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14#音楽の敵、音楽の味方

誰がDJカルチャーを破壊してきたのか?

DIGITAL CULTURE
コントリビューター小林 祥晴
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1970年代初頭NYのディスコ・カルチャーに端を発するクラブ・ミュージック/DJカルチャーの歴史は、今、日本で「DJカルチャー」に親しんでいるどれだけの人に共有され、必要とされているのだろうか。

NYのラリー・レヴァン(Larry Levan)とシカゴのフランキー・ナックルズ(Frankie Knuckles)によって80年代前半にハウス・ミュージックが広まり、デトロイトでは80年代半ばにPファンクとクラフトワークの接合でテクノが誕生。その熱狂の伝播とエクスタシーの流入によって、海を越えたイギリスではパンク以来最大のユース・カルチャーと言われたセカンド・サマー・オブ・ラヴが80年代末に開花。そしてここ日本では、90年代中盤にクラブ・カルチャーの現場が本格的に誕生した――ここで触れたDJカルチャーの正史、あるいはそこで育まれた伝統は、ここ10年近くの間そして2010年代の日本では少しずつ効力を失いつつある。

たしかにEDMは日本でも数年遅れでブレイクし、何万人ものオーディエンスを集めるフェスが林立するようになった。巨大な邦楽フェスでもDJのステージは必ずと言っていいほど存在する。しかし、そこには従来のDJカルチャーとの大きな断絶があるのは間違いない。

ここ日本におけるクラブ・ミュージックの伝統の衰退とDJカルチャーの断絶はなぜ起きたのか。それにはどのような背景と理由があるのか。

その答えを探るべく、90年代半ばにDJカルチャーの洗礼を受け、自らもDJ/オーガナイザーとして20年以上に渡り〈CLUB SNOOZER〉というパーティを続けている田中宗一郎に、幅広い現場を実際に体験してきた当事者として、そして日本と世界の音楽シーンを論じ続けてきた批評家として話してもらった。

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田中宗一郎(以下、田中): まずはそれぞれのスタンスを明確にするために、インタヴュアーの小林君への逆質問から始めさせてもらっていいですか?

――どうぞ。

田中: 小林君がHigherFrequencyーークラブ・ミュージック情報サイトに携わっていたのはいつ頃?

――2つの時期に分かれるんですけど、最初は2006年です。編集長と折り合いが悪くて、半年で辞めましたが。その後、しばらく付き合いがなかったんですが、2011年から1~2年間、また手伝わせてもらうようになりました。

田中: HighreFrequencyにいた頃はもちろん現場っていうか、都内のクラブに足繁く通ったり、海外のクラブ・ミュージックの動きを追っていたりしたわけですよね?

――そうですね。2006年頃は東京のクラブ・シーンもまだ元気で、毎週末ミニマルやテクノのパーティに行っていました。と同時に、後にエレクトロと呼ばれるような動きもネットでは細かくチェックしていました。僕は2003~2006年が一番現場に行きまくっていた時期です。

田中: ロンドンにいたのはいつごろ?

――2003年ですね。当時は向こうのクラブに行っていましたが、2004年からは毎週末必ずWOMB、AIR(現Sankeys TYO)、Space Lab Yellow(2008年に閉店)、UNITageHaのどこかに行っていて、はしごも当たり前でしたね。2011年頃はジェイムス・ブレイク(James Blake)を筆頭に英国ベース・ミュージックの勢いがすごかったので、そこを中心にかなり聴いていました。

田中: 最近のクラブ・シーンの動きは追ってます?

――正直、最近はほとんど追えていないです。今もアンダーグラウンドのシーンは変わらず面白いんだと思いますが、自分のテイストはメインストリームとアンダーグラウンドの中間くらいなので、その辺りに目立った動きがほとんどないのが大きいと思います。クラブの現場も、フロアに100人も入らないようなところはまた違うんでしょうけど、300人、500人、700人くらいのハコは10年前と比べてもかなり厳しそうに見えます。

田中: で、今もずっと国内外のポップ音楽を追いかけるウェブ・メディアの編集長をやっていながらも、もしかして、国内のクラブ・シーン全体に対してはどこか興味を失っちゃったところもある?

――いや、そういうわけじゃないんですけど、以前によく行っていたクラブがEDMやチャラいオール・ミックスのパーティばかりになっているのを見ると、いろいろなものが変わってしまったんだなと実感します。

田中: ですよね。たまたま時間のあいた週末にさっと思いつきで遊びに行きたいなと思えるクラブやパーティの数がすごく減ってしまったように感じる。自分がずっとクラブ遊びをしてた頃は、ロックのライヴみたいに事前にチケットを押さえるというよりは、友人や事務所のスタッフと「今週の金曜と土曜って、何あったっけ?」って感じで、クラブに気軽にでかけるという感じだったから。

――本当にそんな感じでしたね。水曜くらいになるとソワソワし出して、「今週は何があるかな?」ってみんなでチェックして、週末の予定立てたり。

田中: だから、以前とはいろんなものが変わってしまった。でも、そうした視点を共有することが出来ない人というのは少なくないと思うんですね。「だって、EDMが廃れたからと言って、今もクラブ・カルチャーは元気なままだよ!」っていう反論だってあると思う。

――だからこそ、20年以上にわたって、DJ、オーガナイザー、そしてもちろんクラバーの一人としてもクラブの現場を見続けている田中さんに、特にここ10年、日本のクラブ・カルチャーは何がどのように変わったのか、その理由は何なのか? ということを訊いていきたいと思っています。

田中: いや、ホントかなり荷が重いんだけど(笑)。それと、俺が話せるのは、すごく限定された歴史観でもあると思うんですね。そこはまずきちんと強調しておきたい。

――順を追ってじっくりと行きたいんですが、まずは、田中さんにとってクラブ・ミュージックの入り口はどの辺りだったのか、ということから教えて下さい。

田中: 90年代半ばのハード・ミニマルとかドラムンベースですね。1994年に新宿リキッドルームが出来たのがやっぱり大きかったんだと思う。会場のこけら落としはアンダーワールド。そこで当時、久保憲司が〈CLUB VENUS〉っていうパーティを主催してて、ジェフ・ミルズ(Jeff Mills)とかリッチー・ホウティン(Richie Hawtin)を呼んでいたんですよ。

――デトロイトやヨーロッパのトップDJたちを次々に呼んでいたという、日本のテクノ・シーンの草分け的なパーティですよね。

田中: 当時は日本のテクノ黎明期でしょ。新進気鋭のテクノ雑誌として始まった〈ele-king〉が主催した〈ナチュラル・ハイ〉っていう大規模な野外イヴェントが95年にあって、翌年96年の〈レインボー2000〉でアンダーワールドが再来日する。そうした事件が一気に全国のユースの意識に飛び火して、当時の音楽ファンは「取りあえずクラブに行かないと話にならない」と誰もが感じてた時代なんじゃないかな。



――それはさすがに大袈裟じゃないですか?

田中: いや、体感としてはホントそんな感じだったんですよ。特に新宿リキッドルームはキャパ1000人以上、平日は主に海外のアーティストがライブをやるにはうってつけの会場で、電気グルーヴビースティ・ボーイズプライマル・スクリーム、アンダーワールドみたいな、当時の第一線のグループが何か特別なことをやるときは必ず使う会場だった。だから、プロパーのクラバー以外にも門戸を開いたところがかなりあって。下手すりゃ、首都圏近郊に暮らしていてクラブ初体験がリキッドだった人は何万人もいたんじゃないかな。当時は今と違ってセキュリティも緩かったから、高校生がフェイクID作って、必死になって深夜のクラブに入ろうとしてたり(笑)。リキッドってビルの7階にあって、クラブがオープンした数時間はお客さんはエレベーターを使わずに階段で上らなきゃなんないんだけど、毎週末金曜や土曜は日付が変わっても、ビルの入口から歌舞伎町の中にずっと行列が出来るくらいだった。

――そんな風になった一番の理由は何なんですか?

田中: いろんな要素が多発的に組み合わさってこその結果なのは間違いないんだけど、やっぱり何よりも電気グルーヴと石野卓球の存在ですよね。彼らがテクノとクラブ・カルチャーの扉を大きく開いた。そこにケン・イシイ田中フミヤを筆頭にテクノのトップDJたちの活動が加わることで、日本のテクノ・シーン全体にゲートウェイを作った。文化的に一切敷居を下げることなくね。それを〈ele-king〉みたいなメディアやソニーみたいなメジャー・レーベルが全面的にサポートしてたのも大きいと思います。本当はそれ以前に当時の基盤を作って、それを支えたいくつもの名前を挙げなきゃならないところなんだけど。ここは後輩DJとしてではなく、評論家として敬称略で話しちゃうけど、下北沢の〈ZOO〉時代からのEMMAやQ'HEY、〈フロッグ・ネーション〉や〈サブライム〉みたいなレーベル、ジャーマン・トランスだとTOBYだったり、CISCO筆頭にいつくものレコード屋さんだったり、いろんなDJや組織がその礎を築いて、それが一気に花開いたんだと思う。

Video: Kramer McBarret/YouTube
『JEFF MILLS very rare live never seen before @ Liquid Room 199? (Sony TechnoTV)』

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クラブでの体験は、バンドが演奏する音楽をオーディエンスが受け取る形とは根本的に違ってた

――当時の新宿リキッドルームでは、〈CLUB VENUS〉以外にも人気のパーティがいくつも開催されていたんですよね?

田中: 1996年になると〈Drum & Bass Sessions〉っていうパーティが始まって。これは海外のドラムンベースのDJなりアクトが軸だったから断続的なときもあったけど、ほぼ毎回足を運んでたと思う。1995年から〈LOUD〉周りがやっていた〈X-tra〉っていうパーティはテクノやハッピー・ハードコアが中心。個人的には数えるほどしか行ったことはないんだけど、毎月のレギュラーでかなりの期間、毎週1000人以上集めてた。レジデントだったYO-Cが無敵のスーパースターDJだった時代。

――田中さん自身が〈CLUB SNOOZER〉を始めたのも同じ頃ですか?

田中: 始めたのは95年。で、97年の春に〈CLUB VENUS〉の久保憲司がオーガナイザーを買って出てくれて、会場をリキッドルームに移すんですよ。その最初の回のゲストDJが今は原宿の〈BIG LOVE〉をやってる仲くん。チャーベくんも顔を出してくれてた。仲くんが〈エスカレーターレコーズ〉を始めてまだ2年も経ってない頃で、全国でDJしまくってた頃じゃないかな。

――当初からロックのパーティというよりは、かなりクロスオーヴァーしてたんですね。

田中: 自分自身、毎週末2つから3つ、4つのクラブのはしごは当たり前だった時代だし、ピチカートの小西さんとかもDJしまくってた時代だから、今よりシーン全体がクロスオーバーしてたんじゃないかな。で、当時の自分たちしかできないことはロック・トラックを使うことだった。だから、当時の〈CLUB SNOOZER〉というのはクラブ・カルチャー全体の入口の役目も担ってて、テクノやハウス、ドラムンベースのパーティに足を運ぶ最初のきっかけとしても機能してたんですよ。〈CLUB SNOOZER〉がクラブ初体験で、その後、ハウスDJになった子たちとかがやまほどいたのね。いずれにせよ、毎週末そういったいろんなジャンルの、しかも1000人キャパの大きなパーティが開催されていたんです。

――今の東京では考えられない、すごく活気のある状況ですね。

田中: 当時はそれが当たり前だったんだけどねー(笑)。で、自分個人としては、やっぱりリキッドルームと青山のMANIAC LOVEで体験したパーティが入口。90年代前半からメディアを通した情報という形でしか受け取ってなかったアシッド・ハウス以降のパーティに対する認識が実感として自分の中に入り込んできた。「なるほど、こういうことか!」っていう。まさに我が意を得たりという感じでした。

――その我が意を得たりっていう感覚を、もう少し詳しく説明してもらえますか?

田中: 90年代の前半まではロックばかり聴いてたわけですよ。で、89年だか90年だか、ストーン・ローゼズの初来日公演に行ってもあまりに演奏が下手くそでわけわかんないし、彼らがアシッド・ハウスの影響から出てきたって言われてもいまいちピンと来ない。当時、ストーン・ローゼズのジョン・スクワイアが言ってた「90年代の主役はオーディエンスなんだ」という有名な発言があったんだけど、よくわかんない部分もあって。

――なるほど。

田中: でもその後、毎週のようにクラブ遊びをする中で、彼の言葉が認識としてではなく体感として理解することが出来た。クラブでの体験は、バンドが演奏する音楽をオーディエンスが受け取るという従来の形とは根本的に違ってた。ようやくその違いを体感出来た。すべてのきっかけはDJが選んだレコードだったとしても、音楽を媒介にして、そこにいる全員があるひとつの空間と時間、ムードを作り上げる。クラウド全員が確かにかけがいのないパズルのピースなんだという感覚。「あ、これはもうライヴとはまったく別ものの文化なんだ」ということに気づいたんですね。

――50年代、60年代からの続くロックのカルチャーにはなかった新しい価値観がそこには感じられた。

田中: で、もちろん俺だけじゃなく、むしろ当時のティーンや20代のユースがそれに先んじて、その新しい価値観の中に飛び込んでいったんだと思う。もちろん、80年代後半の英国のレイヴ・カルチャーを体験して、その後、〈メタモルフォーゼ〉を始めたMAYURIさんだったり、黎明期の〈ele-king〉周辺の人たち、国内のアシッド・ハウスとか、ジャーマン・トランスの現場にいた人とかはもっと早い時期に理解してたと思うし。だからこそ、彼らが日本のシーンを作ることになっていったんだけど。

――それというのは、それ以前のディスコやクラブの世界にはなかったものだ、と。

田中: 80年代の〈GOLD〉の時代にもあったのかもしれない。でも、俺も〈GOLD〉には遊びには行ってたけど、感覚としては社交場っていうか、たまり場って感覚だったから、俺がわかってなかっただけなのかもしれない。でも、90年代半ばというのはもっと爆発的な拡がりがあったんだよね。実際、電気グルーヴの『オールナイト・ニッポン』を必死になって聴いてた高校生だったり、それ以前はビースティ・ボーイズに夢中だったストリート系のやつらだったり、グランジやブリットポップばかり聴いてたロック・ファンだったり、出自もバラバラのまったく異なるトライブをひとつにしたところがある。

――つまり、2010年代のEDMのような特定のトライブ限定のカルチャーではなかった、と。

田中: で、そうした価値観の中心にあったのが、オールナイトのパーティという形式だったんだと思う。繰り返しになるけど、音楽がすべての中心にあって、主役はクラウドのひとりひとりで、演者であるDJはそれを手助けする司祭にすぎないっていう価値観だね。今となっては日本におけるその源泉が80年代後半の英国レイヴ・カルチャーにあったのか、70年代NYのゲイ・クラブ、パラダイス・ガラージにあったのか、ベルリンのテクノ・シーンにあったのか、英国やジャマイカのサウンドシステム・カルチャーにあったのか、そこは正確には定義できないと思うんですよ。でも、少なくとも90年代当時は、そこで流れる音楽がテクノであろうが、ハウスであろうが、ドラムンベースであろうが、たとえロックであったとしても、何かしらそこから派生した共通の価値観をシェアしようという気運が間違いなくあった。DJにもクラウドの側にも。

――そのことを証明する具体的な事実を何か挙げることは出来ますか?

田中: たとえば、当時の石野卓球はとにかくクラウドがDJブースの方を向いて踊るのが嫌で嫌でたまらなかったんですよ。

――今だとごく当たり前の光景ですけどね。

田中: でも、当時のクラブ・カルチャーに夢中になったひとたちにとってはとても重要なことだった。とにかくスピーカー・システムから出る音に集中して欲しい、と本気で思ってた。だから、卓球はわざわざフロアからDJが見えない場所にブースを作ったりとか、いろんな試行錯誤をしてた。今さらこんな話を持ち出されるのは本人もたまったものじゃないとは思うんだけど(笑)。

――つまり、DJとクラウドの関係はそれ以前のロック・スターと信者の関係ではないということを示そうとしてた、と。

田中: あと、当時、最大のテクノ・スターといえば、ケン・イシイじゃないですか。でも、彼は自分がDJをするとき、よほどのことがない限り、自分の最大の代表曲である『エクストラ』は使わなかったんですよ。

ーーそれには具体的な理由があるんですか?

田中: 有名曲だとかアンセムって記号性が高いでしょ。曲そのものの音響的な効果よりも、クラウドひとりひとりの記憶にダイレクトに作用してしまう。「お、DJロランドの『ジャガー』きた!」とかさ。だから、ケン・イシイがどれだけ細心の注意を払って、『エクストラ』を使ったとしても、誰もがブチあがっちゃうんですよ。その瞬間にそれまでのプレイで彼が丹念に積み上げてきたクラウド全体のグルーヴがだいなしになってしまう。たとえば、もしそこにケン・イシイのDJを楽しみに来たというよりは、彼を従来のロック・スター的に感じていた人が遊びに来てたとしたら、「今日はもう『エクストラ』が聴けたから大満足」みたいなことになってしまう可能性もなくはない。

ーーなるほど。でも、そうなると、クラブ・カルチャー以前の価値観に舞い戻ってしまうことになる、と。

田中: だから、当時のケン・イシイは自分のセットの中でクラウドとの理想的な空間を作れたという実感があったときだけ、朝方セットの最後の最後に『エクストラ』をかけたりしたのね。だからこそ、その瞬間の光景が本当に最高なものになるんですよ。誰もがそんな風にして、自分が影響を受けたカルチャーの伝統に連なって、それを守り、そこでの価値観を押し広げようとしてた。そんな時代もあったんですよね。

ーーだからこそ、それを可能するオールナイトのパーティという形式そのものが田中さんにとってはとても重要なんですね。

田中: で、それは絶対に俺個人の話じゃないはず。あえてジャンルで限定すると、俺が一番好きなのはミニマルのDJなんですね。リカルド・ヴィラロボスとか、ダニエル・ベルとか。さっきも話したとおり、ハード・ミニマル時代のジェフ・ミルズと田中フミヤが入り口だったんだけど、田中フミヤがミニマル、クリック・ハウスに移行してからとか、リッチー・ホウティンだとハード・ミニマル時代の黒いジャケのミックスCDも好きなんだけど、とにかく白いジャケの方ーー『DE9 | Closer To The Edit』(2001年)をリリースしたときとかのDJが好きなの。『DE9 | Closer To The Edit』でやっていたように、リッチーは曲を解体しながら、それを組み合わせることで、3分じゃなくて「6時間の一曲」を作るわけ。そのこと自体がリスナーと表現者の関係を更新したという興奮があった。

Video: spiritualarchive/YouTube
『Richie Hawtin - DE9 | Closer To The Edit (2001, full‐length)』

「きっとローマ帝国だろう」って馬鹿なことを言ってたことがあった

――DJカルチャーの世界では、オーディエンスと表現者が共有する場の空気の作り方だけでなく、時間の感覚もまったく新しいものになった。

田中: 田中フミヤのブログ読んだことある? あれ読むと、「DJってこういうことなんだよな!」ってホント思うんだけど。ほら、保坂和志の小説ってありきたりの日常を描いているだけで、ナラティブ的には何も起こらないんだけど、言葉の繋がりを読み進めていくと、確かに見たことない、感じたことがないフィーリングが自分の中に生まれてくるでしょ。田中フミヤのDJもまさにそうで、特に何も起こっていないと同時に、常に何かが起ってるの。伝わるのかな、これ?(笑)。

――いや、わかりますよ。

田中: で、田中フミヤがDJについて書いているブログも保坂和志の小説と同じくらいのアート性があるんですよ。ホント最高だよ。ずっと思考が途切れずに続いてるの。これがまた彼のDJとそっくりなんだよね。一時期、彼がDVD作品を作ってたの知ってる?

――『VIA』(2007年)ですよね。

田中: 自分がDJをするときに何を考えているのか、実際にブースの中でマイクをつけてそれをしゃべりながらDJする、それを動画にして残すっていう。もうとにかく最高でさ。ずっと、低音のグルーヴをキープしたまま、細かく刻んだ上物のリズムを乗せていって、少しだけ景色を変える、みたいな話をずっとしてるわけ(笑)。「これだよ!」っていう。あれを見ると、パーティを生み出すきっかけはDJにあるにはあるんだけど、主体はクラウドでもあり、DJでもありつつ、その対話の中で起こる偶然によって何かができあがっているっていうのがすごくよくわかる。

Video: fumiyatanakavia/YouTube
『FUMIYA TANAKA Via digest ver』

――やっぱり誰が主体というわけでもなく、そこにいる全員がパズルになって、偶然も含めて、何かができあがるってことこそが、田中さんがパーティだったり、クラブ・カルチャーに惹かれた最大のポイントだったってことですね。

田中: だと思います。卓球が今もリキッドルームで年越しのパーティをやっているじゃないですか。一時期、何年かずっと行ってたんだけど。大晦日の夜から正月の昼過ぎ――下手したら夕方4時くらいまで続くっていう。昼過ぎになるとさすがに200、300人しか残っていないんだけど、フロア全体がホントすごい光景だったんですよ。そこにいる自分も含め、まるでクラウド全体がひとつの生き物みたいっていうか。まあ、沼だよね。でも、話のポイントは、その光景というのは誰かが意図的に作ったわけではないってことなのね。当時、これに似たものは何か?って考えたんだけど、「きっとローマ帝国だろう」って馬鹿なことを言ってたことがあって(笑)。一人の政治家や思想家の意志とか、システムではなく、いろんな意志や意識が奇跡的に混ざり合って、あるひとつの時間と空間ができあがる。それが理想的なクラブの現場なんじゃないか。そういう感覚ってシェア出来ます?

――ローマ帝国かどうかわからないですけど(笑)、個人の意識を超えた何かに繋がる感覚っていうのは、まさにパーティに遊びに行く醍醐味だと思います。

田中: 俺、ずっとゴア・トランスとかからは距離を置いてたし、スピリチュアルな方向には絶対に行きたくないんだけど、やっぱりあの感覚って特別じゃないですか。それを一晩の6~7時間をかけてやることで、空間と時間自体がインスタレーション・アート化する。もうホントすごいな、と思って。だからこそ、ボアのアイちゃんのDJとかも大好きだった。敢えて大げさな言い方をすると、2000年代までのクラブ・カルチャーっていうのは、社会の在り方に揺さぶりをかけるような危険なものだったと思うんですね。それは歴史が証明している通りだよね? イギリスでは1994年にクリミナル・ジャスティス・アクトという法律が制定されたり。

――「屋外で、規則的なビートを持った音楽をかけて、複数の人間が集まってはいけない」という法律で、俗に「反レイヴ法」と言われているものですね。

田中: それはつまり、クラブ・カルチャーの在り方そのものが、一握りの為政者が中心になって作りあげたシステムを揺るがすような脅威があったということでもあるでしょ。クラブ・カルチャーというのは、それくらい社会に影響を与え、社会について考えさせる文化だったとも思うんですよ。一時期、野田努が「ブロステップは社会や国家が認めた音楽だからダメなんだ」って言い方をしてて。いかにも野田らしいっていうか、英国のワーキング・クラスから生まれた音楽に心酔した面倒な人が言うことだなって思ってたんだけど、でもやっぱりその通りじゃないですか。スクリレックスはいつだって最高だけど、スクリレックスを筆頭としたEDMがクラブ・ミュージックで覇権を握ったことで失われたものはたくさんあるから。

――その通りだと思います。

田中: で、もうひとつ重要なのは、その「どんな風にある一定の時間や空間を作り出すのか?」については、テクノやハウス、それぞれのジャンルにおいて個別のアイデアとスタイル、テクニックがあったということだと思うんですね。例えば、ハウスとテクノ、テクノとトランスのDJのミックスの仕方自体、まったく別のスタイルとテクニックでしょ。

――それぞれの違いについて教えてもらえますか?

田中: 乱暴なレジュメになっちゃうんだけど、たとえばハウスに適したミキサーはウーレイだよね。EQがこんなにデカくて、微細にエフェクトを調整出来る。で、2~3分のロング・ミックスをする。EQを使ったり、フィルターかけたりしながら、前にかけてた曲とその後にかける曲をまるで一曲であるかのようにシームレスにミックスするのがハウスDJのスタイルとも言えるよね?

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――ええ。

田中: ハード・ミニマルからミニマルにかけてのテクノDJに関しては、これも乱暴に言うと、Aという曲とBという曲をミックスすることでCという曲を生み出す、というロング・ミックスの考え方があったでしょ?

――先ほども出てきたリッチー・ホウティンのミックスCDで顕著なスタイルですよね。

田中: そう。これも乱暴な比較なんだけど、ハウス、テクノ、トランスのパーティとの違いというと、ハウスはどこかに沸点があるのではなく、ずっとグルーヴが続いている心地よさがある。例は悪いけど、究極の温泉空間ですよね。トランスの場合は、よりドラッグが重要になるから、ブレイクでビートがなくなったときにむしろ一番盛り上がる。それは単純な話、食ってる連中がビートレスになったときにビートに対する飢餓感が生まれるから。で、テクノでオーディエンスの歓声があがるのは、二つの曲のミックスで別の曲ができあがったときだよね。それぞれまったく違うんですよ。

――なるほど。

田中: でも、それ以降の、エレクトロやEDMのパーティだと、どこで盛りあがるかと言うと、曲と曲がミックスされて、完全に曲が切り替わったときでしょ。

――あー、たしかに。

田中: しかも、EDMのトラックというのは、1曲の中にビルトだの何だの緩急があるわけでしょ。テクノDJみたく曲をミックスしていくことでセット全体に緩急をつけなくてもあらかじめ曲の中にフロウがあるわけ。これ、言ったら、別にDJいる必要ないわけじゃん。ピッチさえ合わせれば、誰にでもできるわけでしょ。

――たしかにそのとおりですね。

田中: まあ、トランスのDJもよく似たものと言えばそうなんだけど、少なくともハウスやテクノのパーティとも何かしら共通するものがあったと思うんですよ。曲が触媒になって、DJとクラウドの対話の積み重ねが時間と空間を作り上げるっていう。言ったら、小林君もそれにやられたってことでしょ?

――間違いなくそうですね。

田中: でも、それがここ10年くらいで失われたという実感あるでしょ?

――特に日本ではそういった価値観自体が力を失いつつあるというか、忘れ去られつつあるような感触があります。

田中: もちろん、今でもベルリンやケルンのテクノやミニマルのシーンは健在だし、完全に失われてしまったわけではない。ただそうした価値観が10年前と比べて、特にここ日本だと世間一般にはまったくシェアされていないという実感があるんです。

――では、どういった理由でそれが失われてしまったと考えているんですか?

田中: まず時期的な話からすると、クラブ・カルチャーの洗礼を浴びたときの興奮が最初に目減りしていったのが、ミレニアム前後のUKを中心としたスーパー・クラブの時代。トランスが来て、ビッグルーム向けのプログレッシヴ・ハウスが全盛になったときに少しずついろんな風向きが変わった気がします。それでも、世紀が明ける頃までは毎週末どこかのクラブーーみたいな大きなパーティはもちろん、フランソワ・K.のとかにも一通り遊びに行っていたし。うん、だから、ミレニアム前後ですね。

Video: BodyandSoul JP/YouTube
『Body & SOUL Live in Tokyo 2004@velfarre』

田中: で、もうひとつ大きな転換を感じたのは、2002年くらいのことで。オウテカ(Autechre)の取材でロンドンに行ったんですよ。あれ、もう15年前ってことか(笑)。しかし、俺、ずっと昔話ばっかしてますね。

――いえいえ、それを話してもらうのもこの記事のひとつの目的ですから。

田中: で、その取材の現場にいた〈ワープ・フィルムス〉のスタッフに訊いたの。「今ロンドンで絶対に行っておくべきパーティは何なの?」って。で、その答えが〈トラッシュ〉だったんですよ。

――なるほど。最新のインディ・ロックからクラブ・クラシックスまでが横断的にかかっていたエロル・アルカン主催のパーティですね。当初はラプチャーを送り出したNYの〈DFA〉やトレヴァー・ジャクソンの〈アウトプット〉と共振しながら、後のエレクトロ・ブームの礎を築いた存在ですね。

田中: で、そいつに「どういうパーティなの?」って訊くと、すっごい困るわけ。「インディ・ディスコと言えばインディ・ディスコなんだけど、でも、そうじゃないんだよね」とか言って。

――確かにきっと当時だと、説明するのがすごく難しそうですよね。

田中: つまり、ある意味、以前の歴史とは切り離されたものでもあったってことでしょ。で、俺が当時よく読んでたクラブ雑誌は〈ジョッキー・スラット〉だったのね。デトロイトのURの記事をカヴァー・ストーリーでやっていたり、〈ミックスマグ〉よりも遥かにエッジーなものをピックアップしてた雑誌なんだけど。確か2メニーDJsの存在を意識したのも〈ジョッキー・スラット〉だったと思う。で、ロンドンに行ったとき、〈ジョッキー・スラット〉のカヴァーがラプチャーだったのね。まだ『ハウス・オブ・ジェラス・ラヴァーズ』のシングル一枚リリースしただけだったんですけど。

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――それはかなり早い抜擢ですね。

田中: しかも、同じ号にエロル・アルカンの記事も載ってて。なので、これは行くしかない、と。で、月曜日の夜にひとりでクラブの前に並んで、何時間もかけて中に入ったんですよ。したら、もう目から鱗でさ。まあ、誤解を恐れずに言うと、〈CLUB SNOOZER〉なわけ。マントロニクスみたいな初期のエレクトロもかかるんだけど、当時大ヒットしてたクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジの『ノー・ワン・ノウズ』もかかれば、ザ・スミスやデヴィッド・ボウイもかかる。で、勿論、ラプチャーがかかる。しかもティーンから40代までいれば、人種も混ざってる。「これしかない!」と思って。

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――つまり、ありとあらゆることが、プロッグがかかるスーパー・クラブよりも遥かに刺激的だったんですね。

田中: 〈岩盤ナイト〉ってあるじゃない? フジ・ロックのオフォシャル・ショップとして、ある時期まではブランキー・ジェット・シティのTシャツとかを売ってたのがいきなりエレクトロの12インチとかをバンバン仕入れるようになって、いつの間にか、〈岩盤ナイト〉自体もエロルとかジャスティスを呼ぶようになって。あれ、もとは俺の入れ知恵だったんですよ。ロンドンから帰ってきた翌年に、岩盤の社長の豊間根(聡)くんに〈トラッシュ〉の存在だとか、NYの〈DFA〉とロンドンの〈アウトプット〉の関係だとか一切合切を説明して。俺、本当に興奮してたから。

ーーその話は聞いたことがありますね。

田中: ただ同時に、それまで自分が体験してきたクラブ・カルチャーとは別物だと思ったのもたしかなんですよね。実際、〈トラッシュ〉が後押ししたエレクトロの台頭によって、ディスコやハウスから連綿と繋がるクラブ・ミュージック/DJのシーンに断絶が生まれてしまったのはたしかだと思う。段階的な話をすると、次はそこかな。

――そこで失われてしまったものとは、具体的に何だったんでしょうか?

田中: 〈トラッシュ〉以降のエレクトロは、トラック自体の構成や形式が変わったし、DJのスタイルが変わった。やっぱりそれが大きかったんだと思います。もちろんジャスティスは大好きだったけど、それはジャスティスの作る曲がポップ・ミュージックとして新しかったからで。シンセ・ベースにディストーションをかけて、ビートにも強いコンプレッサーをかける。「こんなつんのめったビートじゃ踊れないよ」と最初は思ったけど、ポップスとしては間違いなく斬新だった。

Video: Justice/YouTube
『Justice - Waters Of Nazareth』(2006)

田中: それに当時のエレクトロのシーンというのは、日本からもDEXPISTOLSや80KIDZみたいに、DJでありプロデューサーでもある次世代の才能が大挙して出てきた。そういう意味では、本当に重要なムーブメントだった。あのシーンがあったからこそ、今のアンダーグラウンドのヒップホップを支えてる最重要プロデューサーのひとり、Chaki zuluも世に出るきっかけを得た。それに、エレクトロの時代は海外と日本のシーンがリアルタイムでクロスオーバーしていたのも間違いない。やっぱりエキサイティングだったんですよ。ただ、それがのちのEDMに繋がっていくわけだけど。

風営法の打撃とEDMブームの勃興が重なりあうようにほぼ歴史が断絶することになったと思う

――エレクトロやその商業的な発展形として生まれたEDMによって、トラックやDJのスタイルはどのように変わったと考えていますか?

田中: 一番顕著なのは、EDMのトラックはミニマルのトラックと違って、あらかじめミックスされることを前提にしていないこと。曲単位で完結してる。そういう意味ではポップスと同じだよね。イントロがあって、ビルドがあって、一曲の中ですでに緩急が盛り込まれている。そのせいで、以前みたいに数時間のあいだにグルーヴを積み立てていって、大きな緩急を作るのではなく、テンポは同じでもまったくグルーヴの違うトラックが次々とミックスされることが当たり前になった。そのことでトラック単位でいきなり景色が変わってしまう繋ぎのスタイルも当たり前になっちゃった。良い悪いの話ではないかもしれないけど、80年代後半から90年代にかけて培われたもっとも重要だったポイントが、EDMのトラックとそれを使うDJが大衆性を得ることで失われてしまったし、少なくとも分断してしまったと思う。

――なるほど。

田中: ただ日本の場合、ちょうどEDMが出てきたときに、風営法の問題もあったでしょ。これも日本のクラブ・カルチャーには大きな影響を与えた。数年間のすったもんだがあった揚げ句、最終的には風営法が改正されて、クラブが営業できるエリアが設定されたんだけど、エリアや箱のサイズによって認可が下りないところもあれば、下りるところもあった。そこでひとつ明暗がパッキリと分かれたんですよ。

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――その明暗というのは、具体的に言うと?

田中: 歓楽エリアに大きな敷地面積をもったクラブには認可が下りたんだけど、小さな資本や個人がやってて、指定されたエリア外にあったお店にはオールナイト営業する認可が下りなかった。それで起こったのが、所謂ビッグ・ルームのチャラ箱の隆盛ですよね。

――なるほど。女性はチャージ・フリーで、VIP席があって、チャートに入ってるEDMの有名曲が一晩に何度もかかるっていう。

田中: それで小規模、中規模のいわゆるオト箱をやっていくことはすごく困難になった。カジュアルな層がそちらにドッと流れたせいで。でも、90年代のクラブ・シーンが最高だったのは、音楽好きとそういうカジュアルな客が混ざり合ってたところあったんだけど、所謂オト箱はその日のDJが本当に大好きな人だけの集まりになっちゃったんだよね。

――いわゆるハコ客がすべてチャラ箱に移ってしまった、と。

田中: もちろん、今も渋谷の〈contact〉、大阪アメ村の〈CIRCUS〉、代官山の〈UNIT〉みたいな、90年代からのクラブ・カルチャーの伝統に連なる文化が息づいているクラブもあるにはある。でも、一般的なクラブやパーティのイメージって、もう彼らがやってるようなパーティじゃないと思うんですよ。だから、風営法による打撃とEDMブームの勃興が重なりあうようにして、ほぼ歴史が断絶することになったんだと思う。

――なるほど。

田中: まあ、おおかたとしてはそういうことなんだけど、ここ20年のあいだ、札幌から沖縄まで、いろんな土地にDJとして呼んでもらってたから、それぞれのエリアで改正前と後で風営法がどのように適用されているかをずっと見てきたのね。するとさ、エリアごとに所轄の警察がどんな風にクラブを取り締まってるのかっていうのが本当にバラバラなの。恣意的と言ってもいいと思う。いろんな解釈ができる法律がひとつでも議会を通過するっていうのは本当に危険だってことを実感せずにはいられなかった。今の安倍政権のやり方がそうだけど、どんな法律もすごく恣意的な解釈による勝手な運用ができる。これは本当に怖い。

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――たしかに。

田中: で、当時、風営法の問題が議論されてるときにシーンの内側からも「オールナイトにこだわる必要はない」っていう声もたくさんあがったのね。それも理解できる。でも、俺はやっぱりできるだけオールナイトのパーティにこだわりたいんですよ。今もそうだし、自分がやってる〈CLUB SNOOZER〉でもそうなんだけど。で、レジデントDJは2人まで。石野卓球とDJ TASAKAがやっていた〈LOOPA〉もレジデントは2人だったよね。で、たまにゲストを呼ぶのはあり。でも、ひとりのDJのセットが45分だの30分だので、一晩にDJが6人も7人もいたら、緩やかな時間と空間のフロウなんて絶対にできない。

――田中さんが言うところのローマ帝国が作れない、と。

田中: そうなると、どいつもこいつもロック・バンドみたいに事前にセットを決めて、自己表現を始めちゃうわけ。「俺の魂を喰らえ!」みたいな感じでさ。音とグルーヴを介したクラウドとの対話なんて気にもしてない。理想的なコミューナルな時間と空間を築きあげるには、やっぱり限られた人数のDJが「いかに一晩の時間を作るか?」に意識的じゃなくちゃいけないと思う。そのためにはオールナイトであることはすごく重要なパーツのひとつなんだよね。

――なぜデイタイムのパーティではできないんですか?

田中: デイタイムだと、どうしてもだんだんとビルト・アップしていって、終演時間直前がピークっていうロックのライヴみたいなフロウになってしまいがちだから。それか、さっきの10人近いDJがいるときみたく、ずっとピークが続くみたいな時間の流れになっちゃう。まるでずっと『軍艦マーチ』が爆音で流れてて、いきなり最後に『蛍の光』が流れるパチンコ屋みたいになっちゃうのよ。そんな場所に何時間もいれないし、いたくもないじゃん。

――(笑)。

田中: でも、オールナイトのパーティだと、たとえ途中に帰ることがあったとしても、基本的には朝までここにいるしかないっていう風に腹を括ってる人が大半でしょ。そこに100人なり、200人なりの人間がいるとして、半数から7割は翌日の休日をだいなしにするつもりでいる。そうしたひとりひとりの心積もりや心象がパーティ全体の行方を占う重要なパズルのピースなんですよ。オーディエンスが主役だから。そうしたすべてが触媒なの。

――なるほど。

田中: テクノのパーティは朝の5~7時頃になると人が減っていったりもするけど、一度ピークが過ぎた後にこそ、独特のコミューナルな感覚が生まれる。ハウスのパーティで朝方になって誰もが疲れてくると、DJはセットの流れを少しずつカーム・ダウンさせて、そこにヴォーカル・トラックを流したりするでしょ。そんときの安堵の空気が辺りを包み込むような感じ。「永遠に続けばいいのに」と思いながらも、それが終わってしまうという喪失の感覚が混じりあうフィーリング。あの絶妙な空気をデイタイムのパーティで作るのは本当に難しい。

――ただ問題は、もはやそうした価値観そのものが世間一般には共有されていないってことですよね。

田中: その通り。でも、そうなると、俺とかはパーティをやったり、DJをやっている意味がなくなっちゃうんですよ。パラダイス・ガラージがゲイやクワイアたちのシェルターとして機能してたような、あの伝統に繋がりたくてやってんだから。風営法と戦ったオーガナイザーやDJの中には、デイタイムで何がやれるか?っていうことを模索していた人たちもいた。もちろんそれも大事ですよ。アンドリュー・ウェザオールだって、デイタイムにパブでパーティをやったりしてたしね。でも、限られた人数のレジデントDJがフロアと対話を交わしながら、オールナイトで時間と空間を作りあげていくっていうのは本当に特別なことで。

――そうですね。

田中: たとえば、〈マルチネ〉のtomadくんとかはすごく頭の切れる人だから、早いタイミングでパーティをデイタイムに移行したりした時期もあったでしょ。明らかに90年代からの伝統が廃れていって、誰もが「なんでオールじゃなきゃいけないの?」って思うようになった時期に。その見極めも含めて、流石だなーとも思った。でも、すごく寂しい部分もあったのね。

オススメ記事MONKEY TIMERS × okadada対談 |『LESS』というパーティーを作ること|和田哲郎 - FNMNL

――なるほど。

田中: で、今は屋外のフェスが全盛じゃないですか。たとえば、名古屋でやってるフェス〈森、道、市場〉とか本当に最高なんですよ。すべてDIYだし、普段バンドが演奏しないアウトドアで、趣向を凝らしてて。ラインアップにも本当に筋が通ってる。ただ、そこに詰めかけてる人たちにとっては、もちろん、そこで鳴ってる音楽も大事なんだろうけど、むしろ普通のライヴハウスだとかクラブじゃないロケーション目当てになってきてる。そういうトレンドも関わっていると言えば、関わってると思う。「なんでオールナイトじゃなきゃいけないの?」っていう。そう感じること自体、別に悪いことでも何でもないんだけどね。

――EDMや風営法のタイミングで、日本のクラブ・カルチャーは変わってしまった。ただそれでも、まだ今のクラブ・シーンに田中さんが面白いと感じるDJはいるのでしょうか?

田中: まず当時からずっとやってる人の大半はそうだよね。ムードマンしかり、瀧見憲司しかり、DJクラッシュだって、須永(辰緒)さんだってそう。京都のHalfbyも自分がプロデューサーであり、DJであることに引き裂かれながらもずっと試行錯誤してる。もちろんDJ NOBUは国内でも海外でも評価が高いし、食品まつりも海外で成功している。〈Erection〉周りみたいにムードマン以降の影響から始まって、日本のトラップ以降の才能をフックアップする場になってたりとか。現場としても青山のOathだったり、高円寺のグラスルーツだったり、小箱ならではの重要な拠点だってあるし。

――特に若い世代のDJだと?

田中: そこは間違いなくネット界隈なんじゃないかな。〈ロスト・ディケイド〉周りっていうか。俺が一番好きなのはQrion。彼女、今はたまにしか日本に帰ってこないけど。次はokadadaくん。あと、若干の躊躇はあるけど、この前見たTREKKIE TRAXの(Masayoshi)Iimoriくんのセットは本当に刺激をもらったし、良くも悪くも考えさせられた。60分のセットを一回見ただけなんだけど、いい意味で、2017年を象徴するスタイルだと思ったな。

――それぞれ、どんなところに魅力を感じるんですか?

田中: okadadaくんはやっぱり本当に何だってやれるってことだよね。もう4年も前だけど、seihoくんのリリース・パーティに遊びに行ったときにokadadaくんがKeita Kawakamiと組んでいたterror fingersっていうユニットを観たことがあるんだけど、ホント完成されててさ。「マジか、すげーな!」って感じだった。ちょうどカシミアキャットがやったミゲルの『ドゥ・ユー...』のリミクスが大アンセムだった頃なんだけど、1時間ほどのセットの中でBPMはほぼずっと70か、その倍の140でさ。ベース・ミュージックだったり、いろんな刻みのBPM140とか70のトラックを繋いでいくの。2010年代になってからのクラブ・ミュージックって、ジャンルごとのビートやテンポの縛りが破綻したでしょ。良くも悪くも。それまでは、ハウスのBPMは120、テクノやトランスのBPMは140前後とかほぼ決まっていた。そのテンポならではのグルーヴだったから。

――そうですね。

田中: でも、ベース・ミュージック以降、何でもありになっていった。当時のtofu(beats)くんのDJとかもどんどんBPMが変わっていくーーBPM120の曲と、その三分の二の90の曲を見事にミックスしたりとか。田中フミヤがやっていたような発想とは違うけど、決定的に新しかった。そこには分断があるけど、間違いなく新しいスタイルだっていう興奮があったんだよね。だから、〈ロスト・ディケイド〉周りのDJは誰しも、英国のベース・ミュージックだったり、ディプロ周りだったりとも共振しながら、スタイルとしてもクラブ・カルチャーを再定義したんだと思う。で、その中でもokadadaくんはその日の現場やブッキングに合わせて、どんなジャンルのセットもやれる人でしょ。

Video: tofubeats/YouTube
『okadada DJ set / Lost Decade 9 20161216』
Video: tofubeats/YouTube
『tofubeats DJ set / Lost Decade 9 20161216』

――〈TREKKIE TRAX〉のMasayoshi Iimoriのスタイルというのはどんな感じなんですか?

田中: 今の若手のDJは本当に器用だし、一回や二回セットを見ただけじゃ、判断つかないところもあるんだけど、この前観たIimoriくんのDJはセットの前半はBPMが70もしくは140で、その中にミーゴスの『Tシャツ』のエディットとかが入ってくる感じだったのね。で、基本的に1曲1分程度のクイック・ミックス。ミニマルのDJみたくリズムの刻みを少しずつ増やしていったり、とかじゃない。だから、グルーヴがころころ変わるんだよね。彼は20歳過ぎだし、今の若い世代のアテンション・スパンの短さみたいなものもレペゼンしてるんだなと思った。ただこれは完全に老害発言だけど、6時間の大きな緩やかなパーティ全体のフロウを楽しんでいた世代のクラバーからすると、ちょっと忙しく感じるところもあるにはあるっていう。

――今の話を訊いていると、2メニーDJsのスタイルに近い印象を受けるんですけど、そういった一、二世代前のDJとの一番大きな違いはどこにあるんですか?

田中: ある程度は近いのかもしれない。ただ、2メニーDJsの場合は普通なら使われないような珍しい曲を敢えて使うことで意外性を前面に打ち出していたよね? 言ってみればキワモノだった。15年前はそこが新しかったんだけど。でも、何度も通用しないっていうかさ。だからこそ、みんな飽きちゃったわけでしょ。でも、Iimoriくんにはそういう意図はないと思う。それと2メニーDJsの場合、基調になるテンポが120から130でしょ。それをハーフにしたりとかっていう展開はほぼない。でも、Iimoriくんの場合は、70っていうトラップ以降のテンポを持った曲を多用するし、そうなると、曲ごとのグルーヴが多種多様なんですよ。BPMが遅くなればなるほど、グルーヴのパターンは無限に近づいていくわけだから。だから、2メニーDJsよりもはるかに音楽的なんだよね。

Video: Jakob Zakosek/YouTube
『Masayoshi Iimori Live | a very rare party | 12.17.15』

田中: Qrionは現場でセットを観たのは一度きりで、あとは二つくらいオンラインのミックスを聴いただけなんだけど、IimoriくんよりもDJのスタイルとしてはベーシック。90年代初頭のアシッドやデトロイトも使うし、今のベース・ミュージックも使う。個々のトラックを和声の感覚からも捉えてたりして、ほぼ無調のビートだけのトラックから、少しずつ上物のメロディが際立っている曲に移行していって、和音の展開が際立っている曲にいって――みたいな流れがある。つまり、ハウスDJみたいに和声的なピッチの流れをきちんと意識してるし、ミニマルDJみたいにグルーヴをしっかりと積み立てていく。しかも、BPM130代半ばの流れのときに、BPM60半ばのアトランタ産のトラップやKOHHがミックスされたりするのね。今のUSを中心としたラップ音楽と新旧のクラブ・トラックがQrionっていうフィルターの中でシームレスにミックスされている。

Qrion / MIX BLOCK on block.fm (2017/03/17)

田中: だから、初めて彼女のセットで踊ったときは本当に大興奮でさ。でも、おやじが声をあげるのも何だからずっと声を押し殺して踊ってたんだけど(笑)。ホント理想的だったんですよ。グルーヴの変化や和声の変化でハッとさせる意外性もあるんだけど、基本的にはセット全体の中に緩やかなフロウがあって、音楽的にも彼女のテイストで一本筋が通っている。つまり、空間や時間の演出としても超一流だし、表現としてもしっかりと成り立ってるんだよね。本当に素晴らしいと思った。

――なるほど。

言ってしまえばネトウヨみたいなもんじゃん

田中: っていうような批評軸は、今、世の中の人間が100人いたら何人にシェアされると思います?

――少なくとも若い世代には、ほとんどシェアされていないんじゃないでしょうか。ただ、実際に長年現場を見続けている田中さんからして、それはどういったときにもっとも強く実感しますか?

田中: やっぱり一番キツいのは、J-ロックのフェスで、自称ロックDJが回してるときなんじゃないの(笑)。

――え、そこですか?

田中: あ、「あんなの、まったく別物だし、バッタものだし、まったく気にする必要ないのでは?」って思ってるでしょ?

――まあ、DJだと認知していないですよね。

田中: (笑)でも、全国津々浦々まわってるとさ、明らかに影響力あるのはそっちなんですよ。悲しいかな、〈ロスト・ディケイド〉周りのDJの影響っていうのは限られてるし。でも、自称ロックDJのスタイルっていうのは、下手したらEDMの悪影響よりもひどいことになってるんじゃないかな。

――でも、ホントどうでもよくないですか?(苦笑)。

田中: う~ん、実際、欧米のクラブ・カルチャーの歴史を映像やテキストできちんとアーカイヴしようとしてる〈レッドブル〉にしたって、〈レジデント・アドヴァイザー〉にしたって、あんなもの鼻から相手にしないと思うよ。でもさ、「あんなもの誰が見たってダメだし、放っておけばいいや」と思ってるものが、気がつけばゴキブリみたいに増殖してて、それなりの影響力を持って、ある特定のおかしな常識や価値観を形成したりするっていうのは、言ってしまえばネトウヨみたいなもんじゃん。だからこそ、今の時代の特徴ーーすべてが分断してて、お互いに別物だと思ってて、そこには交通がまったくないーーについて考えちゃうんだよね。つまり、そういう風に思ってしまうのって、分断が何よりも問題になってる今の時代を象徴してるとも思うんですよ。そういうネガティヴな現象をさらりと無視するんじゃなくて、ごく冷静にきちんと指摘すべきだと思う。

――でも、本当に何も知らないんですよ。まったく興味なくて。

田中: 乱暴に説明すると、その頂点にいるのはダイノジの大谷ノブ彦くんとやついいちろうだくんだよね。ステージ上にダンサーがいて振り付けをつけたり、マイクを入れて、スリップノットがやっていたみたいにクラウドを一回座らせてジャンプさせたり。

――もう完全に別物じゃないですか!(笑)。

田中: そうだよ。でも、これがDJカルチャーなんだと思ってる人たちがどれだけ少なく見積もっても日本には10万人はいると思う。問題はそこだよね。メカニズム的には、実際に戦争を経験した世代が亡くなっていって、それをいいことに一部の馬鹿が発した、日本は侵略のために戦争したわけじゃないんだっていう言説を鵜呑みにしてしまう若い世代が出てくることと同じ。大谷くんたちは本当に純粋な音楽愛から出発したんだと思う。ただ彼らに1ミリの悪意もないのを大前提にしたとしても、彼らがクラブ・カルチャーの歴史について無知で、無教養であるせいで、現実的には不特定多数の若者に対して、パラダイス・ガラージから続くDJカルチャーという歴史への扉を閉ざしてしまったのは間違いないと思うんだよね。

――なるほど。

田中: 今の時代にいたるところで起こっている問題というのは、たとえどこにも悪意がなくとも、そのせいでいつも間にかできあがってしまったシステムや常識に誰もが知らず知らずのうちに縛られてしまうってことじゃないですか。しかも、分断がそれにさらに輪をかけてしまう。問題は制限を容認して、継続させ、いつの間にか助長させてしまう個々の人々の意識にこそある。で、俺からすると、すごく厄介なのは、やつい君は新宿リキッドルーム時代の〈CLUB SNOOZER〉に毎回のように来てた人で、ダイノジくんは雑誌〈スヌーザー〉に乗っている〈CLUB SNOOZER〉のセットリストを隅から隅まで勉強してたような人なんですよ。で、この前聞いた話じゃ、ダイノジくんに「DJをやれば?」って言ったのは俺らしいの。まったく覚えてないんだけど。

――ある意味、どちらも何かしらの形で〈CLUB SNOOZER〉の影響を受けているわけですね。

田中: わかんないけどね。ただ客観的に見れば、悪いのはすべて俺だということにもなる。それは受けとめなきゃなんない。で、俺は22年このかた、自分を「ロックDJ」と呼んだことは一度もないんですよ。自分のことをテクノDJ、もしくはハウスDJだと思ってるから。ポップ・ソングを使いながらも、その伝統に連なろうとしてる。〈CLUB SNOOZER〉黎明期に、〈LOUD〉のトモヒラタくんに紙面上で名指しで批判されたことがあるんですよ。端的に言うと、パーティでロックをかけるから。そのこと自体がクラブ・カルチャーに対する冒涜だということでもあったんだと思う。ただ、そういう反応は間違っちゃいないじゃん。ロックは一曲の中にあらかじめ緩急があって、そこで完結しているから。EDMと同じだね。

――ポップ・ソングを使ってミニマルやクリックやハウスのDJと同じことはできない?

田中: 土台無理。でも、リズムが揺れまくる生演奏のトラック使いながらBMPきっちり合わせて、グルーヴをキープしながら、グルーヴを積みあげていきながら、なんとか90分なり120分のセット全体で緩急をつけることはやってきた。でも当初はコンプレックスもあった。だからこそ、過剰にロング・ミックスにこだわったり、3曲同時にミックスしたりする時期もあったし、ビッグ・ビートが出てきたときに飛びついたしね。俺が縦横のフェーダー使って、ブレイクを頻繁に入れたりするのはKAGAMIくんから盗んだスタイルだし。それをやるときはいつも彼と同じブースにあがったときのことが頭によぎる。要するに、90年代のハード・ミニマルと2000年代のクリック・ハウスのスタイルを意識しながら、ロックなりポップス、今ならアトランタ産のトラップやダンスホールを使って、ハウスやテクノのパーティみたいな一晩が作れないか? ということを常に考えてきた。そんな20数年なんですよ。

――それをずっと模索しているんですね。

田中: ま、そんなの自分で自分に制約を設けてるだけの話だから、別に誰が指摘してくれなくても構わないんだけど。ただ、この前、なるほどな、と思ったことがあって。okadadaくんが何かの記事で話してたのかな? 彼はすごく器用だから、特定のジャンル縛りでもDJができるし、いろいろジャンルをミックスすることもできる。俺からすると、彼はラリー・レヴァンの現代版なんですよ。それって自分自身がDJとしてずっと目指してることでもある。で、その彼が自分自身はある特定のジャンルのDJじゃないからあまりリスペクトされないみたいなことを言っていて。俺なんて、彼なんかが比較にならないほどかける曲に節操ないからさ(笑)、そういったスタイルがリスペクトされない感覚はすごくわかる。でも、理想はやっぱりパラダイス・ガラージじゃないですか。ロフトじゃないですか。自分はそこに繋がっていると思ってるから。

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――なるほど。

田中: 俺、極端な話、かける曲はなんだっていいと思ってるの。勿論、自分が好きでもない曲は死んでもかけないよ。でも、選曲っていうのは、いい曲をかけるってことじゃない。どんな曲だろうが、前後の曲の連なりの中で、その曲が持ってる魅力を120%、もしくは200%アップで感じてもらえる流れを作るための1曲を選ぶってことなんです。で、最良のスタイルでミックスする。だから、その連なりの中で90分なり、120分の緩急を作るための最適な曲をその時々に選ぶ、それが選曲だと思うんですよ。

――それが本来のDJの姿ですよね。

田中: だからこそ、アンセムだったり、有名な曲というのは使うのが本当に難しい。特にポップ・ソングやロック・トラックはそうだよね。曲としての記号性が高すぎるから、フロアのクラウドひとりひとりの記憶を刺激して、過剰な反応を及ぼす効果を持ってるから。しかも、その効果がひとりひとりによってバラバラだったりもする。だから、アンセムというのはパーティ全体のバイブスを一瞬にして破壊しちゃう可能性を持ってるんですよ。

――なるほど。ケン・イシイが自分の代表曲である『エクストラ』を自分のDJが本当にいい空間を作れたときにのみ、セットの最後にかけるっていうのは、そういうことですよね。

田中: その通り。でも、J-ロックのフェスはそういったDJカルチャーの伝統のすべてを見事にだいなしにしてしまった。たとえば、初期〈ROCK IN JAPAN〉で重宝されてた〈Getting Better〉っていうパーティの片平実くんっているよね。

――すみません、名前しかわからないです。

田中: さかのぼって説明すると、1994年に、〈エピックソニー〉のフロントラインの制作にいたコンディっていうあだ名の名物ディレクターが自社のアーティストの曲をプロモートするために〈tHE CLUB ROCKS〉っていうパーティを全国で開催し始めたんですよ。

――当時、その〈tHE CLUB ROCKS〉が新宿リキッドルームでの人気パーティのひとつだったというのは聞いたことがあります。

田中: ほら、今もそうだけど、音楽評論家っていうのは互いに仲が悪かったりするでしょ(笑)。ホントくだらないと思うんだけど。でもコンディはそういう仲の悪い音楽評論家たちを集めて、一緒にDJをやらせて、横の繋がりを作ろうとした。当時〈ロッキングオン〉にいた俺とか、大貫憲章さん、宮子和眞くん、有島博志さんなんかを集めて、オールジャンルのパーティをやることでね。で、片平くんはそこで最初はリアム・ギャラガーの物真似をステージでやらされたりしてて、そこから少しずつDJを初めていった人なのね。

――片平さんはDJとしてはどういったスタイルの人で、初期〈ROCK IN JAPAN〉ではどういった役割を果たしたと田中さんは認識しているんでしょうか?

田中: 順番に話していくと、自分には夜の世界の先輩が二人いるんですよ。一人は大貫憲章さん。俺、大貫憲章さんに誘われてDJを始めたのね。で、大貫さんはイギリスにクラッシュのツアーを観にいって、クラッシュとスリッツのライヴのあいだにDJスクラッチィがDJをしていたのを見て「これだ!」と思った人。だから、大貫さんのスタイルというのはDJスクラッチィの影響から始まったと思うんですね。

――DJスクラッチィは、ドン・レッツと並んで、レゲエとパンクの橋渡しに貢献した人ですね。

田中: だから、大貫さんは、ジャマイカのサウンドシステムからの伝統に連なる人なんですよ。要するにセレクターなの。曲間があくときだってあるし、マイクで喋りを入れる。そこからセレクターとディージェイのひとり二役をやってしまうっていう大貫さんしか出来ない独自のスタイルができあがった。

――もう一人の夜の世界の先輩というのは?

田中: 黒田マナブさん。彼はブルーハーツを結成する前のヒロト&マーシーとか、The Collectorsの加藤ひさしくん、Great3の片寄(明人)くんとかが集まっていた〈モッズ・メーデー〉を80年代頭からオーガナイズしてた人。パラダイス・ガラージからの歴史とは別に、ノーザン・ソウルの歴史ってあるでしょ? イギリスの北部で、誰も知らないアメリカのR&Bを7インチでかけるっていうモッズ・カルチャーの一部。それをほぼ最初に日本でやった人。マナブさんはノーザン・ソウルのスタイルだから、7インチを使って、頭を少しだけスクラッチして、ドンッと入れる。理想的なカットインのスタイル。スタイルとしては俺には直接の影響はないけど、日本のモッドのフェイスだっていう意味でも、ノーザン・ソウルのDJスタイルを取り入れたという意味でも、ホント頭があがらない大先輩の一人なんです。

――なるほど。

田中: で、乱暴に言うと、片平くんはマナブさんの系譜でもあるんですよ。間接的だけど。ミッシェル・ガン・エレファントが何よりも好きで、スカっぽかったり、ちょっとジャジーだったりっていう、UKのルーディなパンクやロックが好きっていう。で、bpmを合わせてミックスすることなしに全体のフロウを作れるDJなのね。正直、今の日本でロックDJと名乗っていいのは、彼ぐらいだと思う。もちろん、ほかにも頑張ってる子たちはいるにはいるんだけど。

――ええ。

田中: でも、彼が〈ROCK IN JAPAN〉っていう大きな現場に出ることで、次第にポピュリズムに流されてしまう。J-ロックのフェスでウケる日本のバンドの曲ばかりかけるようになる。彼が好きだったオアシスとかのUKロックでもなく、アメリカのオルタナでもなく、ルーディなロックでもなく、J-ロックをかけるDJになってしまう。彼は否定するかもしれないけど、ある時期DJが出演するステージのことを「DJ BOOTH」と呼んでた、あの不思議なカルチャーにすっかりスポイルされてしまった。でも、興味ないでしょ、小林君はこのあたりのこと?

――そういう世界もあるんだなっていう驚きはありますけど、完全に別世界の話のように感じるのが正直なところです。ただ話を聴いている限りだと、むしろ日本では、EDMよりもJ-ロックのフェスがDJカルチャーの入り口になった人のほうが多いかもしれません。

田中: しかも、それが全国各地にいる。そこに影響を受けた人たちがみずから「ロックDJ」と名乗ってたりする。正直、これほど退廃したカルチャーはないとさえ思う。中にはEDMとJ-ロックをミックスするDJもいたりするんだけど、今はTracktorがあるから、そういうのをクイック・ミックスできるの。もうホントおぞましいよ。ただツギハギで、せわしないばかりで、グルーヴも何もあったもんじゃない。

――うーん。

田中: 俺、〈クラブ・スヌーザー〉を始めたとき、オーガナイザーをつけるかとか、イベンターにあいだに入ってもらうっていう発想がなかったのね。馬鹿だから。いちいち地方の小屋に電話して、「こういうことがやりたい」って交渉してた。でも、「テクノ、ハウス、ロック、なんでもかけます」って言うと、大抵嫌な顔されるのよ。そんな中でもやらせてくれるクラブでやると、パーティ終わりにオーナーや店長やスタッフが「俺、レッチリ好きなんですよ」とか、「またDJロランドの『ジャガー』かけてくださいね」とか必ず言ってくれるわけ。「やっぱクラブで働いている人たちはホント音楽に対してオープンマインドだな」って、ほぼ100%ホクホクした気分で帰れるの。

――それは最高の体験だと思います。

田中: でも、日本の大方のライヴハウスはそうじゃない。海外だったら、ブッキングの段階で出演者に一定額のギャラを支払うよね。でも日本だと、「一晩幾らで貸しますよ」っていう箱貸しのシステムになってる。彼らにとっては、イベントに来るお客さんが客がじゃなくて、出演者やイベンターが客だから。だから、大手のイベンターが週末のスケジュールをすべて仮抑えして、イベンターがついてないインディ・バンドやDIYのオーガナイザーが箱を借りられない、なんてことも起こったりする。クラブとは発想がまったく違うわけ。だから、ライヴハウスは箱代さえ払えば、簡単に貸してくれる。でも、彼らはプロモーションを全然してくれないし、機材のレンタルはいくら、モニターのレンタルはいくらって、ひたすら経費だけを上積みしていく。

――昔から変わらない、日本のライヴハウスの根本的な問題ですね。

田中: で、90年代半ばのライヴハウスにはターンテーブルがないのが当たり前だった。仕方ないから機材を担いでいくんですよ。とは言え、タンテを担ぐのは大変だからCDJにして。DJ一人はDJバックとミキサーを担いで、もう一人はDJバックとCDJ-400を2台担いでいく。で、現場に入って、いくら説明しても「なんでモニターが必要なんですか?」なんてことを言われる始末でさ(笑)。照明はあくびしながらやっているし、最初は本当に大変だった。

――時代的に仕方ないところもありますが、DJカルチャーに対する知識と理解も全くなかった。

田中: でも、正直その頃のほうがまだマシだったんだよね。今じゃ全国どんなライヴハウスでもミキサーとCDJがある。だからと言って、何かクラブ・カルチャーの歴史に対する理解が進んだわけじゃないんだよね。そもそも〈CLUB SNOOZER〉が始めたことでもあるから、これもすべて俺が悪いってことになりかねないんだけど、今ではバンドとDJが交互に出るパーティが全国にある。で、地元でバンドとDJを混ぜてやっているオーガナイザーが俺たちを呼んでくれたりするんだけど、俺がサウンドチェックしてると訊かれるんだよね。「バンドの出音よりDJの出音を小さくしていいですか?」とかって。

――あー、なるほど。

田中: 90年代半ばはクラブ・カルチャー自体が理解されていなかった。でも、誰も知らないっていうだけだったから、説明すれば伝わる場合もあった。でも、今は邦楽フェスから派生したDJカルチャーのあり方が常識として流通するようになってしまった。でも、その文化圏に対して、パラダイス・ガラージがどうだった、イギリスのレイヴがどうだった、っていう話をしてももはや無駄なんですよ。

おそらく今の日本に暮らす人々の大半にとってDJカルチャーの歴史なんて眼中にない

――そうなってくると、もはやどこから手を打っていいかわかりませんね。

田中: ま、こんなの、俺みたいな特殊な立場の人間だけが感じる憤りなのかもしれない。でも、これって、今の日本が文化的に完璧にガラパゴス化して、伝統から切り離されていること、そしてそれをオリジナルだと胸を張って言い張る若い世代がいるのとまったく相似形だと思うの。それがいいことなのか悪いことなのか、俺にはわからない。ただ少なくとも、彼らには今自分たちが置かれている場所をクラブ・カルチャーの歴史から切り離したのは自分自身だという意識がないのは事実だと思う。今の大方のJ-ロック・バンドはロックの歴史に対してどこまでも無知だし、だからこそ、彼らや彼らのファンは同じ根っこから出てきた今のヒップホップに対してもまったく無関心だよね。でも、ロックっていうのはそもそもブラック・ミュージックだし、アール・パーマーみたいなドラマーがバック・ビートを発明しなければ、ロックは生まれなかったわけじゃん。

――そうですね。

田中: だからこそ、俺にはすべてが同じ現象のように思えるんですよ。今の安倍政権が大日本帝国憲法を持ち出すのを不思議と思わない、どうしようもない無知な若者の感覚と同じ。悪意もなく、まったく無意識のうちに血の滲むような歴史を踏みにじっている。俺に言わせると、どれもこれも歴史に対する無知と、尊敬の念の欠如がもたらしてる惨状なんです。

――なるほど。

田中: 俺はずっと文化にかかわる仕事に従事してきた。雑誌編集者としても、書き手としても、DJとしても。そういった立場からすると、社会的な意識を持った人たちが政治や経済システムの問題にメスを入れて、変革しようという意識が高まっている現状はすごく喜ばしいことだと思う。でも、それと同等、もしくは、それよりも大切なのは文化を通して、きちんと歴史を伝えていくことでしょ?

――そうですね。

田中: でも、不特定多数の市井の人々の意識を培って、これから先の社会をよりよくしていく基盤を用意するのは文化なんだ、という事実がどうにも忘れられがちだと感じるんですよ。今って、人文科学がすごくないがしろにされてる時代なわけじゃない? 「役に立たない」とか言ってさ。でも、若い世代が10年前、20年前とは違う、歴史から切り離された文化の渦中に置かれたときに、それが当たり前と思ってしまう。これは本当に恐ろしいことだと思う。具体的なシステムや法律以上に、文化は世の中の行く末を左右する効能を持ってる。でしょ?

――その通りだと思います。

田中: おそらく今の日本に暮らす人々の大半にとってDJカルチャーの歴史なんて眼中にない。それは仕方ないと思う。と同時に、そうした歴史に連なっていると感じてる人たちは今の惨状は自分とは無関係だと思っている。でも、絶対に関係してるんですよ。だからこそ、かつての文化がどんな風に変節したか、その事実を知ること、それについて考えることというのは決して無駄ではないと思うんです。

――わかりました。では、最後に田中さんがこれからの日本のクラブ・カルチャー、DJカルチャーがどのようになって欲しいと思ってるか。それについて教えて下さい。

田中: そんなの、わかんないよ!(笑)。そもそも文化っていうのは守るものでもないしさ。パーティと同じで、そこに関わるすべての人の意識の集積がそれを常に刻々と変化させていくものじゃない? 俺は批評家でもあるから、その時々の状況における壁のひび割れは全力で指摘しようとする。でも、その言葉に説得力がなければ、誰も踊ってはくれないよ。だから、なるようにしかならない。でも、だからこそ、当分の間、DJはやり続けるし、最高のDJには現場でもこうした場所でも最高の賛辞を捧げたい。朝になって、パーティが終わったら、どうなるかなんて考えない。翌日のことなんて気にしない。全力で楽しむだけ。だって、それこそがクラブ・カルチャーから教えられたことだからさ。

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・Masayoshi Iimori
・seiho
・terror fingers (Keita Kawakami、okadada)
・カシミアキャット
・tofubeats
・ディプロ
・ミーゴス
・KOHH
・大谷ノブ彦
・やついいちろうだ
・KAGAMI
・片平実
・大貫憲章
・宮子和眞
・有島博志
・リアム・ギャラガー(元オアシス)
・DJ SCRATCHY
・ドン・レッツ
・黒田マナブ
・The Collectors
・GREAT3
・ミッシェル・ガン・エレファント

パーティ

・CLUB SNOOZER
・CLUB VENUS
・ナチュラル・ハイ
・レインボー2000
・Drum & Bass Sessions
・X-tra
・メタモルフォーゼ
・Body & SOUL
・ディープ・スペース
・Trash
・岩盤ナイト
・LOOPA
・森、道、市場
・Erection
・Getting Better
・tHE CLUB ROCKS
・モッズ・メーデー

クラブ

・WOMB(渋谷)
・AIR(現Sankeys TYO)
・Space Lab Yellow (西麻布、2008年閉店)
・UNIT(代官山)
・ageHa
・新宿リキッドルーム(1994年オープン、2004年恵比寿に移転)
・MANIAC LOVE(青山、2005年閉店)
・GOLD(芝浦、1995年閉店)
・パラダイス・ガラージ(NY、1987年閉店)
・Contact(渋谷)
・CURCUS(大阪)
・Oath(青山)
・GRASSROOTS(高円寺)

皆さんにとっての「音楽の敵」または「音楽の味方」を教えてください。はっきりと決まっているなら、TwitterもしくはInstagramで「#音楽の敵」または「#音楽の味方」を付けて、どちらとも言いかねない場合は「#音楽の敵音楽の味方」で、ハッシュタグ付きで投稿してください。特集期間中、FUZEがピックアップして定期的に再投稿していきます。

皆さんにとっての「音楽の敵」または「音楽の味方」を教えてください。はっきりと決まっているなら、TwitterもしくはInstagramで「#音楽の敵」または「#音楽の味方」を付けて、どちらとも言いかねない場合は「#音楽の敵音楽の味方」で、ハッシュタグ付きで投稿してください。特集期間中、FUZEがピックアップして定期的に再投稿していきます。

#音楽の敵、音楽の味方

      1990's→2017

      1990年代、オルタナティブの始まりと終わり

      90’sリバイバルはどこからはじまった?