スケートボードカルチャーの分岐点というか、ターニングポイントのような時代を最も多感な時期に過ごした。
それは運がよかった感じでもなく、振り返るとただそこにあった。1986年に初めてスケートボードに乗って、それからドップリとハマって数年経ったときのことだ。この時代というのは今思うとインターネットなどなく、情報のやりとりやDIGの仕方は、何かひとつの軸を通して広げ、掘り下げていくといった感じで、筆者にとってはスケートボードが主軸であった。
90年代とともに訪れた変化
まずはデッキのシェイプの変化によって1990年代は到来したと感じた。それまではデッキのノーズは短く、テールは魚の尻尾のようなシェイプだったが、ノーズもテールも同じシェイプになった。ダブルキックと呼ばれるシェイプのタイプがWorld Industriesの前身でもあるSMAからマイク・バレリーのシグネイチャーとしてリリースされ、スケートシーンにあらたな風を吹き込んだ。
このダブルキックと呼ばれるシェイプの登場によって、一気にスケートボードのトリックの幅は広がる。利き足とは逆の足でノーズを叩きながら行なうノーリーやスィッチスタンスなどの、今では欠かすことのできないトリックのフォーマットが、このダブルキックのシェイプのおかげで完成していった。以前までの主流なトリックは、ジャンプランプなどのセクションだったが、フラットでの回し技などがメインになって「ストリート」と呼ばれ、街全体をセクションと考えられるような自由な発想とスタイルになった。以後、ダブルキックデッキの登場を機に80年代のデッキはオールドシェイプなどと呼ばれるようになっていった。ダブルキックがリリースされた当初は、ちょっとしたミュータントのような扱いで、年配者達はすぐに終わる一瞬のブームのように感じていたかもしれない。だが当時のティーンエイジャーなど若いスケーターたちには、そういったブーム的なものではなく何かを感じ、スムーズに受け入れすぐにそれがスタンダードなシェイプとして浸透していった。
目の前に、新たな何かデカイ波が来ているのを感じていた。
それからティーンエイジャーを中心に新たな動きもみられ、コンテストばかりだったスケートシーンは家庭用ハンディカムビデオの普及からビデオといった媒体に活躍の場所を移しはじめていた。今まで雑誌のシーケンスでしか見ることのできなかった複雑な回し技などが映像でチェックできるようになり、アメリカと日本のスケートシーンの差が縮み始めてきていた。だが、ビデオはアメリカで発売されて数ヶ月後にしか日本に入ってこないので、ビデオの最新のトリックは1年近く前に撮影されたもので、やはり差はあった。1991年のblindからリリースされた『VIDEO DAYS』を皮切りに、1992年にリリースされたWorld Industriesの『LOVE CHILD』やPlan bの『questionable』といった後世に語り継がれるような名作ビデオが短期間に続けざまにリリースされ、その差は縮まってきていた。
これらのビデオではトリックの進化にも目を見張るものがあったが、服装もそれ相応の進化があった。「BPSW(Big Pants Small Wheels)」と、その後語られる時代の象徴のような着こなしの勢いは物凄く、土管のような極太パンツの裾をぶった切って、原色使いまくりな着こなしはまさに時代の象徴となっていった。何をきっかけだったのかわからないが、まさに突然変異の様にルーズフィットな着こなしになっていった。いまでも語り草になっているのは雑誌Big Brotherに掲載されていたGoofy Boyが有名で、当時はこのようなシルエットの着こなしのスケーターが沢山いた。
この当時のBig Pantsブームはblindのジーンズ、Plan bのカラーパンツから火がつき始め、それまではアパレルブランドといえばサーフよりなものばかりだったのが、90年代に入りスケートボードのアパレルブランドがスタートしはじめた。今でも人気のXLARGEやFUCTといったブランドも、この時代にBig Pantsをリリースして人気になってきた感じがある。ただ、そういったブランドの中にはLimpiesなど、90年代のBig Pants時代で息絶えたブランドも多々ある。
スケートボードとヒップホップが出会うとき
そういったファッション/音楽の面でターニングポイントとなった作品は1994年、World Industriesからリリースされた『20 Shot Sequence』でのカリーム・キャンベルの選曲と着こなしが大きかった。カリームがプロデュースしてスタートしたLAの悪ガキ集団デッキブランドMENACEなどは、Thrasher Magazineでの広告などWU-TANG CLANのアルバム『Enter The Wu-Tang』のパロディーで、その時代のスケートボードとヒップホップカルチャーとの距離感を表している1枚といえる。当時の広告は、こういったヒップホップカルチャーからインスパイアされたものが多かった。
この広告写真のように、プロスケーター達がPOLOを身に着け、さらにはスケートシューズではないものを履いていた。そりゃスケートブランドが売れなくなるわけである。身につけるブランドとしてはPolo、GUESS、NAUTICA、Timberland、The North Faceなど、今でも人気だったり、90年代リバイバルによって再燃しているブランドが主流になり、スケーターが一気にファッショナブルになっていった。当時はスケートシューズと別にTimberlandやNikeなどスケートボードができないタイプの靴などを履いて移動し、スケートスポットで履き替えるなど手間のかかることを皆が皆そうしていたのだ。まさにオシャレは我慢。右向け右な時代でもあったのだと、その後すぐに気づく。スケートスタイルなどにも大きく影響が出てくるのは、このときにはまだ少しも気にもしていなかった時期でもある。
とにかく、平行輸入や個人買い付けで日本に入ってくるレアなPOLOやナイキのアイテムをスケーター達も渋谷、原宿のそれっぽいお店を探し回り、POLO SPORTS 1992なんかも買い漁っていた。そしてそれらのお店にはNYCから産地直送のミュージックビデオやヒップホップのラジオ番組、有名無名問わずDJ達のミックステープが所狭しと並んでいた。コピーにコピーを重ねて、ジャミジャミで読みづらいセットリストに目を通しては、スケートビデオで使われていたアーティストのミックステープなども買い漁っていた。ちょうどその時代にスケートボードのビデオの音源がロックやメロコアなどから一気にヒップホップばかりになっていき、ヒップホップカルチャーにもスケーターは多数流れていった。だからと決めつけるのもあれだが今活躍しているヒップホップ系のアーティストに元スケーターが結構いたりするのは、この時期にスケートボードのビデオの音源から興味をもってミュージシャンになっていったのではないだろうか。
西海岸から東海岸へ、横断するスケートカルチャー
そして時を同じく1994年。今も大人気なSupremeがNYCで産声をあげ、スケートボードのメインストリームが西から東へと移行していった。1990年から1994年くらいまではウィールのサイズも34mmほどの極小で、スケートボードの軽量化をはかり、回し技の進化に一役買っていた。だがそうした回し技も一旦出尽くし、スタンダードでソリッドなスケートスタイルが主流になってくると、1996年リリースDan Wolfeの名作ビデオ『eastern exposure3』によりイーストコーストのストリートスケーティングが一気に評価され始めた。ウエストコーストのスケータブルな路面と違い、イーストコーストのラフな路面に合わせてウィールのサイズが一気に大きくなり、56mmなどが主流になってきた。
スケートスタイルのイーストコーストブームと同時にヒップホップ黄金期も到来し、B-BOYスタイルのスケーターが増えていった。
スケートボードの映像作品でいうと、今は最新のトリックができたらiPhoneで撮影してすぐにSNSで拡散できる。1分前に1回乗れただけのクオリティの低いものが広がっていく。そしてそのトリックはすぐにサンプリングされ、オリジナルよりもクオリティの高いものがさらに出回っていく。それが繰り返されていくと、オープニングから各ライダーのフルパートがあって、その合間にフレンドパートやブランドの世界観を知らしめるショートパートなどの構成でエンドロールまで続く、自分が好きなスケートボード映像という作品が作られなくなってしまうのではないかという怖さがある。
スケートボードをしに行くと何かしらの最新情報が得られ、それらに自分達の予測的考察をつけ加えて語り合い、その情報に今でいうところの感度のいい意見が噂話的に尾ひれ背びれになって大きく大きくなる。ときにはフェイク、ときには事実が織り込まれて広がっていったようなものだと思う。音楽的にもスケートボードのトリック的なクオリティーにしてもインターネット以後と違い、表に発表するまでに時間がかかるぶん、煮詰めて煮詰めてそして考え抜いてから陽の目を浴びているからこそのクオリティだったのだろう。
まぁそれがよいか悪いかは別として、元々スケートボード元年から考えればなかったので、そこに執着するのもあれだが、90年代カルチャーにおけるスケートボードビデオという存在はかなり大きかっただろう。それを証拠に1997年にZooYorkからリリースされた『MIX TAPE』は、まさに90年代を定義つける金字塔となった。
この作品では音源にフリースタイルラップが使われている。その収録スタジオの映像をスケートボードパートの合間に挿入されるという画期的な手法を用いて、スケートボードとヒップホップが見事に融合した作品であり、以後これ以上の良作なヒップホップとスケートボードのマッチした映像作品はリリースされていないといっても過言ではない。そして忘れてはいけないファッション性だが、当時人気の出はじめてきていたSupremeの初期メンバーも多数出演していて、B-BOYファッションよりも少しスマートで動きやすい着こなしになり、まさに90年代スケーターここにありといったイメージになった。そう考えると、90年代は短い間にファッションもスケートスタイルもだいぶ変わっていった激動の時代だったのかもしれない。
そしてカルチャー的にもファッション的にも世の中でその存在感を強烈に残したのは1995年に公開された映画『KIDS』だろう。この作品は当時スケートボードをしている世界中のキッズがまさに共感し、自分達と何ら変わりのないような生活をスケートボードの本国アメリカでも繰り広げられていると確認し、刺激を受け同時に安堵したことだろう。インターネットなどまだ馴染みのない時代に、どこかで薄々感じていた「世界が同時進行していて自分がその一部であり、ひとつの場合はスケートボードカルチャーの中にいる」と確認できる映画でもあった。
90年代リバイバルとともにアップデートされていくトリック
とにかく筆者のように多感な時期をこの90年代に過ごしていると、少し大げさかもしれないが、すべてがこの時代に完成されてしまったような錯覚に陥っていたりする。それは、どの時代を多感に過ごしても同じことかもしれないが、2017年の今、街を見渡すと90年代リバイバルの物が多く見つかる。20年の年月が経ち、「ほどよく1周してアリだよね」となっているファッションアイテムも多数ある。
それはスケートボードのトリックも同じことだ。これまでは暗黙の了解でナシと勝手に認識されていたトリック達の、温故知新によるリバイバルっぷりたら想像を絶する活躍ぶりだ。今もスケートボードのトリックの可能性を押し広げ続けている。
そしてそれがナゼかと少し考えてみると、それはインターネットによるものだと容易に答えが出る。スケートボードを始めたてのキッズが、YouTubeでいろんなトリックを探して観まくる。そこには古い/新しいなどなく、はじめて目にするスケートボードのトリック達ばかりなのである。その中から「自分ができそう」、「素直にカッコイイ」と思ったトリックを練習していく。こういった組み合わせが組み合わせを呼び、90年代当時トリックをやっていた人には思いもつかなかったような、突然変異的なトリックを生み出す若手が世界各地から続々と出てきている。それらのトリックがSNSに乗ってやってきて、さらにそれを見たセンスもスキルもある若手がドンドンと洗練させてサンプリングし、あらたなトリックの扉を開きまくっている。
自分がドップリハマったスケートボードは90年代に完成され、そこから20年もの間スタンダードとし自分の中に定着していた。そして時は2017年。自分の中で定着してしまい、失われていたかのような20年間が、ファッションのリバイバルによりドッと一気にさまざまな側面から自分の中でのスケートボードシーン、スケートボードスタイルにも影響が及んできた。1年ひと昔、いやひと月ひと昔とまでいわれるような早いペースの昨今だからこそ、古きを温め新しきを知るといったマインドが大切なのだろう。
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