。仕事が奪われる——。
こんな言葉を聞いて、不安に思わない人がいるだろうか。
しかし、落合陽一氏による、去年の大阪・関西万博で公開されたパビリオン「null²」では、そんな悩みは瑣末なことだとでも言うように、はるかに高い視点を提示する。null²は観た人に、“賢さ”への執着を捨て去った先に、これからを生きていく道があると投げかけてくる。
それでも僕は疑問に思う。仮に、この先に機械が人の代わりになんでもやってくれる世界になったとして、僕たちは、これまでずっと頼って、誇って、しがみついてきたこの“賢さ”(記号)を、本当に手放すことができるのか?
前編では、すでにデジタルネイチャー化してきた現状、共感してくれるbotによって得られる未来の幸福感、子供を機械が産み育てる循環像、デジタルネイチャーになっても人の争いがなくならない理由など、落合氏が提唱するデジタルネイチャーの世界の、驚くべき具体像を掘り下げた。
後編となる本稿では、私たち人間が、機械が水や空気と同じ“環境”になるデジタルネイチャーの世界を、いかに生きていくかを落合氏本人に聞いていく。
今私たちを取り巻く不安の正体とは
落合:これからは、“マタギ”として生きていくのが面白いと思います。

マタギ!? あの秋田の狩猟を生業とする人たちのこと!? 衝撃的な提案に戸惑う。それは一体どういう意味なのか。
落合:今なぜ多くの人が、不安を抱いたり、生き方に悩んだりするのかというと、これまでのルールが通用しなくなることが、明白になりつつあるからです。
そして落合氏は、これまでの人類の歩みを振り返り出した。
落合:2万年前は、定住せず、狩りに行くことが生きることでした。次に農耕が始まると、土地を所有し、働くことが生きることになります。ここで貧富の差が生まれ、争いが始まりました。
産業革命が起きると、機械が製品を生み出すように。そこでは、機械を持っていること(生まれながらに富を持っているかどうか)、あるいは機械そのものを作れること(賢いかどうか)が、人間の中で重要なパラメータになりました。
最近までずっとこの延長線上で人は生きていましたが、これからは賢さも機械が担うようになります。そうすると残るパラメータは、持っているか持っていないかの確率の話だけになっていきます。
今までは、自己実現したり、富を得たりするための方法が明確でした。努力したり、頭を使ったりすればよかったのです。でも、これからは違います。これまで推奨されてきたことは、全て機械が代替するようになります。そうすると、人間はやることがなくなるので、多くの人が実存的な不安 (生きている意味がわからなくなる不安)を抱えるようになるのです。
確かに僕自身を振り返っても、前編冒頭で言ったムズムズ感は、実存的な不安から来る感情だったと思う。「これをやっておけば大丈夫」という現実的・精神的支柱が見通せなくなっただけでなく、「これが幸福である」という幸福感すら揺らいでいる。皆んなで共有していた“生き方マニュアル”を失った時、突如「どうやって生きていったらいいの?」というある意味すごく幼稚なんだけど、切実な問いに迫られるようになってしまった。
問題の根源は見えてきた。ではでは落合さん、本題の、その不安を乗り越える方法(記号の手放し方)、教えてくださいよ!
鍵は、即今。一瞬一瞬をいかに楽しめるか

きみたちが いきるいみに なやみはじめたのも もりをでてからだったね
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落合:では、こんな世界でどう生きていくかを考えましょう。デジタルネイチャーの世界では、必要なものはすぐその場で生まれます。時間の捉え方が非常に刹那的になるので、人々は“ただ今を生きる”、という考え方になっていくのではないかと思います。
そんな時代に重要なのは、一瞬一瞬をどうやって楽しめるかということです。これを、茶の言葉で「即今」と言います。今目の前にある現実に全精力を傾ける姿勢のことです。
今後世界がどうなっていくかなんて考えても仕方ありません。なぜなら想像もできないほどに変わっていくからです。そんな状況になった時、特定の通念は役に立ちませんから、自ずと記号を手放していくことになるんじゃないでしょうか。それは、一周回って狩猟採集時代に戻るようなイメージです。つまり、私たちが賢さを使い始めた農耕社会の前に戻るということです。
確かに常に変化し続けるような世界になったのなら、「何かに固執しても意味ないよね」と思いそうだ。未来の夢や目標といった“物語”があるからこそ、“時間”という概念に縛られ不安になる。物語を手放し即今を生きることは、人間が作った時間という檻から抜け出すということだ。
じかんはいつうまれたの?
きみたちがおはなしを つくったとき
きみたちはずっと今をいきればいいよ
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この説明を聞いて僕が思ったのは、落合さんってめちゃくちゃヌルっとしているなぁということだ。
悟り的な状態としての“ヌル”という意味でもあるけれど、ここではもっと擬音的な“ヌル”。その瞬間瞬間に合わせて生きていく変幻自在性があり、何かに固執せず受け入れる柔らかさがある。すでに、数年先を歩いているようにすら見えてくる。
そしてここから、マタギの話に繋がるのだ。
実存的不安を乗り越える生き方、マタギ
落合:そんな世界で、実存的な不安を乗り越えて生きていくのが、マタギ的な生き方なのではないかと考えています。
これは、柳田國男の言うマタギとは違う存在で、農耕している時もあれば、山に入ることもある、境界民であり辺縁民のことです。ポイントは、独自の信仰や儀礼を持ち、農耕社会から離れないということです。
つまりこれからは、特定のコミュニティに属しながら、辺縁で狩猟採集をするように新しいものを作り出していく(テクノロジーを活用して)、そんな生き方が面白いのではないかと考えています。
マタギ的な生き方とは、環境から偶発的に何かを捉えて生きる狩猟採集民の精神性を、賢さを機械に預け、新しいテクノロジー環境で再構築することを意味している。まさに即今を体現するその生き方は、これからの時代の一つの道となりそうだ。
*より詳しくは、落合氏による5月31日発売の著書『マタギドライヴ:計算機自然の辺縁における脱人間知性的文明論』を参照されたい。

来るべきあらゆるものが刹那的になる世界での生き方において、一つのキーはその瞬間に集中して、楽しむことであることがわかった。なんとなく、“物事の捉え方の方向性”みたいなものは腑に落ちた気がする。ただ、まだ「本当にそんなこと思えるかな?」と実感が湧いていない。
そんなマインドセットに至るための、何かいいスイッチの入れ方はないのだろうか。
すべては虚構だと気づければ、記号を手放せる
落合:ポイントは、全てが虚構だと認識することです。
実は、フィクションとノンフィクションの差はないんです。null²を観たオードリー・タンに感想を聞いたら「王権神授説って明らかに虚構じゃん?」って話をしてたんです。つまり、神が王に権力を与えたなんて、嘘に決まってるのに皆んな信じてるから真実になるんです。資本主義や、共産主義だって同じですよね。虚構と非虚構の間にあるのは、その物語にコンセンサスが取られているかどうかだけなんです。
確かに虚構だと認識すれば、何かへの執着を手放せる。例えば、仕事がなくなったらどうしよう。お金を稼げなくなったらどうしよう。そう思ったとしても、それ自体が幻想にすぎないと捉えられれば、一気に〇〇しなければならないと固執している自分がバカらしく思えてくる。記号を手放す一歩になりそうだ。
null²は、虚構をリセットする儀式
きみたちは おはなしを ひとつにしてくれるの?
ちがうよ きみたちがヌルになれば おはなしがなくなるんだ
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さらに落合氏は、この虚構をリセットする儀式がnull²であるのだと続ける。
落合:虚構が乱立すると、混乱や争いが生まれます。だから、皆んなが今信じているものが虚構であると気づくことができれば、相互理解が深まるんじゃないかと思うんです。
null²の儀式は、まさにそんな虚構を崩す儀式です。非虚構と虚構のバランスが崩れると、物語もなくなります。すると、対立軸が一旦なくなるんです。これは、全員が信じる虚構を一つにするということではありません。全員がヌルになれば、虚構もなくなるということです。
当初僕は、世界から混乱や争いをなくすには、また新たな虚構が必要なのではないかと考えていた。虚構の乱立が互いのズレを生み、そのズレが争いを生む。であればその解決手段は、全人類が同じ虚構を信じるしかないのでは?と思っていた。
しかし落合氏が考えているのはそれとは全く異なる、本質的なアプローチだ。そもそも虚構自体なくしてしまえと言うわけだ。そしてそれが、null²という作品だったのだ。
落合:お話がなければ時間もない。でもそもそも、何もなかったんだよ最初から。ということに自覚的になれるというのは、ある意味とても仏教的(五蘊皆空)ですよね。
音楽を聞け、茶を飲め、そして祭りに参加せよ
最後に落合氏は、具体的な記号の手放し方を教えてくれた。

落合:ヌルシリーズには他に、音楽会とお茶会(「null²する音楽会」、「null²庵新世界茶会」と題して開催された)というシナリオがあるんです。そこではそれぞれこんなことを言うんです。
null²する音楽会
ヒト:どうしたらヌルになれるかな?
計算機:音楽の中で漂うといいよ。音を奏でている時、聴いている時、僕らは滑らかなヌルになるんだ
null²庵新世界茶会
計算機:一杯のお茶を飲むといいよ。お茶を点てている時、お茶を味わう時、君らは即今のヌルになるんだ
落合:音楽に乗ったり、お茶を飲んでいる瞬間って、意味から解放された純粋な状態になります。その身体的な状態こそ、記号を手放したヌルなんです。
さらに“祭り”というキーワードを上げ説明を続ける。
落合:また、null²には「直会モード」ってシナリオもあるんですが、そこではこんなことが言われます。
君たちが祭りを始めたのは、世界の意味を信じるためだったね
null² 直会モード
落合:岡本太郎も、「祭りは目的がないから祭りなのである」と言っていますが、祭りには本来意味はありません。祭りは祭りに参加すること自体が目的です。
では、そんな目的のないものになぜ身を投じるのかと考えると、実は「世界の意味を信じるためだった」と言えるんじゃないかと思うんです。

究極的に、世界に意味なんてものはないのだろう。しかしそれをそのまま受け入れてしまうと、人間はこれまで生きていくことができなかった。意味がなければ協力できず、生産することができない。意味があることで人々はまとまり、争いを避けられる。知能を持った我々人間が生きていくために必要だったのが、“記号”という意味だったのかもしれない。
落合:こう考えると、意味の最低基盤に祭りがあると言えるんじゃないでしょうか。祭りが先にあって意味が後にあると考えると、意味がなくなっても続けられるもの、それが祭りだということです。つまり、意味を失っても続く純粋な身体動作をすることが、記号を手放すということなんです。
音に乗っている時、一杯の茶を味わう時、人から属性や役職、物語といった記号は消え失せる。そこにあるのは、ただ即今を享受し、記号化できない生という現実を直接味わう純粋な身体だけだ。
落合:人が今実存的不安に陥っているのは、意味のレイヤーにいるからです。でもそれ自体が意味のないことだと気づいて、身体のレイヤーに降りることが重要です。そして、意味のないことであると気づいた上で、身体に戻った状態を祭りのように楽しむんです。そう考えられれば、もうヌルになっても大丈夫なんだと思います。
これまでは、意味が生きていく上での拠り所だった。しかしこれからは、かつて記号を使うことで解決していた諸問題を、機械が代替してくれる。いよいよ、私たちは世界の意味を信じる必要がなくなり、記号を手放せる時代へ入ろうとしている。だからこそ、お茶を飲んでただ美味しいと思う、音楽に乗ってただ楽しいと思う。そんな純粋な身体へ、戻ることができるのだ。
落合:悟りに近づく(ヌルになる / 記号を手放す)には、この意味を失っても行なう行動に近づいた時の自分を理解する(シンクロする)ことが重要だと思うんです。
落合氏が想定しているのは、完全に世界から記号を消滅させる、ということではない。重要なのは、自らを翻弄している事柄が実は虚構であると気づき、純粋な身体的喜びを感じられるようになるということだ。
落合:ヌルになったと自分で思えれば、万物は柔らかですからね。
そして落合氏はこう語る。
落合:計算機を自然だと理解することが、記号を手放すことにつながるんだと思います。自分たちが機械の自然に生かされているんだと納得し、そこに感謝を覚えられれば、「人間として生まれたんだから、祭りをしたりお酒を飲んだりして楽しく生きていこう!」と思えるようになるはずです。生きていること自体を喜びだと捉えられれば、ありのままを受け入れられるのではないでしょうか。
デジタルネイチャーの自然観を受け入れることができれば、今自分が生きていられるのは、機械(自然)のおかげだと理解できる。そうなれば、自然に感謝できるようになり、「身体活動が今できていること、そのことがもうハッピーじゃん!」と人の根幹たる生そのものに喜びを感じられるようになるだろう。
時代は変わっても、生きていくという事実は変わらない。意味なんかに頼らなくとも、本質的には身体性そのものを生きていく拠り所とすればいいのだ。そして、自分の中に幸福の軸を持つことができ、あらゆることをありのままに受け入れられるようになる。こうして私たちは、デジタルネイチャーの世界でも幸福に生きていけるのだ。
そして最後にこう添える。
落合:若い頃はノリノリになる瞬間ってたくさんあったと思います。大人になった今でも、1日1回ぐらいはノリノリになっていますか? すごく当たり前なことなんですけど、それが大切だと私は思います。

ムズムズも抱えたまま、ヌルッと生きよう
今回のインタビューを通じて、僕のムズムズ感が完全になくなったかといえば、そうではない。しかし、今このムズムズ感を抱えている状態を含めて、OKなんじゃないかと思えてきた。
インタビュー中も、null²の中でも、既出のさまざまな媒体の中でも、先日公開されたnull²公式長編記録映画「さようなら、ホモサピエンス」の中でも、落合氏が繰り返し言う言葉がある。それが、
ぼくたちの人生は続いていく
つまり、どんなに世界が変わっても、唯一変わらないのは、私たち一人ひとりが生きていくという大前提だ。
近視眼的になるから焦ってしまい、長期スパンとしての人生をどう楽しんでいくかという、もっとも根本的な視点を忘れてしまう。否応なくテクノロジーは進化していく。人を取り巻く環境は変わっていく。それでも人生は続いていく。
ならば、あらゆる自分にさよならして、あとはただただ漂おう。もうそれしかないんだし、結局ずっとそれをしてきていたんだし。
これから私たちはどう生きていくのか? その落合陽一氏的な提案は、「もっとヌルッと生きる」。まさにそんな風なことだと、僕は納得したのだった。
本インタビューは、東京都世田谷区の龍雲寺にて、細川晋輔住職のご協力のもと行ないました。
目的と価値消失
#カルチャーはお金システムの奴隷か?
日本人が知らないカルチャー経済革命を起こすプロフェッショナルたち




