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2落合陽一:デジタルネイチャーの時代へ

2017年へ:「幼年期は終わる。今こそバベルの塔を建てよう」(後編)

コントリビューター落合陽一
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魔法の世紀に生まれた「ポスト真実」

2015年、2016年を占う上で『魔法の世紀』という本を上梓した。魔法の世紀という言葉は、マスメディア型の情報伝達系が世界を支配した20世紀を「映像の世紀」と呼び、その対比として、コンピュータによってあらゆるものが「ブラックボックス化」=「魔術化」した今世紀の姿を、アメリカの社会批評家モリス・バーマンの『世界の再魔術化』という本になぞらえて「魔法の世紀」と呼んだものだ。

魔術化は、人が動かす社会システムにも大きな影響をもたらす。人はものの仕組みに無頓着になっていき、例えば近年のSNSに関する調査結果によれば人は真実よりもデマのほうを好んでシェアする傾向にあるし、SNS上のコミュニティの中で一人一人が好んだ世界を好んだように生きている。このような感覚を拙著では「貧者のVR」と呼んだ。一人一人はそれが現実だと思って生きてはいるものの、タイムラインやコミュニティが見せる「現実」は、事実とはやや偏った異なる現実だ。

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FacebookカンファレンスでHMD(ヘッドマウントディスプレイ)をかぶる人々。みなマーク・ザッカーバーグCEOの登場に気がつかなかった(image: Facebook

貧者のVRは、2016年の社会に実際に大きな影響をもたらした。 Brexitやトランプ旋風など、識者が世論から推測するだけでは容易に予想できない現象が垣間見られ、オックスフォード大学出版局は今年の言葉として「Post-Truth(ポスト真実)」を選んだ。このポスト真実という言葉は、客観的な事実や真実が政治的な選択において重要視されないという意味である。ここに僕は21世紀の人間性を垣間見た感覚を覚えた。魔法の世紀だ。

このポスト真実、虚構と現実の混濁した時代では、人はSNSを通じて、貧者のVR=「あってほしいそれっぽい現実」を生きている。筆者のタイムラインでは、ローマ法王がドナルドトランプの支持を表明したり(下画像右 / via Snopes.com)、ビヨンセが募金して救った女の子が夢を追いかけて成長しヒラリー・クリントンになったりしていた(下画像左 / via SIZZLE)。後者はなんとなく嘘だとわかるが、前者は嘘かどうか文面だけではわからない。

170111fakenews_election.jpgキュレーションメディアの真偽も2016年の話題になったが、ユーザーは真偽を問わず楽しんでいたコンテンツも存在したようだ。ここにも倫理的、そして社会的な問いが含まれている(image: simon2579 / Gettyimages, screenshot: Snopes.com, SIZZLE

この「ポスト真実」について識者に語らせれば、見たいものだけをフィルターにかけ、真偽を問わず混ぜ合わせた世界における情報取得や政治への参加表明、そしてその姿勢全般について、「真実や正義が敗北し嘆かわしい、この世界はこうあるべきではない」と言わんばかりだ。それもまた真実と虚構の間に溶けてゆく意見と感情の一つにしかすぎない。今、この世界は「べき」では語れず「思う」としか言えない

複数のコミュニティと価値観がある中で統一の感情とルールとゲームを作ることに意味があるのだろうか? 真実は正義なのだろうか? そして虚構は悪なのだろうか?

私はこの変化をフラットに受け入れたいと考えている。もちろん研究者である自分は真実を探求することに興味を持ち、科学的探求というゲームの中でアイディアを出し、実験をし、結果を見つめ、論文を書き、発表し、さらに探求を続けていくことが好きだ。しかし、他者にとってみれば、それが真実であることに価値を持たない人々がいて、理解されないということもあるだろう。それを私はどうあるべきだとは強制しないし、どう思われてもいいと考えている。私は私の感情の揺れ動き(エモさ)をベースにしてゲームを選択し、ゲームをルールに基づいて戦っているわけだが、他の人間には他のエモさとルールとゲームがあるだけの問題なのである。

複数のコミュニティと価値観がある中で統一の感情とルールとゲームを作ることに意味があるのだろうか? 真実は正義なのだろうか? そして虚構は悪なのだろうか? 例えば科学コミュニティのように、一つのルールとゲームに則ったコミュニティの中で行なうべきことは実践できる。しかしスポーツではどうだろうか? サッカーと野球が対戦できないように、ルールが違うゲームの上でルールに対する「べき論」で語るよりは、経済や感情面での相乗効果を考えたほうがいいのではないだろうか。コミュニティの内部ルールに立ち入ることも無用であるし、一つの流行や価値観を求めることはもうできない。今この世界にとって、多数決はそれぞれのコミュニティと少しずつ食い違った現実をもたらす手段だ。民主化と民主主義のギャップがそこで生まれつつあることに、我々は少しずつ気付き始めてきた。

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人は真実よりも虚構の方をシェアしてしまう傾向がある、とのBuzzFeedの記事は人々を驚かせた。真偽の区別が意味を無くした世界に人は適応しようとしている(image: BuzzFeed News)

今起こりつつある変化、真実ではなく意見の時代、それを一言で表すなら「人類の適応」と言えるだろう

この変化をフラットに受け入れられるかどうかが、ポスト真実後の踏み絵になっている。この踏み絵はこの世界のいたるところで起こっていて、これを受け入れられない人々は発達したテクノロジーから感じる漫然とした異物感を「それによってコミュニケーションの問題が生じている」とくくりつける。しかし我々はもはやこの変化に適応して生きていくしかないのだ。あるべきだった世界は存在せず、皆が見た正義も存在しない。真実と虚構のパワーバランスは等しくなった。いや、むしろ虚構のほうが強いかもしれない。

Face2Face』:2010年代後半の顔認識・顔変形技術の進歩は写真や動画の能力をも奪うほどだ。人間の声と表情と身振り手振りを用いた映像にもはや、真実という保証はない

デジタルネイティブ以前の世代が、SNSやコミュニティ、インターネットの余波という文脈で現在の世界を語り、以前の世界にあったものを理想として追い求めていく限り、この拒否反応は続くだろう。昨年見られたさまざまな政治的変化への驚き、これはテクノフォビア的な反応だ。テクノロジーで変化する前の我々の習慣や規範や考え方によって、それ以後の人類を推し量ろうとするならば、それはテクノロジーとの間に摩擦を起こす。今起こりつつある変化、真実ではなく意見の時代、それを一言で表すなら「人類の適応」と言えるだろう。

幼年期の終わり

我々はこの時代を歓迎するのでもなく、悲観するでもなく、"適応"していくだろう。ただし、その適応にはコンピュータ時代の人間性を考えていく必要がある。

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アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』: 宇宙から飛来した宇宙人の出現を契機とした、人の団結とその後の進化を述べた(image: CHRIS DRUMM

幼年期の終わり』でも宗教解体の後に仏教だけは残っていたが、計算機以後の人間性はより仏教のような哲学体系に近い形で現れるのではないかと考えている。計算機以後の人間性では、「個人の個人らしさ」や「同一性」という問題は計算機進歩によって置き換わっていく。それゆえに、仏教でいう「空(くう)」の概念の上に自身を構築するか、もしくはそういった自身の構築自体も魔術化されたまま無頓着に生きていくかの二択しか残らないのではないだろうか。

機械ではないことを基準にした人間の定義は、人間によく似た能力を持った機械が現れたときに自壊する

今後、何年かの間で、我々は近代以降培ってきた古典的人間性と、計算機以後の人間性、社会と正義と市場と感情の間に新しい価値観や幸福感を樹立していかなければならないはずだ。産業革命以後に、機械への対比として培ってきた我々の人間性は綻んでいく。なぜなら、機械ではないことを基準にした人間の定義は、人間によく似た能力を持った機械が現れたときに自壊する。多くの場合その拠り所は感情面に向かうが、人間が持っている感情のメカニズムが明らかになっていき、それを機械が判別できるにつれて、そこも聖域ではなくなっていく。我々は今、機械と人間という対比の次のフェーズに進もうとしている。

『ターミネーター4』CGのアーノルド・シュワルツェネッガー:デジタル化された人は、同時に一つの身体や人格という壁を超えていく(video: ciberneticox

次の対比は、「古典的人間らしさ」と「デジタルヒューマンらしさ」の対比だ。計算機ネットワークに親和性の高いデジタルヒューマンの集団と、その時代の変化に適応できず、もしくは何らかの信念によって古典的人間性を保とうとする集団との対立が生まれる。機械の対比として培った人間性が、機械と人間の融合によって自壊したのち、一つの身体の垣根を超えていくだろう。アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』では進化した人類と旧人類のコミュニケーションは断絶してしまった。しかし、その間を「知能化したインターネット(機械)」と「インターネットによって生まれた新たな知能(人間)」がとりなすのではないかと私は期待している。

『Digitizing Photorealistic Humans Inside USC's Light Stage』:ヒューマン・デジタイゼーションは重要な研究分野だ。デジタル化されて見分けがつかなくなった身体は、古典的人間性に比べはるかに自由だ(video: Tested

2017年は、デジタルヒューマンとデジタルネイチャーへの契機が多く見られるだろう。我々の話す言葉、身振り手振り、表情といったコミュニケーションにおける身体性はバーチャルリアリティの文脈の中でデジタル空間に多く存在するようになる。それは映像を用いたチャットシステムよりも、さらに身体性に近いものだ。

また、既存のデスクトップメタファーや手帳メタファーのコンピューティングから、AR技術・VR技術によって環境型のコンピューティングメタファーが多く生まれるだろう。これは、我々の触れうる世界を、物質とデータの如何に関わらずコンピューティングの対象にしていき、物質だかヴァーチャルだかを気に留めない時代になりつつある変化の現れだ。

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創世記のバベルの塔の伝説では、神が現れ言葉を乱してしまった(Gustave Doré [Public domain], via Wikimedia Commons

最後になるが、これから先の変化を考えるとき、古典的人間性とデジタル人間性の衝突は、創世記にある「バベルの塔」の話のようになるのではないかと考えている。

全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである


「創世記」11章1-9節/フェデリコ・バルバロ「創世記」『聖書』 講談社 p.24 2007年第16刷(1980年第1刷)via Wikipedia

今デジタルヒューマンとして計算機親和性の高い人々や、ミレニアル世代は共通のプラットフォーム上で同じツールを使い、機械翻訳によって違う言葉を同じ意味レイヤーで語ることができ、今この世界に存在する問題を解決しようとする傾向がある。しかしながら、そこで樹立されようとする高い塔に対して、その存在の恩恵を得られない人たちもいる。このギャップを、壁を作ったり、世界を分断したりして止めていってほしくない。ローカルの問題を再燃することによって、言葉が乱され、個別に分断されることのないことを願っている。

「今、人類は壮大な子育てをしている。その子どもはインターネットの中に生まれ、画像を通じて目と絵を描くための指を持った。今、全地の言葉を理解し、身体性を獲得しようとしている。散らばった人を再び集め、元あった世界を望む人々を解体するための大きな塔を建てるだろう」

2017年の我々は、根拠のない不安が生み出す悲観的なディストピアより、テクノロジーの流動性がもたらすプロトピアの方向に向かっていかなければならないのではないだろうか。それを目指す人の次の世代と次の知的システムに適応し、受け入れていくことができるように、社会が許容していくことを祈っている。

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Pieter Brueghel the Elder (1526/1530-1569) [Public domain], via Wikimedia Commons

個人的な一年と次へ向けて

2016年はアーティストとしても、研究者としても、そして起業家としても多様な経験をさせていただいた。

初の大規模個展"Image and Matter - Cyber Arts and Science Towards Digital Nature"をクアラルンプール開くことができたし、オーストリアでのアルスエレクトロニカでのArtist Lab展招聘、『Fairy Lights in Femtoseconds』のPrix Ars Electronica受賞や国内でも県北芸術祭など、国際的なアートの文脈やローカルとしてのコミュニティアート的な文脈でも多くの学びを得た。研究者としても自分のラボから多くのプロジェクトが日の目を見て、CHIUISTSIGGRAPHSIGGRAPH Asiaなどのトップカンファレンスでの発表やクラウドファンディングの成功、多くの学生に恵まれさまざまなディスカッションをしてきた。起業家としては昨年起業したPixie Dust Technologies社から初の製品である空間点音源スピーカー「Holographic Whisper」の発表を行なうことができた。受賞や登壇も多く、ひとえに、人と機会に恵まれる一年だった。支えていただいた多くの人に感謝したい。かけがえのない時間を過ごさせていただいている。

2017年はオーディオビジュアル、VR、そして生物やデジタルヒューマンに関しての研究や作品をこれまで以上に多く作っていきたい。去る1月10日、11日にはONE OK ROCKとのコラボレーションで「WEARABLE ONE OK ROCK」を発表した。今年も、多作の一年が過ごせることを願っている。

落合陽一:デジタルネイチャーの時代へ

      #未来世紀シブヤ2017

      100年後、「2017年の渋谷」はどんな姿をしているだろう?