人類が賢さを手放す日、世界は一体どうなるか。──落合陽一氏に聞く、あと数十年後の未来像【前編】

DIGITAL CULTURE
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最近ずっと、ムズムズしている。

その原因は、なんだか世界がとんでもないことになってしまいそうなのに(AIのおかげ / せいで)、これからどうやって生きていったらいいのか、さっぱり想像がつかないことにある。

AIの普及で、私たちの生活が目まぐるしく変わっている。例えば1年前、僕はAIを使い、数日かけてツールを作っていた。頭の血管が切れそうになるほど、地獄のような作業だった。それでもAIの発展に驚いたが、1年後の今、ほとんどあの時の苦労をすっ飛ばし、半日ないし数時間もあればアプリが作れるようになっている。

知識ゼロでもプログラミングができた! ChatGPTと5時間格闘したリアル体験記

すごいのは、いまだに僕はプログラミングについて全く理解していないということだ。なんだかAIがせっせと作業している感じは画面から伝わってくるが、何をしているのかはさっぱりわからない。

ただ自分が望むものをAIに「これ作って!」ってお願いしたら、少し待てばボンッと目の前に出てきてしまう。まるで、魔法みたいに。


“機械”が“自然”になる世界。デジタルネイチャーの時代へ

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Photo: Kosumo Hashimoto

しかし、こんな状況を10年以上前にすでに論じていた人物がいる。それが落合陽一氏だ。2015年の著書『魔法の世紀』で、過去の研究者の言説を踏まえながら、2026年の今私たちの目の前で現実に起こっていることを予見している。

重要なのは、単に「魔法みたいになって便利な世の中になるよ!」という話ではなく、さらにその先の魔法が当たり前になった「デジタルネイチャー」という新しい自然観を提唱し、脱人間中心をテーマに、世界が今とは異なる形へと変貌することを主張の核としていることだ。

デジタルネイチャーとは

私たちの生活の中にコンピュータを感じさせないくらい、よりコンピュータが当たり前の存在になりました。

現在は“人間とAI”というように線引きされますが、科学技術がさらに発展していくと、それらが分け隔てなく扱うことが当たり前になるような世界が到来すると私たちは考えています。このような世界を私たちは「デジタルネイチャー」と呼んでいます。

Digital Nature Group - 落合陽一 デジタルネイチャー研究室

コンピュータが環境そのものに溶け込み、人間・AI・自然の区別がなくなる状態。そして“自然”という概念そのものが書き換わった新たな自然観が、デジタルネイチャーだ。人間もAIも、道端に咲く花も、すべての存在を“計算可能なもの”としてフラットに捉えると、それらの境界は消え去り、すべてが計算でつながった一つの大きな自然として浮かび上がる。

それが具体的にどんな状況なのかイメージするのは難しいけれど、生成AIと普通に会話するようになり、かつては「魔法みたい!」と驚いていたことが当たり前になりつつある今なら、なんとなく感覚でわかるような気もする。


「null²」 未来世界への“心持ち”を教えてくれたパビリオン

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Photo: 小野寺しんいち

2015年、筑波大学で「デジタルネイチャー研究室」を立ち上げた落合氏。これまで、デジタルネイチャーそのものと、それが実現された世界で人はどうあるのかについて問い続けてきた。その最たる例が、去年の大阪・関西万博で公開されたパビリオン、「null²」だろう。

取材で参加する機会を得た僕にとっても、null²は衝撃的な体験だった(詳しくは以下の記事に)。その理由は、冒頭のムズムズを一旦晴らしてくれたことにある。

大阪万博、落合陽一の「null²」とは一体何だったのか。太陽の塔との対比で捉える、本質的なメッセージ

null²では「記号を手放す」ことが提唱された(作品内ではその状態をプログラミング言語において「何もない」を意味する“ヌル”になると表現された。本稿ではあえて“悟り”と言い換える)。個人的な解釈を踏まえ超簡易的に説明すると、「これからAIがすごいことになって、もうなんでもやってくれる時代になるんだから、難しいこと考えずにもっと純粋な状態に戻って、楽しく生きていこうや!」ってメッセージ。

体験当時、この発想が僕にはとにかくブッ刺さった。その頃の(今もだけど)AI関連の話題といえば、「AIに仕事が奪われる!」とか、「使いこなさないと置いていかれる!」みたいなものばかり。もっとポジティブで、本質的で、「そもそもどうやってAI時代を迎えればいいの?」の問いに真摯に向き合ってくれる言説にはほとんど出会えていなかった。とはいえ、自分で想像することもできない時に体験したのがこの作品。

「そうか!一般的には、“AIの登場=敗北”だと捉えられていることを、“重荷からの解放”とポジティブに捉えればいいんだ!」と、モヤが一気に晴れた気がした。

しかし、どうしても疑問が残る。これから来る時代での“心持ち”はわかった。とはいえ、そう簡単に記号を手放せるわけないじゃないか。そうたやすく悟れるなら、仏教なんてとっくのとうに小学生の必修科目になっているんじゃないの!? そこで、まだまだ消えないムズムズを、落合氏本人に直接ぶつけてみることにした。

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Photo: Kosumo Hashimoto

場所は、禅寺。null²の下地にもなり、落合氏の思想にも多分に影響を与える仏教。その寺院で話せば少しでも核心に近づけるんじゃないかという、強引な発想だ。

落合さん、僕たちはこれから、一体どうやって生きていったらいいんですか?


すでに始まっている、デジタルネイチャー

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Photo: Kosumo Hashimoto

——早速ですけど落合さん、世界は今、デジタルネイチャーにどれぐらい近づいてきていると思いますか?


落合:去年の4月(null²のオープン時)に「さようならホモサピエンス」って言われた時より、今の方がその言葉をリアルに感じられるようになってきたんじゃないでしょうか。


最新の生成AIは、年々900分の1ぐらいのアクセス単価になっています。止まらないオープンソース化で、価格破壊が起き続けているんです。特定の企業が独占的に利益を得られる状態ではなくなり、ある種の“自然”に近づいているんだと思います。


これまで、デジタルネイチャーへの移行は2040年頃までかかると思っていましたが、意外と早そうな気がしてます。


※null²のキーワードおよび作中使用された楽曲名。デジタルネイチャーの時代に、近代的かつ人間中心的な世界は終焉、人間が“賢さ”を機械に委譲し、もはや「賢い人(ホモ・サピエンス)」ではなくなることを示唆。

最近話題のClaude Code。AIエージェントによるコーディングは、機械が自然化しつつあることのわかりやすい例だ。

人間が指示したら、あとはAIが自律的に動いてアウトプットまでしてくれる。途中、人間に確認を求めるプロセスはあるが、もう何やっているかわからないし、確認のたびに作業が停滞する。

この“人間の介在できなさ”は、まるで自然現象を思わせる。インタビュー中、落合氏はこの状況を「デジタル発酵」という言葉で言い表した。まさに酒造りにおいて、酒そのものを作る工程を麹菌に任せるような感覚で、機械が人の手を離れて勝手にどんどん何かを生み出している状況が現実になりつつある。もはや人は必要ない。人間という存在そのものが、進化のボトルネックになりつつある。


デジタルネイチャー時代の社会基盤。再配分とイノベーション

では、そんなデジタルネイチャー化した世界とは、一体どんな姿形をしているんだろう。落合氏は著書『デジタルネイチャー』の中で、このように言及している。

デジタルネイチャー(中略)での人々の生き方は、ベーシックインカム(BI)的か、あるいはベンチャーキャピタル(VC)的かに分かれていくだろう。


つまり、AIによる補完(多様化オートメーション)をはじめとするテクノロジーの発展で生産力が飛躍的に増大した結果、多くの社会で何らかの形でのBIもしくはそれに近しい資本の再配分か金融商品の分配、問題解決に際しての資本へのアクセス性の簡略化が実現するということだ。そこでは高度なインフラを伴う社会維持システムに組み込まれた人間は機械の指示のもと簡単かつ少時間の労働を営みながらBI的に生活することが可能になる。対して既存のフレームワークの外側を目指す人間は計算機による省人化・効率化や前述の人と機械のハイブリッドシステムを使用して次のイノベーションを起こし、エコシステムのカンフル剤となり続ける。後者をここではVC的なライフスタイルと定義している。


デジタルネイチャー 落合陽一

この世界には、2つの生き方があるというわけだ。一つは、ベーシックインカムによってまったり生きる生き方(落合氏は本著の中でこれを、“成功した社会主義”に近いと補足する)、もう一つは、テクノロジーを使ってガツガツ新しいことに挑戦していく生き方だ。そしてそれらを、超発展して生産性が爆発したAIが、社会基盤として下支えしているという。

なんか今よりピースフルで、楽しそうな未来じゃない!?

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Photo: Kosumo Hashimoto

落合:実はもうすでに、こうした再配分は成立しつつあるんだと思います。


月に3,000円ほど払えば、地球上の誰もが非常に高い知能にアクセスできるようになりましたよね。資本を再配分しなくても、資本を再配分するための可能性を再配分しているので、何かやってみようと思ったら誰でもできる状態になりつつあるんです。これってある意味、ベーシックインカムより強力な再配分だとも思います。


その時代、人はどうやって生命を維持するか

なんとなく、デジタルネイチャーの世界における、人間が暮らしていくための骨組みは理解できた。でもそれって、今みたいに毎日あくせく働かなくてもいい世界ってことでしょ? まだまだ人間がその世界でどう生きているのか、想像が追いつかない。人間が生命を維持していくのに必要な物事は、どうやって担保されていくんだろう?

例えば、生命の根幹、“食べる”はその世界でどうなるのか。今では、誰かの労働で生産された食料が、誰かの労働でスーパーまで運ばれ、それを自分が労働したお金で交換している。この労働と貨幣による交換によって、はるか昔の狩猟採取とは異なる形で食料を供給・受給するシステムが出来上がっている。デジタルネイチャーの世界では、そんな構造自体が吹き飛んでしまうのか?

——デジタルネイチャーの世界では、食料すらも必要な分だけ供給されるようなイメージなんでしょうか?


落合:基本的にはそうだと思います。実現にあたり重要なのは、サプライチェーンの構築です。輸送の自動化は間違いなく起こるでしょう。ただ、日本のように食料自給率が極めて低い場合は、まずは生産できる体制を整える必要があるでしょう。

なるほど、生命維持のための根幹部分はもう機械(自然)に丸投げできそうだなと、だいぶと思えてきた。

でも、僕らはただ食ってれば生きていけるわけじゃない。精神的に幸福であって、初めて“生きて”いられるんじゃないだろうか。


botが受け入れてくれる世界。幸福感はどう得るか

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Photo: Kosumo Hashimoto

——幸福感を得るためには、社会や集団への帰属感や、他者から受け入れられている感じ(承認欲求)も重要だと思います。ここはデジタルネイチャーの中で、どう担保されていくんでしょうか?


落合:これは、「貧者のバーチャルリアリティ」って言葉で説明しているんです。


見たい現実だけを見て、聞きたくない言葉をシャットアウトして、いい感じだと思っているコミュニティに属して生きていれば大丈夫」という雰囲気が、デジタルネイチャー後に出てくるんだと思いますし、もうすでに出てきています。


そしてそんな状況では、自分を肯定してくれる対象がbotか人間かなんて、関係なくなるんじゃないでしょうか。


最近、X上のbotが普通の人間より賢くなってきていると感じます。例えばXでリポジトリ(ソースコードやデータなどを保管する場所)を共有すると、人間よりbotの方が中身を理解していたりするんです。


これから人とbotの見分けはどんどんつかなくなっていくでしょう。そうなると、自分を全肯定してくれる賢いbotが周囲に溢れていれば、人は承認欲求を満たし、社会的な幸福を完結させてしまうでしょう。


そう考えると、帰属感や他者とのコミュニケーションは、AIと喋ることでなんとかなる。自己実現の欲求だって満たされるでしょう。これで、孤独の問題は突破できるんだと思います。

「大変危険な状況だが」と付け加えながら話す落合氏。確かに今の感覚からするとディストピア的で、「人類大丈夫!?」と率直に思ってしまう。でも、現況のデジタル社会を見れば、そんな未来が想像できてしまうのもまた事実だ。


満ち足りた世の中で、人は子供を作るのか

こんな話の中で、ある懸念が生まれる。何もかもが満たされた世界で、人は子を産み育てようと思うだろうか。結果としていつか人は、いなくなってしまうのでは?

落合:人類が絶滅することはないと思います。理由はこれから、機械が人間を産み出すようになるからです。


ここ100年で、人工子宮の技術は飛躍的に進歩するでしょう。その世界では、もう人間が人間から産まれてくる世界ではないんだと思います。

え? でも、なんで機械が人間を産み出すようになるんだ?

落合:一つには、出産は人間の身体における負担があまりに大きいので、必然的に機械に任せていくようになるというのがあるでしょう。


また、機械側が人間が減ってきたら人間を増やそうと判断するんじゃないかと思うんです。人間と機械、どちらが倫理的かと問われると、人間だと思いがちですが実は機械のほうなんですよね。高度に倫理的なAIは、人類という種の保存を倫理的な義務として実行する気がします。


誰もが必要なものを手に入れた世界でも、争いはなくならない理由

こうした壮大な未来の話をしていると、徐々にこんな気持ちが湧いてきた。

これ、ある意味かなり平和な世界になるのでは!? 誰もが生きていくのに必要なものを得られるのであれば(子孫繁栄も含めて)、もう資源を求めて争う必要がなくなるはずだ。やったぜ! ついに平和の時代がやってきた!

そんな浮かれモードの僕に、落合氏はピシャリ。

落合:それ、日本人的な考え方だからそう思うんですよ。


コンテクストがある限り、争いはなくならないと思います。例えば人は、宗教的な意味を持つ土地を巡って争いますよね。石油のような代替可能な資源なら問題ありませんが、メッカのように“そこにしかない”と人が意味付けしたものは代替できないので、欲しければ力で奪い取るしかなくなってしまうんです。

この争いの根源たるコンテクストを生み出すのが、人の文化だ。であるならば、文化同士の差異がなくなる、つまりは文化が統合されていく、地球丸ごと均質化されていくことが、争いをなくす道になるんだろうか。

落合:僕は、文化同士が混ざり合うのは実はかなり難しいことなんじゃないかと考えています。これは、相互理解ができれば文化の差異を乗り越えられるのか? という問いにも置き換えられると思うんですが、それぞれの文化同士が持っている自然観があまりに違うので、相互理解を深めることは難しいんだと思います。

デジタルネイチャーに移行すると、機械が自然の一部になる。すると、その世界でどう生きるかは、各文化圏の自然観に依存する。この自然観のズレが、相互理解や共生の壁となるという指摘だ。

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Photo: Kosumo Hashimoto

落合:西洋と東洋、東洋の中でも中国と日本における“自然”は全く違います。例えば、西洋型の自然観は、超自然(神の領域)が上にあり、その下に人間と自然があるので、自然は克服すべきものと考えます。一方東洋の自然観では、自然=宇宙であり、超自然と人間の領域が被っていたりします。だから東洋の考え方では、自然が外在できるわけですね。


特に日本の場合は、始まりもなければ終わりもないという非常に柔らかな自然観を持っています。


空海の「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し」という言葉がありますよね。そんな考えが根底にあるから、自然も含めてあらゆるものが違和感なく存在できるんです。


デジタルネイチャーに移行すると、デジタルな自然をどう捉えるかという問題に直面します。日本のような文化圏では、機械を自然として受け入れやすいでしょう。しかし西洋的な自然観では、自らが克服し管理すべき対象に、自分の存在を依拠しなければならない状況は、彼らにとってアイデンティティの危機、すなわち倫理的な崩壊を招きます。


※「誕生の由来も分からず、死後の行き先も見えない」という、人間の根源的な無知を表現している。

外野の視点に立つと、「ならそんな自然観、手放しちゃえばいいじゃん。そしたらもっと、平和になるよ」と思うかもしれない。でも、それができないから、私たちは“ホモ・サピエンス”なのである。

落合:人類が相互理解できない究極的な理由は、人類が賢くないからだと思います。


AIはわかり合えると思います。でも人間は、いくらわかり合い方を教わっても、実際に教わることはできるのに、20万年以上ずっとわかり合うことをしていません。


人生は3回分生きられるほど長くありません。月曜はイスラム教、火曜はキリスト教…と、あらゆるイデオロギーを0歳から同時に脳にインストールできればいいのかもしれませんが、そんなこと生物学的な身体には不可能です。だから人間は、最初に入ってきた知識に大きく影響を受け、わかり合えないままなのではないでしょうか。


争いをなくす、落合氏の提案「記号を手放す」

しかしこれで話が終わらないのが、落合氏の面白いところ。落合氏本人がこのような見解を持ちながら、null²は「記号を手放す」ことを推奨する。

落合:null²は、コンテクストを手放さないと争いは終わらないよって話なんです。


コンテクストを手放しちゃってもいいよねと人間が思えるほど、AIが賢くなる世界が来てもいいんじゃないかとは思うんですよ。それは、信仰を捨てろと言っているような、ある意味残酷な話ではあるのですが、信心深いことと、信仰によって争いを起こすことは分けて考える必要があります。


これから人類が、宗教上の悲願みたいなものがある状態から、対立する両者が理解し合えるような状態へ変わるかは、私の賭けです。でも記号を手放すって、そういうことだと思います。

ここで、最初の僕の問いに戻る。

それで結局、僕たちは本当に、記号を手放せるんだろうか?

明日公開の後編では、いよいよ核心である、来たるデジタルネイチャー時代の人の生き方を聞いてみる。

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Photo: Kosumo Hashimoto