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151990年代、オルタナティブの始まりと終わり

カルチャー雑誌/音楽雑誌は死んだ? 雑誌天国の90年代から20年、何が変わったのか?~00年代『EYESCREAM』『SNOOZER』編

ARTS & SCIENCE
コントリビューター小林 祥晴
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90年代の「雑誌天国」から20年。カルチャー雑誌/音楽雑誌をとりまく状況はどのように変わったのか? それにともない、作り手側の意識はどのような変化をとげているのか? あるいは、そもそもの前提として「雑誌天国」を支えた当時の現場はどのようなものだったのか? それらを紐解くにあたって、90年代前半にキャリアをスタートさせたふたりの編集者、稲田浩と田中宗一郎による対談をお届けしている本企画。ふたりが在籍していたロッキング・オンを軸に90年代について語った前編に続き、この後編では稲田が編集長を務めた『EYESCREAM』と田中が編集長を務めた『SNOOZER』から00年代を見通す。

まだの方はこちら:カルチャー雑誌/音楽雑誌は死んだ? 雑誌天国の90年代から20年、何が変わったのか?~90年代『ロッキング・オン』編

日本発のジャンルレス・マガジンを目指した『EYESCREAM』

田中宗一郎(以下、田中):株式会社ロッキング・オンは、編集者が広告営業もマネージメントとの折衝も取次流通もすべて把握しているオール・イン・ワンの大勢だった。そこで10年間、いろんなタイプの雑誌を作ってきた経験は、自分の編集者、経営者としてのスタイルに何かしらの影響を及ぼしていると思いますか?

稲田浩(以下、稲田):そうでしょうね。逆に言うと、雑誌の作り方はそれしか知らないんです。ロッキング・オンでの最初の10年を修行ととらえるなら、『EYESCREAM』(創刊:2004年5月号)という雑誌を作るときは、その方法論に則っていましたね。

田中:今では稲田くんはライスプレス株式会社を立ちあげ、自分が組織の長なわけですけど、『EYESCREAM』立ちあげのときは、ビジネス的な座組みはどのような形だったんですか?

稲田:会社を辞めてから何の当てもなかったんですけど、『EYESCREAM』という雑誌を作りたいっていうのは自分の中にあったんです。で、結果的にアーティストハウスっていう会社に入ることになるんですけど、当時の社長の河村光庸さん…マイケルって呼ばれていた人なんですけど、その人と『Cut』時代から面識があって。その会社は当時イケイケだったんですよ。いくつかベストセラーも出して、上場もしていた。

田中:なるほど。当時、アーティストハウスは雑誌もやってたの?

稲田:単行本だけで、雑誌はやってなかったです。でも、アーティストハウスパブリッシャーズっていう出版、アーティストフィルムっていう映画会社、そしてクロスワープっていうEコマースの会社があった。で、それを繋ぐメディアがほしいっていうイメージがあったみたいなんですよ。

田中:なるほど。

稲田:上場したばかりで資金もあるし、「ちょうど雑誌を作りたいと思っていたんだよ。ぜひやろう」って社長に言われて。それで会社に入れてもらったんです。

田中:メンバーはどういう風に集めたの?

稲田:『SWITCH』を辞めてロッキング・オンにいた内田正樹くんに声を掛けて、彼に相方になってもらいました。後は、普通に新聞に社員募集をかけてメンバーを固めましたね。

田中:『EYESCREAM』の創刊時のコンセプトはどんなものだったんですか?

稲田:少しさかのぼって話すと、実は『Cut』をリニューアルしようという話が一度だけあったんですよ。当時の『Cut』は佐藤さんから宮嵜さんに編集長が代わって、宇野惟正もいて、僕と翻訳スタッフの内瀬戸久司がいた。結構まとまらなそうなメンバーなんですけど(笑)。

田中:絶対にまとまらないね。

稲田:僕の『Cut』での最後の一年間はその体制でした。で、そのときに煮詰まっていて、「リニューアルしよう」という話になったんです。ただその会議には渋谷社長もいなかったし、ひょっとしたらゲリラ的なニュアンスもあったのかな?(笑)。そこで自分が考えたコンセプトが『EYESCREAM』の創刊号に近いんですよね。

田中:俺がロッキング・オン時代の最後の頃、増井さんが『rockin’on』の編集長を降りて、マンガ雑誌を作りたがってて、「タナソー、俺の代わりに『rockin’on』の編集長やるか?」っていってもらったことがあったんだけど。「エアロスミスやレッド・ツェッペリンが表紙になる雑誌はやりたくない」とか身分不相応なことをいって、その後の『SNOOZER』みたいな「レディオヘッドとかベックが表紙になるような新しい別の音楽誌を創刊したいっス」って答えたの。それと近いかもね。したら、後生大事に増井さんがそのまま渋谷さんに伝えちゃって、渋谷さんは「100年早い」って仰ったらしいんだけど。

稲田:(笑)形態の話が先になってしまいますけど、まず中綴じにしようと。ロッキング・オンに中綴じの雑誌はなかったし、中綴じのほうがポップなんじゃないかと。あと、雑誌は単行本と違って、どこからでも読めるじゃないですか? 前から読んでも後ろから読んでもいい。だから、ダブル表紙にして両方から読めるようにしたいと考えたんです。雑誌を容れ物として考えたときに、新しくて面白いフォルムがないかな、と思って提案したんですよ。でも、全然響かなくて(笑)。

田中:編集長を始め、全員に響かなかった?

稲田:内瀬戸には響いてたかも。彼とは気が合ったんで。でも、まず編集長に響かないと仕方ないじゃないですか。その後にみんなで飯を食いに行ったときに「面白いなあ~、その発想は面白い。でも無理だと思いますよ」って宇野に言われたり(笑)。

田中:目に浮かぶな(笑)。

稲田:でも、そのおかげで、自分の中でイメージはできていたんですよ。雑誌のコアになるものはクロス・カルチャーだと。90年代のビースティ・ボーイズ以降の、いろんなものが混ざりあったカルチャーが前提となった世代が生まれているから、そこに向けたカルチャー・マガジンを新しく立ちあげたい、っていう発想でした。

田中:なるほど。

稲田:『i-D』『The FACE』は、ロンドンとかで起きているリアルタイムのサブカルチャーを伝えつつ、たたずまいやデザイン自体がそのカルチャーを体現しているじゃないですか。スタイルと内容が一致しているんですよね。そういう雑誌が日本にはありそうでなかった。だから、それを作りたいと思っていたんです。

田中:ロール・モデルはそこだったんですね。

稲田:立ち位置としては、メジャーなんだけどギリギリとんがっていて、とんがっているものの中で一番メジャー。そこを狙いたいと思っていました。そのゾーンをずっとかすりつづけていれば、ちゃんとブランド力が生まれるだろうし、広告クライアントもしっかりついてくると考えたんです。作りたい方向とビジネス・プランはそこでしたね。

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田中:そういったコンセプトがあったうえで、創刊号はどんな特集にしたんですか?

稲田:ニューヨークです。2004年だったので、「NY 95-04」という特集にしたんですよ。なぜ95年かというと、95年は僕の原点の一つである『KIDS』が全米で公開された年。そして、そこからの10年間の真ん中には911がある。この10年間でカルチャーは大きく変わった。だから、それをドキュメントしようとしたんです。

田中:なるほど。

稲田:その創刊号で、〈DFA〉のジェイムス・マーフィーに取材したんですよ。それでニューヨークの特集だと伝えたら、「Why New York?」って言われて(笑)。

田中:(笑)

稲田:そのときは通訳がいたんだけど、一生懸命、下手な英語で説明して。日本では、音楽は音楽、ファッションはファッションと分断されている。でも、僕は日本でジャンルレス・マガジンを作りたいんだと。そしたらジェイムスはすぐにわかってくれて、「それはアメリカも一緒なんだよね」って。

田中:うん。

稲田:ダミーの表紙を作っていたんですけど、ヴォルフガング・ティルマンスが撮ったクロエ・セヴィニーの写真を使っていたんです。バニーの格好をしてギターを抱えてるんですけど、後ろにラリー・クラークの写真が飾ってあって、スケートボードが立て掛けてあって、CDもそこら辺に置いてあって。すごくライフスタイルを感じさせる写真だったんですよ。「ここに全部入ってるじゃん!」と思って、それを象徴にしようと思ったんですね。

田中:なるほど。

稲田:で、ジェイムスにも、「この写真には、ファッションもあるし、スケートもあるし、音楽もあるし、アートもあるし、全部あるでしょ? こういうことがやりたいんだよ」と説明したんです。「もしニューヨークに視点を立てたら、それが全部入ってくるし繋がってるでしょ? ファッションも映画も音楽もアートも。だから、創刊号を作るのにニューヨーク特集を作るのが一番いいと思ったんだ」って。そしたら、すごく感心してくれたのを覚えていますね。

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紆余曲折の12年間、それでも貫いた定期刊行

田中:『EYESCREAM』の滑り出しは順調だったんですか?

稲田:いや、実は、はじめてから2、3ヶ月経ったところで社長が失脚してしまうんですよ。

田中:そうなんだ?

稲田:ベストセラーはそんなに続かないので、株価ががくんと落ちたときに引責辞任ということで外されてしまったんです。新しい社長は雑誌のビジネスにまったくタッチしていない人だったので、途端に風向きが変わって。

田中:ああー、それは大変。

稲田:雑誌なんてすぐに黒字になるわけないじゃないですか。初年度は赤字、2年目はトントン、3年目は黒字っていう一般的なスキームを最初は出していたんですけど、会社自体に余裕がないので、もうサドンデスだと。「一号でも赤字を出したら、お前ら、クビだ」っていうことになってしまったんですよ。

田中:うわ~。

稲田:それでも、なんとか一年くらいはしのいでやっていたんですよ。でも、最後の三ヶ月くらいに、そろそろ結論を出さないといけないことになって、どこかほかの出版元を探してくる、見つからなかったら廃刊、となったんです。それでUSENにいくわけですけど。

田中:最初はアーティストハウスの社員として『EYESCREAM』を作っていたんですか?

稲田:そうですね。

田中:USENとパートナーシップを結ぶにあたっては、どういった形態を取ったんですか?

稲田:ちょっと因縁めいているんですけど、当時の『音楽と人』はもう市川さんが抜けていて、金光裕史さんが編集長になっていたんですね。金光さんは僕が『B-PASS』に一ヶ月だけいたときの先輩なんですよ。

田中:ああ、そうなんだ。

稲田:『音楽と人』は、シンコーの業績が悪くなってきたときに会社から切り離そうということになって、先にUSENに入っていました。奇しくも、僕と同じような状況を経ていたんですね。たぶんそれで気持ち的にわかってもらえるところもあって、金光さんが上に掛けあってくれたんです。で、結果的に移ることができたんですよね。

田中:座組みとしてはどうなっていたんですか?

稲田:大きな会社なので、コンテンツ事業部みたいなものがあったんです。USENの会員向けの会報誌があるんですけど、そういう紙媒体を作る部署に『音楽と人』が入っていて、そこに『EYESCREAM』も入れてもらったという感じです。

田中:なるほどね。

稲田:当時は会社の景気がよかったんです。最初は神泉ビルだったんですけど、ミッドタウンに移って。ロビーには滝が流れていて、受付にはグラビアアイドルみたいな子がいるし、試写室が2つもあるし、カフェテリアもあるし…なんか間違ってるなって(笑)。

田中:(笑)。

稲田:そしたらリーマンショックが起こって、一気に業績が悪化した。それで会社として整理することになって、『音楽と人』、『EYESCREAM』、最初は『GyaO Magazine』っていう名前だった『QLAP!』っていう3つの雑誌をまとめて独立させることになりました。そういった経緯で、株式会社 音楽と人ができたんです。

田中:なるほどね。

稲田:その後、またいろいろとあって、僕が編集長を務めていた最後の2年間はスペースシャワーネットワークでした。都合12年間、これだけ会社を変遷しながらも、一回も途切れずに年12号出せたんですよ。それはラッキーでもあり、こだわったところでもあるんですよね。一回でも休刊になるとふりだしに戻る気がしたんで。

ロッキング・オンの文法で切り込んだファッション・シーン

田中:じゃあ、12年間続けてきた『EYESCREAM』で目指した文化的なインパクトはどんなものだったと思いますか?

稲田:インパクトがあったかわからないですけどね(笑)。ただ、『Cut』ではクロスオーバーするカルチャーを取りあげていたし、『SNOOZER』も洋邦が混ざっていく感じがあったじゃないですか?

田中:そうだね。

稲田:そういった空気を前提としたうえで、ファッションの要素を入れたことですかね。90年代に僕が『Cut』をやっていたときは、『ASAYAN』(創刊:1994年1月号)っていう雑誌があって、裏原ブームが起きていたんですよ。

田中:はいはい。

稲田:日本のインディ・ブランドがどんどん現象化して、ヒーローがいっぱい生まれていたんですけど。

田中:『Cut』はそこにコミットしなかったんだよね。

稲田:ロッキング・オン全体がそこにコミットしなかったんですよ。完全に無視していたと思うんですけど、『EYESCREAM』はそこにコネクトしたんです。『EYESCREAM』の12年間でインパクトを残せたとしたら、一つはそこかなと思いますね。

田中:なるほどね。

稲田:それまでファッション・デザイナーとそんなに接点がなかったんですけど、僕はミュージシャンと接するように彼らに接していたんですよ。

田中:ノブさん(北村信彦、ヒステリックグラマー)やNIGOくんから始まって?

稲田:ノブさん、(藤原)ヒロシさん、UNDERCOVERのジョニオ(高橋盾)さん、NIGOさん、当時NUMBER(N)INEだった宮下(貴裕)くん――これってすごく日本的な現象だと思うんですけど、みんなミュージシャンみたいな人たちじゃないですか?

田中:そうだね。

稲田:実際に音楽をやっている人もいますし、ミュージシャンが着ているような服を作りたいと言う人もいるし。ミュージシャンありきの現象が裏原にはあったと思うんです。だから、ショーはライブだし、コレクションはアルバムかもしれないし、Tシャツはシングルかもしれない。それを表現する人たちっていう捉え方で、ロッキング・オンでやってきた2万字インタビューみたいなことをやってきた。ひょっとしたら、彼らにとってもそれは新鮮だったかもしれないですね。

田中:うんうん。

稲田:実際、ファッションのフワッとした話をするだけのメディアが多かったと思うんですよ。でも、『EYESCREAM』では洋服の話を訊くときに、モチーフになった音楽や映画の話もきく。僕は両方に対応できるんで、それをひとつのテーブルに乗せて話したんです。

田中:そこは意識的だったわけですね?

稲田:はい。ロッキング・オン方式でデザイナーにインタビューする。写真の撮り方も含めて、誌面化もその方法論でやる。ファッション誌的に洋服をそのまま見せるだけじゃなくて、ビジュアルも意識的に考えていましたね。

『EYESCREAM』が創った新たなビジネス・スキーム

田中:じゃあ、ビジネス・モデルの面で『EYESCREAM』が残した功績があるとすれば、何だと思いますか?

稲田:『EYESCREAM』にはバック・カバーがあるんです。うしろからファッション・ページが10ページあって、毎回タイアップをやっているんですよ。『EYESCREAM』が残した功績があるとすれば、ひとつにはそこでミュージシャンや俳優に洋服を着てもらってタイアップを成立させるという手法を開拓したことですかね。

田中:なるほど。

稲田:雑誌が提供できる一番目立つところってバック・カバーじゃないですか。ここからの10ページだったら、広告として一番の特等席。だから、ちゃんとフォーマットを作って売ればビジネスになると思ったんです。毎月やっているとたまにミラクルも起きて、ジャミロクワイが出てくれたこともありました。それもファッションと音楽をクロスオーバーさせる試みでしたね。

田中:それ以外にも思い浮かぶものはありますか?

稲田:もうひとつには、日本のブランドに『EYESCREAM』とのコラボでTシャツを作ってもらって、それをZOZOTOWNで売るというスキームを作ったんです。

田中:まだZOZOTOWNが今みたいにブレイクする前の話ですよね?

稲田:そうですね。『EYESCREAM』の創刊は2004年ですけど、ZOZOTOWNが立ちあがったのも2004年なんですよ。今でこそZOZOTOWNはトップ企業ですけど、当時はまだ勢いのあるベンチャー、なレベルでした。

田中:うん。

稲田:『EYESCREAM』の創刊から3年のタイミングでUNDERCOVER特集をやったんです。そのときにダメ元で訊いてみたんですよね。「特集するんで『EYESCREAM』とのコラボでTシャツを作ってくれませんか? それをZOZOTOWNで売りませんか?」って。そしたらなぜかOKがもらえて。ビジネス的にはそれがブレイク・ポイントになりましたね。

田中:それはかなりヒットした?

稲田:そのTシャツは1万円くらいだったんですけど、1,000枚単位で売れました。ZOZOTOWNにしたら、これまでUNDERCOVERにどれだけアプローチしてもダメだったんですよ。それが『EYESCREAM』の特集をきっかけに、初めてUNDERCOVERを売れることになった。大殊勲だったらしくて、わざわざ「ありがとうございます!」ってお礼に来てくれましたし、広告も打ってくれるようになりました。

田中:ZOZOTOWNにしてみれば、かなりインパクトがあったんだと思いますよ。

稲田:それがきっかけでUNDERCOVERも1、2年後に出店したんですよね。それから雪崩を打つようにいろんなブランドがそういう方向に向かうことになりました。もちろん『EYESCREAM』とのコラボがなくても、何らかのきっかけでそういう流れにはなったとは思うんです。たまたまそれを自分たちが作ることができたんですよね。

田中:裏原の人たちとコネクトしてZOZOTOWNでコラボ・プロダクトを売るということにしても、表4〜10ページのファッション・ページをやるということにしても、それは単純にビジネス的なイノべーションということではなくて、文化的なモチべーションという側面も稲田くんの中にはあったんじゃないかと思うんですけど。

稲田:その背景にある文化的なモチべーションというと、やっぱりクロスオーバーなもの、ジャンルレスなものを作りたいということになりますね。雑誌という入れ物を使って、映画の人、音楽の人とファッションをリンクさせる形で誌面化する。それはずっと意識的にやってきたことで、創刊のときから変わらないですね。

『EYESCREAM』12年間のハイライトはどこか?

田中:『EYESCREAM』12年の歴史の中で、稲田くんがもっとも手応えがあった企画をいくつか教えてもらえますか?

稲田:2009年にNUMBER(N)INEの解散があったんですけど、宮下くんが「稲田くんのところで全部発表したい」と言ってくれて。彼特有だと思うんですけど、ストーン・ローゼズが5年ぶりのアルバムを出すときに、音楽雑誌では一切取材をやらなくて、ホームレスが配る『ビッグ・イシュー』の単独インタビューに答えたんですよね。「あれみたいなもんだよ」って。「あ、うちって『ビッグ・イシュー』なんだ」って(笑)。

田中:(笑)。

稲田:いわゆるファッション誌ではなくて、また違うところで解散を発表するのが面白いと思ってくれて、それで『EYESCREAM』でやることになったんですよね(2009年6月号「ナンバーナインの真実」)。UNDERCOVERで学んだセオリー通り、コラボTシャツも作ってZOZOTOWNで販売しました。

田中:それも凄いことになったんじゃない?

稲田:めちゃくちゃ売れました。1万2600円したんですけど、2000何百枚くらい売れましたね。ZOZOTOWNにしたら大喜びですよ。NUMBER(N)INEは最後まで難攻不落だったらしいんですけど、文字通り最後のプロダクトがZOZOTOWN独占になったので。

田中:そうだよね。

稲田:NUMBER(N)INEの特集では宗さんにも原稿を書いてもらいましたよね。

田中:うん、書かせてもらいました。

稲田:ほかにもいろんな関係者にコメントをもらって。宮下くんのインタビューは、それこそ5万字くらいやったんじゃないですかね。2万字インタビューの記事が作れるような取材を3、4回やったと思います。「まだ話したりない」「なんか上手く話せなかった」というのを繰り返して。

田中:凄いボリュームだったもんね。

稲田:それこそバンドの解散インタビューみたいな感じでしたし、写真もミュージシャンを撮るみたいに撮ったんです。『EYESCREAM』という雑誌がミュージシャンに接するような形で日本のファッション・シーンを捉え直すっていう方法論のピークがそこだったんじゃないですかね。

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左から、「総力特集 アンダーカバー」、「ナンバーナインの真実」、「100人の東京クリエイターズ」、「99人によるコム デ ギャルソン」
Photo: FUZE編集部

田中:それ以外で『EYESCREAM』独自の方法論が特にうまく機能した特集というと?

稲田:創刊100号記念ですかね。藤原ヒロシさんに表紙を飾ってもらったんですけど、藤原ヒロシさんが「#100」って描かれたTシャツをわざわざ自分で作って、着てくれたんです。その号にはその辺のシーンの人を全員入れようと思っていたので、ノブさんと野口強さんの対談、ジョニオさんとスケシンさんの対談、宮下くんと熊谷隆志くんの対談…もうキーパーソンがみんな出てきて。100にちなんで、「100人の東京クリエイターズ」っていう特集で、対談に出てもらった人も含めて100人になるように載せるっていうのをやりました。あれも一連の流れのピークだったかもしれないですね。

田中:なるほど。

稲田:あとは、最後に「99人によるコム デ ギャルソン」っていう特集をやったんです。ファッションのヒエラルキーの中だと、コム デ ギャルソンってトップじゃないですか?

田中:間違いなく。

稲田:川久保玲さんは当然出てこないので、マイナス1ということで「99人」にしたわけですけど。実際にコム デ ギャルソンで仕事をしている人だったり、あるいはファッション業界に限らずコム デ ギャルソンに影響を受けている人だったりをフィーチャーした号を作ったんです。あれを作ったときに、「『EYESCREAM』っていうフォーマットの中ではやり切ったのかな」っていうのがありましたね。

『SNOOZER』のロール・モデルと破天荒過ぎるビジネス・スキーム

田中:それにしても、稲田くんみたいに紆余曲折を経ながら12年間も独立系で雑誌を続けて、新しく開拓した独自のビジネス・スキームと誌面コンセプトを両立してきたケースは、かなりレアですよね?

稲田:そうだと思います。宗さんの『SNOOZER』とは近いんじゃないかと思うんですけど。『SNOOZER』はリトルモアで孫(家邦)さんに予算を出してもらって作って、僕もその方式で『EYESCREAM』を12年間続けた。雑誌を作るときはベンチャーで始めるか、大きな会社で立ちあげのタイミングを待つか、どちらかじゃないですか。

田中:うん。

稲田:僕や宗さんは第三の道だったと思うんです。「自分の作りたい雑誌を作らせてください」って企画を出版社に持ち込んで、作らせてもらったっていう。

田中:そうですね。ただ、『SNOOZER』はちょっと違うんですよ。僕はリトルモアの社員ではなかったんです。月々の決まったギャランティはない。だから、マネージメントに所属していないアーティストとインディ・レーベルの関係と同じ。まず予算を出してもらって、制作費とスタッフのギャランティをその中から引き出す。で、たとえば、この号で2000万円の利益が上がったら、1000万円ずつ折半しましょう。この号で200万円の赤字が出たら、100万ずつ持ち出しましょう、っていう形でやっていたんです。

稲田:えっ、それを会社じゃなく個人でやっていたんですか?

田中:そう。

稲田:よくやってましたね(笑)。

田中:馬鹿だよね(笑)。ただ最初の半年から一年の間は黒字展開できないと思うから、そこだけはお願いしますって。でも実際は、一年経たないうちにイーブンになったんじゃないかな?

稲田:それは凄い。

田中:そこもレーベルと切った張ったしながらも、本当に助けてもらったことが大きいんだと思います。あと、俺はノーギャラだったけど、スタッフも福利厚生はなかったし、薄給だったしね。実際、かなりいい数字を出していた時期も長かったんだけど、最後の2年間は作っても作ってもイーブンだな、という感じだったんです。そしたら、リトルモアから「判型を小さくしたら、一番売れてない号でも600万円の利益が出ますよ」って、先に見積もりまで取られて(笑)。でも、「小さい判型は無理です」と言って辞めたんですよ。

稲田:どうして小さくしたくなかったんですか?

田中:それはもう一つの辞めた理由とも絡んでるんだけど。当時はゼロ年代半ば~後半だったので、海外ではイギリスもアメリカもインディ全盛期。で、勿論、自分たちとしても取り上げたいのは海外のインディ・バンド。でも、海外で売れているインディの権利を持っているのは、大方が日本のメジャー・レーベルではない。まだ欧米最大のインディ・コングロマリットである〈ベガーズ・バンケット〉が日本のメジャーと提携してたときは良かったんだけど。そうこうする内に、海外のインディ・バンドの権利の大半が日本のメジャー以外のレーベルのものになったんです。そうなると、今までのメジャー・レーベルと『SNOOZER』がやっていたような関係では仕事ができなかったんです。

稲田:というのは?

田中:単純に言うと、勝負しないの。ロー・リスク、ロー・リターンなのね。「これ、クオリティから言っても、海外の感じから言っても、これくらいのイニシャルから行けますよ」と言っても、「いや、勝負したくないので」って話になっちゃった。メジャー系が持ってるインディ・バンドにしても、「よくわからないから、日本盤を出しません」みたいなことがひたすら増えていったんですよ。クラクソンズとか、ジェイムス・ブレイクとかは、完全にそのパターン。

稲田:なるほど。

田中:まだファーストアルバムが海外でもリリースされていない頃のクラクソンズをいきなり『SNOOZER』で表紙にしたときがあったんですけど、レーベルは担当者さえ決まってない状態だったのね。彼らとしては「日本盤をリリースする予定はないし、U2ならインタビュー枠も用意できるし、広告も出す用意があるから、表紙にしてくれ」って言われたんだけど、「いや、今とにかくクラクソンズのことを日本に大々的に伝えることのほうが重要だから、とにかく取材をやらせてくれ」って言ってやったりしたんですよ。だから、半分はレーベルの重い腰をあげさせるために表紙を作ったような側面もあるんですよ。でも、そんなの、そもそも雑誌屋の仕事でもないじゃん。

稲田:(笑)。

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田中:ジェイムス・ブレイクとかにしても、「日本盤を出さないのはわかったから、取材だけでもやらせてほしい」って言ったら、「インタビューを受けちゃったら、マネージメントから『メディアからの引きがあるなら、日本盤出せ』って言われちゃうから、勘弁してくれ」って言われたり。

稲田:へー、なるほど。

田中:そういうことが2年ほど続いて、記事を作ること以前の、レーベルに日本盤をリリースしてもらったり、しっかりプロモーションしてくれるように働きかけることが仕事の大半になっちゃって。『クロスビート』とか、『rockin’on』はそういうことやってくれないしさ。日本盤がリリースされるものだけで雑誌作ってりゃ、満足できるんだろうけど。そういう音楽業界の転換期でもあったんですよ。

稲田:なるほど。

田中:で、判型を小さくするとなったときに、唯一のロール・モデルがあったとすれば『ROCKIN'ON JAPAN』なんですけど。『ミュージック・マガジン』みたいな装丁の本は作りたくないじゃない?

稲田:そうですよね。

田中:でも、アーティストは海外にいるわけだから、当時の『ROCKIN'ON JAPAN』みたく写真がたくさん撮れないわけですよ。もちろん『SNOOZER』では、海外のカメラマンをブッキングして撮影してた。メジャーはそれに全面的に協力してくれてた。MGMTの写真をどうしても撮りたいと頼んだら、「すみません、タナソウさん、ロンドンでは無理でした。でも、パリで90分取りました」って言われて、「ありがとう!じゃあ、ロンドンからカメラマンに行ってもらうから」という感じでやれるんですよ。渉外担当の人たちが徹夜で海外と交渉してくれるんです。

稲田:ええ。

田中:でも、それが当時の日本のインディ・レーベルには通じなかった。「アルバムをリリースする半年前から取材や写真撮影をやって、アルバムが出るときまでにバズを作れば、タワーレコードのイニシャルが何倍にもなりますよ」と説得しても、「今の段階でアーティストを動かせません」という話になっちゃう。要するに、記事にしたいアーティストの記事が段々作れなくなってきた。そういうことが起こっていたのが、最後の2年間なんですよ。

稲田:なるほど。

田中:レーベルの洋楽セクションから提供されるアーティスト写真は3点くらいなんです。写真も撮れない。じゃあ、それでどうやってテキストとビジュアルを配置するのか? それまで『SNOOZER』は一号につき200万とか300万のお金をかけて写真を撮っていたのに、判型を小さくしたら写真が足りない。しかも、それをどう配置していいか全然わからない。誰もが見たことのある写真とテキストだらけの本になっちゃう。

稲田:そうなりますね。

田中:となると、もう自分の中にどうしてもイメージが浮かばなかった。しかるべきロール・モデルがなかったんですね。実は『SNOOZER』って、創刊時代の『Dazed & Confused(以下、Dazed)』の判型そのままなんですよ。当時はデヴィッド・カーソンがアート・ディレクターを務めていた『Ray Gun』のデザインが流行っていたんですけど、俺、とにかくそのスタイルが嫌いで。

稲田:あ、嫌いなんだ?

田中:うん。『SNOOZER』と同じ時期に始まった『BUZZ』はーー。

稲田:『Ray Gun』でしたね。

田中:でしょ? 俺はそれを馬鹿にしてて。要するに、当時、大流行したデヴィッド・カーソンのデザインというのは、読まなくていい、コミュニケーションを拒絶するっていうスタイルだったんだけど、『BUZZ』はそれを真似ながらメイン・タイトル、サブ・タイトル、発言引きがあるわけ。もちろん『Ray Gun』には一切そういうものはない。

稲田:うん。

田中:読まなくていいし、アーティストの発言を見出しとしてフォーカスしたりすること自体が反動的なんだ、っていうアイデアだったから。でも、『BUZZ』は見出しがあってデヴィッド・カーソン的なエディトリアル・デザインを真似るっていう語義矛盾そのものみたいなことをやっていた。

稲田:そうか(笑)。

田中:で、『SNOOZER』は完璧に『Dazed』だった。『Dazed』はまだ10代のジェファーソン・ハックが立ちあげて、経済的な部分、読者や業界からの信頼を支えたのは当時イケイケだったフォトグラファーのランキン・ワッデル。キャリアのあるカメラマンと、いい意味で何もわかってない破天荒な10代の子どもが始めた雑誌なんです。

稲田:そうですね。

田中:で、デザインやそういう組織体もそうだったし、ページネーションの中に明確にヒエラルキーを作りますっていう当時の『Dazed』のデザインにもヤラれてて。『Dazed』がなかったら、『SNOOZER』のデザイン的なアイデンティティは絶対に固まらなかったんです。

稲田:へぇー、面白い。

田中:『SNOOZER』の最初は外部デザイナーで、2年目から中島基文くんだったんだけど、創刊当時はみんなデヴィッド・カーソンやりたがるわけ。

稲田:流行りでしたよね。

田中:でも、「それは意味ないから!」って何度も何度も言って。俺がやりたいのは『Dazed』で、『Dazed』のページネーションはこういうことになっていて、それぞれのテキストの役割はこういうことになっているんだ、ということを説明するのに2、3年かかりました。

稲田:なるほど。

田中:でも、判型を小さくするとなると、コミュニケーション自体が変わるじゃないですか。何を大きな文字で置いて、何を小さな文字で置いて、文字組をどうして、写真とテキストの関係をどうするか。今まで6ページで見せていたもの、4ページで見せていたもの、1ページで見せていたもの、そのコミュニケーションが全部変わる。

稲田:うん。

田中:それを何度もシュミレーションして、何度もサムネイルを描いてみたんだけど、どうしてもイメージが湧かなくて。4ヶ月くらい考えたけど、結局、「判型を小さくしても成功するイメージが持てないんですよね」って。部数から言っても、今の『rockin’on』の何倍かはあったと思うんだけど、自分から「辞めます」って言ったんですよ。

稲田:そういうことだったんですね。

田中:ただ、『SNOOZER』は『EYESCREAM』と逆で、休刊号は出るわ、年間6冊で発売日に出る号が一冊もないわ。数字が出て儲かってはいるんだけど、まったく定期刊行ができない雑誌だったの。だから、リトルモアからも「タナソウはわざと遅らせているんじゃないか。自分たちの本が売れてるからって、天狗になってるんじゃないか」って言われたり(笑)。

稲田:(笑)。

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Photo: 宮本徹

田中:もちろんそんなことなくて、精一杯やってたんだよ!(笑)。でも、リトルモアみたいな小さな出版社からすると、『SNOOZER』1冊が発売日に出ないと、大変なことになっちゃうでしょ。

稲田:雑誌コードだったんですか?

田中:うん、雑誌コード。

稲田:凄いことするなあ(笑)。

田中:日本で雑誌コードを持っていて、一年間発売日に出なかったのは『SNOOZER』だけなんじゃないかな。

稲田:そんな自慢気に言われても(笑)。

田中:いや、そんな状態でも、一度も「辞めろ」とは言わなかったリトルモアがすごいってことなんだと思う。

稲田:たしかにそれはすごい。

田中:社長が孫さんじゃなかったら絶対にやれてないし、独立系の出版社だったからこそやれたんだと思うし。営業の担当者も本当にいろんな形で助けてくれたし、彼の努力もあって、なんとか売れてる雑誌でもあったから、取次は嫌々OKを出してくれた。何度も呼び出されて、説教されたけど(笑)。だから、あの雑誌はいろんな意味で例外中の例外だったんですよ。

稲田:なるほどねー。

田中:でも、準備期間から含めると15年間やったんだけど、結局、俺の手元には150万円しか残らなかった。それまでの15年間、『SNOOZER』から俺には一円も入ってないから。

稲田:えっ、どういうことですか?

田中:俺はずっと自分の個人仕事で生計を立てて、『SNOOZER』の利益は全部スタッフとリトルモアに落としていたんです。で、最後に孫さんから、「タナソウ、どうする?」って言われて。「孫さん、100万くらい俺にくれない?」と言ってたら、「わかった、150万出すわ」って(笑)。ちょうどそれで利益がトントンだったんですよ。「お前、15年間やって、ほぼ一銭も残らなかったな」って言われて。「そうですね、よく俺、15年間も生活できてましたね」「だって、お前、儲かってただろ」って(笑)。

稲田:宗さんは15年間、『SNOOZER』以外の収入だけでやっていたということですよね?

田中:うん。クラブ・スヌーザーに年間何万人も集客があった時期もあるしね。毎号オフィスに2週間泊まり込んだりとか、時間はまったくなかったけど、いろんな意味でずっと潤ってたから。だから、とにかく『SNOOZER』の利益は全部制作費にぶち込んでたんです。でも、俺たちの仕事はカルチャーに対する恩返しじゃないですか。すべて読者とアーティスト、レーベルに返したかった。

稲田:凄いなあ。

田中:カッコつけちゃった(笑)。だから、リトルモアと俺との関係で一番近いのは、プロモーターとプロ・ボクサーですね。「お前、最近なんか世の中で人気と信頼があるみたいだから、デカいステージを用意してやる」みたいな。ある意味、ヤクザっぽい関係ですよ。こんなこと言ってると、また孫さんに怒られちゃうけど。

稲田:いや、それはかなり特殊ですね。聞いたことないですよ。

田中:たぶん稲田くんのケースもほかには転用できないレアなケースだと思うんですけど、俺の場合はあまりにも破天荒過ぎて(笑)。

稲田:そうですね(笑)。いや、それは本当に凄いですね。

田中:ただの馬鹿だけどね(笑)。

Image: 宮本徹, FUZE編集部
Source: 音楽と人, ZOZOTOWN, Fashionsnap.com1, 2), Wikipedia

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