今回のFUZE特集は「政治化するエンタテインメント」。2018年のいま、政治に最も影響を与え、人を動かしている勇気づけている、音楽や映画などカルチャーの現在地を掘り下げていくことがテーマになる。
こういう特集なので、人に説明が難しい。大抵、日本人に「政治とエンタテインメントの話」をすると、決まって批判的な反応が返ってくる。忌野清志郎や坂本龍一と反原発のメッセージを出したりすることが指標だったり、フジロックの「音楽に政治を持ち込むな」問題、RADWIMPSの「HINOMARU」、さらには昨今のBTS問題の炎上と謝罪をイメージする人が多いはずだ。
つまり、政権批判や国家批判、反体制、愛国心の話や、デモに参加する写真がイメージとして湧きやすい。アーティストやクリエイターと政治が繋がると、日本ではアクティビスト、活動家と捉えられがちなところが、このトピックの扱いを一層複雑にしてきた。
2010年代、エンタメと政治のコンテクストは大きく変わり進化を遂げた。飛躍的な変化となったのは、アメリカのバラク・オバマ大統領時代のエンタテインメントとの歩み寄りだ。特に、オバマ政権と音楽産業やクリエイティブコミュニティの連携が目指したビジョンは、アメリカ国内だけでなく、世界各地のクリエイターたちから賛同を呼び、彼らの活動やキャリアに、政治への関心を融合することに成功したと言える。
2009年、オバマ大統領がワシントン入りして初めにしたことは、リンカーン記念堂でのフリーコンサートを開催することだった。「We Are One」と称されたこの大統領就任記念コンサートには約40万人が集まったと言われている。
参加者がこれまた豪華だった。ビヨンセ、ジョン・レジェンド、スティービー・ワンダー、ハービー・ハンコック、ジェイミー・フォックス、アッシャー、ガース・ブルックス、シャキーラ、ブルース・スプリングスティーンと、フェスに出ればヘッドライナー級のアーティストが、政治家の元で顔を揃えただけに、音楽カルチャーと新しいこと、斬新なことをしようとするメッセージが込められている。
当時を振り返れば、ポップカルチャーへの歩み寄りは、「政治化するエンタテインメント」ではなく「エンタメ化する政治」で、オバマ大統領の取った政治戦略の一つと誰もが思ったはずだ。
そこから約10年が経過した2018年。世界各地で起きているポップカルチャーと政治の共存は当たり前となった。
「ウォール街を占拠せよ」「ブラックライブズマター」「#Metoo」、トランプ政権誕生など、社会運動や政治的変化を経た2010年代は、わずか10年前には想像できなかった速度で、政治や社会とエンタテインメントはその距離を伸縮させ、均衡を保とうと未来へ前進している。
2010年代に入り、政治がカバーする領域は、グローバル化、ローカル化、多様化を極めた。教育、格差、性差別、人種差別、パワハラ、セクハラ、治安、社会保障、貧困、都市開発、グローバリゼーション。あらゆる領域で社会問題が顕在化し、未来への不安を映すようになった。
さらに、テクノロジーを駆使してより良い社会作りを掲げてきたシリコンバレーやスタートアップたちは、ヘイトコンテンツやフェイクニュース、プロパガンダ、荒らし、フィルターバブルといった、現実社会を混乱に陥れる不安要素を作っただけでなく、トランプ大統領という副産物を残し、その被害の終わりは未だに見えてこない。
そんな時代に求心力を付けたのは、音楽や映像、ファッションといったエンタテインメント業界や、現場レベルのローカルカルチャーシーンにおいて、現実で起きていることに目を向けてきたクリエイターたちだった。
例を挙げればキリがない。音楽好きやドラマ好きが熱狂したケンドリック・ラマーの『To Pimp a Butterfly』やNetflixの『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』、リン=マニュエル・ミランダの『ハミルトン』、ライアン・クーグラーの『ブラックパンサー』は、政治的な意味合いを持つ作品として認識されている。しかし、作品に込められたメッセージの必然性や文化背景への理解の方が、国や政府やシステムを声高に批判する大声よりも遥かに重大であることをわきまえている。
2013年にオバマ大統領の就任式でアメリカ国歌を斉唱したビヨンセは、2018年のコーチェラでブラック・ナショナル・アンセムと呼ばれる「Lift Every Voice and Sing」を歌い文化史をアップデートした。
アメリカ人DJのディプロが率いるグループ、Major Lazerは、1961年から2016年まで50年以上もアメリカと国交断絶していたキューバにいち早く渡り、最初にフリーコンサートを行った。SpotifyもYouTubeもなかったキューバでだ。
2018年にアメリカで行われた中間選挙でも、民主党支持を「カミングアウト」したテイラー・スウィフトや、有権者を投票へと後押ししたトラヴィス・スコットやフランク・オーシャンが、現実を変えるために投票の重要性を訴えた。
ビジネス的にも、カルチャー的にもメインストリームの成功者であるこれらのアーティストたちは、「パンク」や「コンシャス・ラップ」のジャンルが盛り上がった1980年代、1990年代とは明らかに異なるキャリアとアプローチを右往左往しながら、政治にたどり着いている。誰かに計画してもらった道を通ってきたわけではないはずだ。
あらゆる情報が入手可能な現代にもかかわらず、彼らは手探りで現実性のあるテーマや課題と対峙し、問題の本質を探すという作業を続けている。それは、ゼロから一を生み出すために最初の一歩を踏み出す行為でもあるだけに、合理化や忖度で決められる言動よりも遥かに印象深く勇気づけられる。
「政治的」要素を含むエンタテインメントやポップカルチャーを、メディアがどう取り扱うべきか、という問題もある。むしろ、エンタテインメントと政治のテーマやモチーフは議論しない、意見しないというメディアが圧倒的に多いはずだ。
そもそもメディア業界において、政治は向き合わざるをえないトピックであることに間違いない。それはCNNやFOXといった政治メディアに限った話ではない。テクノロジーメディアでも、業界の将来を左右する法規制について向き合わないといけない時代を迎え、ダイバーシティやポリティカル・コレクトネスの観点でテクノロジー企業を語ることも避けては通れないはずだ。こうしたメディアのシフトの中で、新聞やデジタルメディアを問わず、政治的・社会的な問題と隣接するエンタテインメントやポップカルチャーを批評する、解説するという作業は、人が正しい情報や事実を基に、さまざまな論点を問いかける上で重要な活動となってくるはずだ。まさに今、BTS騒動を日本のメディアがどう捉えるか、という複雑性にも絡んでくる問題だ。
つまり、政治とエンタテインメントの関係性は、人を政治や社会的課題に目を向けるパワーも持ちつつ、一方的なバイアスをさらに強めるリスクも孕んでいる。最終的には、個々人と価値を共有するクリエイターや、自分と似たような環境で育ったアーティストが支持されやすい現代の嗜好がここにも現れている。しかし、さまざまなアジェンダを忖度しなければいけなくなった政治家よりも、先鋭された価値共感で連帯するエンタテインメントに、個人がアイデンティティを見出すのは必然的と言える。あるいは、ポスト・トゥルース時代の答えが、政治化するエンタテインメントなのかもしれない。
今回アメリカの中間選挙で、テイラー・スウィフトやトラヴィス・スコットが後押しした民主党候補のPhil BredesenとBeto O’Rourkeはいずれも共和党候補には勝てなかったという皮肉な結果となった。これが限界という声をあげる人やメディアもあるが、今までと政治との関係性が変わったことは事実として残り、進化していくはずだ。
今回の特集では、政権や国歌の話は出てこない。クリエイターと政治家との間に優越を付けたいわけでもない。エンタテインメントやポップカルチャーと情報社会または社会的モチーフの関係性を探り、世の中を動かす原動力を再評価したいと考えた。もしくは現代では、ただ消費されるばかりの政治やエンタメしか必要とされていないのだろうか?
目的と価値消失
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