ここ数年、「ブラック・コミュニティ発の表現」はより力強さと輝きを増している。ケンドリック・ラマーを例に挙げるまでもなく、音楽の世界でラップ・ミュージックがメインストリームの覇権を握るようになったのは象徴的な出来事のひとつだが、「ドラマや映画といった映像表現の世界」においても、その隆盛は目を見張るばかりだ。ドナルド・グローバーが主演/脚本を務めた『アトランタ』、音楽業界を舞台に現代のブラック・コミュニティの問題を炙り出した『Empire 成功の代償』、ブラック・カルチャー発の新たな女性ドラマ『インセキュア』など、重要作は枚挙に暇がない。
おそらくこの隆盛は、2014年に米ミズーリ州で丸腰の黒人が白人警官に射殺された所謂ファーガソン事件などを契機に、全米で活発化したブラック・ライヴス・マター(黒人の命も重要)運動とも無関係ではないだろう。根深い人種差別、そして分断と抑圧が改めて浮き彫りになった時、表現は何をするべきなのか? あるいは、そういった問題に直面した時、ブラック・コミュニティの内部では何が起こるのか? という問題意識は、優れたアート作品の駆動力のひとつになっているに違いない。
そんな中、数々の記録を塗り替え、歴史的な大成功を収めているマーベルの新作映画『ブラックパンサー』は、近年のブラック・コミュニティ発の表現を考える上で極めて重要な作品だ。マーベル映画史上、初めて黒人のスーパー・ヒーローを主役に据えた本作は、アメリカで公開初週に興行成績が2億ドルを超えた史上5本目の作品。もちろん非白人監督の作品では過去最高の成績だ。この事実は、白人にターゲットを絞らないとヒットしないという既成概念を打ち破ったことになる。まさに『ブラックパンサー』はエポックメイキングなのだ。ただ、詳しくは以下の対話に譲るが、その内容も近年のブラック・コミュニティ発の表現の「集大成」であると同時に、「良くも悪くも最大公約数的な作品」と言えるかもしれない。
そして、当然ながら、ブラック・コミュニティをテーマにした映画/ドラマには長い歴史がある。70年代前半のアフリカ系アメリカ人をターゲットにしたブラックスプロイテーション映画、90年代前半のスパイク・リーやジョン・シングルトンやフューズ兄弟といった黒人監督のブレイク――それらを踏まえた上で、現在のブラック・コミュニティ発の表現はどのように変わったのか? 『ブラックパンサー』という象徴的な作品が登場した今だからこそ、それを改めて振り返り、位置づけておくことは意義があるだろう。
そこで我々は、ポップ・カルチャーの突端を追い続ける映画/音楽評論家の宇野維正、ブラック・カルチャーに精通する小林雅明、磯部涼、渡辺志保、そして、この記事の企画立案者でもあるザ・サイン・マガジンの田中宗一郎の5名を迎え、近年のブラック・コミュニティ発の表現を巡って座談会をおこなった。
ジリ貧だったマーベルを救った『ブラックパンサー』
磯部涼(以下、磯部):今回は僕が司会進行を務めますが、ブラック・コミュニティとドラマというテーマについて考えるにあたって、やはり、『ブラックパンサー』の話から始めたいと思います。
田中宗一郎(以下、田中):記事を企画した僕もパネラー兼、司会補佐という形で進行にも関わらせていただきます。
磯部涼:この座談会の収録時点で北米興行収入ランキング3週連続首位。マーベル映画の歴代1位に迫る勢いであると共に、今までにないブラック・スーパーヒーロー映画として社会現象を巻き起こしています。まずは、皆さんが『ブラックパンサー』という映画をどのように観たのか聞かせて下さい。
渡辺志保(以下、渡辺):私はマーベル作品やヒーローものをあまり熱心に追いかけていないんですけど、そんな私でも映画として楽しめる作品だったと思います。それと、ブラック・ヒーローがあれだけフォーカスされて、メイン・キャラクターとしてスクリーンの中で動き回るっていう、その画に新しい風を感じました。
宇野維正(以下、宇野):確かに、今回はあまりマーベルに詳しくない人でも入り込める作りになっていますよね。最近、特にマーベルは単独ヒーロー作品でも他のヒーローを登場させて全体の流れに繋いでいくような作り方が多い中、ほぼ完全に独立した映画として作られている。その結果、マーベルの固定ファン以外への入り口としても機能する作品になってます。で、この映画は3つの側面がある作品で。
田中:具体的に教えて下さい。
宇野:1つは、2016年の『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』以降、フェーズ3と呼ばれる段階に入っているマーベル映画全体にとっての『ブラックパンサー』の意義。2つ目は、ブラック・カルチャー全体の歴史、現在の中でこの作品をどう位置付けるのか。そして、3つ目は純粋に単体の映画としての作品評価ですね。
田中:まず、映画としての作品評価はいかがですか?
宇野:最初から水を差すようで申し訳ないんだけど、3つ目の映画としての到達点は、自分はあまり高いとは思ってないんですよ。ライアン・クーグラーの1作目『フルートベール駅で』(2013年)は、2014年のファーガソン事件より前に、白人警官による黒人青年への暴行事件を題材にしていて。確かにそこで描かれている事実はショッキングであり、また結果的にニュース性の高いものだったわけですけど、映画としては実録ドラマの枠を出るものではなかった。
宇野:続く『クリード チャンプを継ぐ男』(2015年)では、『ロッキー』の続編を黒人青年を主人公にして語るという相当トリッキーなことを成功させたわけですけど、そこでも感心したのは監督としてというより脚本家としてでした。「あ、エンターテインメント作品の物語作家としての実力はあるんだ」という印象。
宇野:例えば最近の黒人監督の作品でいうなら、『ゲット・アウト』(2017年)のジョーダン・ピールや『ムーンライト』(2016年)のバリー・ジェンキンスのような「新しい才能が現れた」という興奮はなかったんです。
磯部:ライアン・クーグラーを映画監督として評価出来ないポイントというのは、具体的にはどこにあるんでしょうか?
宇野:単純に、マーベル作品の中だけでも、かつてのエース監督であるジョン・ファブローや現在のエース監督であるルッソ兄弟の作品と比べて、印象に残るようなショットが撮れていない。
田中:なるほど。
宇野:アクション・シーンは教科書通りで新鮮さがないし、アフロ・フューチャーリズム的なワカンダの風景は一見新鮮だけど、画面の中ではとても書き割り的。ワカンダのラボの真っ白なデザインや、クライマックスの対決の舞台となるリニアモーターカーの線路の真っ黒なビジュアルも、背景としてアイデア不足だと思いました。映画監督にとって大切な資質である、空間のデザイン能力が全体的に低いんですよね。それが一番顕著に出てるのが通常の会話シーンで、そのほとんどが退屈なバストショットの切り返しばかりで、喋ってないキャラクターは突っ立ってるだけ。物語をテンポよく語ることには成功しているんだけど、すべてが物語に奉仕していて、映画的快楽、つまり動いている人やモノを見る快楽がないんです。
田中:映画ファンとしても、マーベル映画好きとしても、それには同意します。
宇野:でも、そんな『ブラックパンサー』の物語に奉仕した作りというのは、ある意味、今のドラマ的な作りとも言える。ドラマ視聴に慣れている現代の観客にフィットしたことも、『ブラックパンサー』はこれだけ大きなヒットになった理由の一つかもしれない。
磯部:映画としてのダイナミズムには欠けるところがあるけれど、だからこそ今っぽいかもしれない。
宇野:そう。それに、先ほど挙げた1つ目のポイント――マーベルにおける『ブラックパンサー』の意義という面では、間違いなくエポックメイキングな作品になった。実はこの2年くらい、マーベルってジリ貧だったんですよ。
田中:一時期に比べると、興行的にも内容的にも右肩下がりだった、と。
宇野:まあ、同じくアメコミから派生したDC映画はもっと前からジリ貧で。『ワンダーウーマン』(2017年)で一瞬盛り返したんですけど、その次の『ジャスティス・リーグ』(2017年)でまた元の木阿弥になってしまった(苦笑)。ライヴァルのマーベルからわざわざつれてきたジョス・ウェドンまで、つい最近、『バットガール』の準備中に逃げ出しちゃった。ここ数年、DCは他にも多数の有名監督に声を掛けているけれど、みんなDC作品を撮りたがらないんですよ。
田中:DC映画についてはまさにおっしゃる通りの惨状ですよね。
宇野:それに比べて、マーベル作品は一定のクオリティを保ってはいるんだけど、興行的にジリ貧であることには変わりなかった。『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』(2015年)くらいまでが全盛期で、それ以降の作品はわりと苦戦している。昔からマーベルで最も人気の高いスパイダーマンの新作であることに加えて、アイアンマンまでメインロールで登場させた『スパイダーマン:ホームカミング』(2017年)っていう鉄板企画さえ、そんなに当たらなかった。作品は面白かったんですけどね。
磯部:何故、そんなことになってしまったんでしょうか?
宇野:よく言われているのは、アメコミ作品が観客に飽きられてきたのと、これはアメコミ作品に限らないですけど、観客の続編疲れですね。公開2週目の下落率が異常に高くなってきているのが、ファンしか観てない証拠です。でも、DCでは『ワンダーウーマン』が、マーベルでは『ブラックパンサー』がそれをひっくり返してみせた。
田中:興行的にも快挙だったわけですね。
宇野:『ワンダーウーマン』は女性が主人公で、『ブラックパンサー』は黒人が主人公。それって政治的な配慮という以上に、マーケティング的なチャンスがそこにあったということなんですよ。特に『ブラックパンサー』は、それをとんでもない規模で証明した。
磯部:なるほど。背景にはブラック・ライヴス・マターに象徴される新しい公民権運動やポリティカル・コレクトネスの盛り上がりもあるのでしょうけれど、それはアメリカで〝マイノリティ〟の人口と発言力が増したこととも関係しているわけですし、それに対応する形でこのような映画をマーケットが求めたのだと。これまで、スーパー・ヒーロー映画は白人の子供向けにつくらないと当たらないと言われていたのが、『ブラックパンサー』が必ずしもそうではないと証明した、という話もありますよね。
田中:本作品の大成功には、アメリカ国内における民族分布の変化、そして、社会意識の変化の両方が背景にあるということですよね。
宇野:そういう意味では、ライアン・クーグラーは優秀だと思います。今語るべき物語を語って、それを上手くまとめている。『ブラックパンサー』は最初の編集で4時間以上あったらしいんですけど、最終的には2時間20分に破綻なく収めてますしね。
磯部:ただし、映画としての快楽は、他のマーベル映画と較べて劣っているという見解ですね。
宇野:それは指摘しておきたいですね。で、先ほど挙げた2つ目のポイント――『ブラックパンサー』のブラック・カルチャーの歴史、現在における意義については、おそらくこれから議題に上ってくると思うので、そこで皆さんと議論したいと思います。
「ブラック・ライヴス・マター以降の世界」で、『ブラックパンサー』はどんなメッセージを発しようとしたのか?
磯部:では、小林さんは『ブラックパンサー』という映画をどのように観たのでしょうか?
小林雅明(以下、小林):正直に言って、この映画はすごく新しいものを見たな、という印象ではなかったです。『ブラックパンサー』の原作コミックは1966年に描かれていますが、あまり手を加えないでも今の時代に有効なんだな、ということに複雑な思いがありましたね。
田中:50年以上も経っても少しも社会は良くなっていないのか、ということですね。
小林:この映画では、1966年あたりの段階と比べて具体的に原作のどこが新しくなったのか、細かいところまでは把握していないんですけれど。実際、70年代前半までのブラックスプロイテーション映画との関連で語ることも出来る作品だと思います。
田中:小林さん、そこをより具体的にお話していただければ。
小林:例えば、ブラックスプロイテーション映画に、ハービー・ハンコックが音楽をやっている『ザ・スプーク・フー・サット・バイ・ザ・ドア』(1973年)というのがありますよね。スプークには、黒人の他に、スパイという意味もあります。そこでは、厳しい訓練や監視を経て、黒人で初めてCIAに採用された男が、役職名は立派なのに、実際は、ただのコピー係という理不尽な状況に置かれ、「こんなの、おかしい」とシカゴのゲットーに帰って、反白人の革命ゲリラを作るという話です。
小林:『ブラックパンサー』には、ティ・チャラとキルモンガーという主人公とヴィランが登場しますけど、どっちの映画の二人もマーティ・ルーサー・キング・ジュニアとマルコム・Xに置き換えられると思います。で、黒人コミュニティの中に二大巨頭がいると、キルモンガーのように「武器を持って権力に立ち向かえ」というのが出てくる一方で、ティ・チャラのように「いや、それは考えた方がいい」というのが出てくる。でも、それは70年代のブラックスプロイテーション映画の時代からあった話で、今はその解釈をどのように変えていくのか、という問題になっているんだと感じました。
田中:なるほど。
小林:これから公開される『私はあなたのニグロではない』(2016)というドキュメンタリー映画史上最も興行的に成功した映画でも、ジェイムズ・ボールドウィンの未完原稿を通じて、70年中盤ごろの彼なりのマルコムとキングの見方が披歴されます。
小林:ちなみに、この1973年の映画(『ザ・スプーク・フー・サット・バイ・ザ・ドア』)では、ティ・チャラにあたる人物が死に、キルモンガーにあたる主人公が勝利し、予定通り“革命”を進めてゆく場面で終わります。
磯部:ブラック・コミュニティの内部でもブラック・ナショナリズムに対する考え方というか、強硬派であるべきなのか、穏健派であるべきなのか、という議論が延々と繰り返されてきたわけですよね。それを『ブラックパンサー』でもなぞっている。
小林:そういうことです。
磯部:一方で、映画ではブラックパンサー=ティ・チャラの「賢者は橋を作り、愚者は壁をつくる」というセリフがありますが、普遍的な議論を現代的にアップデートするという観点から言えば、これはやはりトランプ以降を連想させます。
田中:この映画にトランプ政権誕生以降の問題意識があるのは間違いないと思います。
磯部:ちなみに、ティ・チャラが王になるワカンダという国の政策はトランプが志向していたようなアンチ・グローバリズムでしたよね。対してヴィランのキルモンガーは戦闘的なグローバリズムを打ち出して倒される。ただ、その後、ティ・チャラも平和的なグローバリズムへ向かって行く。政治的なメッセージとしては中庸という感じもします。
田中:政治的なメッセージとして中庸というのは、まさにその通りで。ただそれは、ディズニー資本のブロックバスター映画としての役割に意識的だったということなんじゃないか。それと、映画『ブラックパンサー』という映画は二世代に渡る物語だということがとても重要だと思うんですね。クーグラーのフィルモグラフィを考えても「世代間の違い」を描くことには彼はすごく意識的だったはずで。ブラックパンサーとその父親、父親の弟、その息子、かつてはアメリカにスパイとして潜伏していた長老――その5人を、ここ数十年における様々なブラックの立場に振り分けることで、それを俯瞰する視点を観客に提示している。いろんなキャラクターの立場や役割意識、考え方の違いを際立たせることで、今だけではなく「歴史の変遷」を描こうとした。そこがとても重要だと思います。
宇野:今回の作品でよく言われているのは「マーベル史上もっとも魅力的なヴィラン」が登場するということですよね。
田中:多くの観客がもっとも共感出来るのはむしろキルモンガーですよね?
宇野:だから、ヴィランであるキルモンガーに観客の一定数が共感するというのは織り込み済みで、そこが他のマーベル映画と違うところ。マーベル作品はこれまで敵役のための敵役、いわばマクガフィンとしての敵役が多かった。でも、キルモンガーはただの敵役ではなく、主人公の鏡として機能している。物語の冒頭も、子供時代のキルモンガーに父親のウンジョブがワカンダの歴史を語るところから始まりますしね。つまり、これはキルモンガーの物語でもあるんですよ。
田中:特定の立場のメッセージを前景化させ過ぎないことには、映画冒頭からすごく意識的で。最初の舞台はオークランドですよね。それはクーグラーの生誕地でもあるし、60年代にブラックパンサー党が生まれた場所でもある。と同時に、LA暴動前後の92年という設定なんですよね。
渡辺:そうですね。
磯部:オークランドにあるウンジョブの部屋には、パブリック・エネミーのポスターが貼ってありましたね。
田中:まさにアメリカ西海岸における92年当時のムードを反映させている。しかも、部屋の後ろの壁にはブラックパンサー党の創立者であるヒューイ・P・ニュートンの写真も貼ってあった。でも、キャラクターの動きで隠すようにして、わざとその写真全体が見えないよう撮ってるんですよ。そういった細かい演出も全部意識的だと思うんですよね。
磯部:物語ではブラックパンサー党を連想させるキルモンガーがヴィランで、結果的に倒されるわけですが、かといってブラックパンサー党を否定しているようには受け取られないようにした。
田中:そうです。かといって逆に、それを全肯定するような態度も避けた。そういう意味ではまさに優等生的というか、中庸なんですけど。
磯部:先ほど言っていた、クーグラーのフィルモグラフィとの関連についても、もう少し詳しく説明してください。
田中:『ブラックパンサー』という映画は世代間での考え方の違いをすごく丹念に描いていると思うんです。そう考えた時、クーグラーが『クリード』を撮った監督だというのはとても腑に落ちるんですね。
宇野:あれも二世の話ですもんね。
田中:遡ると、70年代というのは貧しいイタリア系移民二世の物語がたくさん作られた時代で。『ロッキー』がまさにそうだし、『ゴッドファーザー』もそう。音楽の世界でもブルース・スプリングスティーンという70年代最強のロック・スターが、貧しいイタリア系移民の二世、三世の物語を歌うことで大人気を博した。例えば、彼の場合、クリント・イーストウッドが『ジャージー・ボーイズ』で映画にしたフランキー・ヴァリー&ザ・フォー・シーズンズの曲を引用した曲を書いたり、映画の中のアル・パチーノとまったく同じ格好をしたり、自分と同じイタリア系移民たちの文化的な引用を意識的に取り込んでいたわけです。
宇野:そうですね。
田中:で、『クリード』は70年代育ちのイタリア系移民とミレニアル世代のブラックという異なる人種、異なる世代での「継承」を描いた作品なんですね。例えば、マイケル・マンが撮った映画『アリ』の中で、公民権運動世代でムスリムに改宗したモハメド・アリと、解放奴隷世代で敬虔なクリスチャンである彼の父親との確執が描かれたりするじゃないですか。『クリード』では更にその下のミレニアル世代が以前に比べれば裕福になったものの、いまだ不平等な世界においてどんな風に世界と対峙しているのか? 以前の世代とはどんな風に違った考え方をしているのか? を描いていた。
田中:今回のキルモンガーも『クリード』の主人公ドニーもマイケル・B・ジョーダンが演じていて。『クリード』での彼は、孤児ではあったけれど、ちゃんとした母親に引き取られて、白人社会に同化できるような教育を受けていた。でも、敢えてそれを捨てて、ボクサーになる。つまり、一度エスタブリッシュされた世代のブラックが白人が支配する社会の中に入っていくのが是か非か、ということがテーマに入れ込まれている。『Empire/エンパイア 成功の代償』(2015年~)とも近い問題意識ですよね。
渡辺:そうですね。
田中:つまり、クーグラーはこの二作品で、より多様化した現在の黒人コミュニティを描こうとした。裕福な者もいれば貧しい者もいる。世代間でも考え方が違う。そして、コミュニティの多様化は、その内部での衝突や分断の可能性を意味するものでもある。それこそが『ブラックパンサー』の問題意識のひとつだと思うんですよ。すごく象徴的なのは、キルモンガーとの戦闘シーンの最中にブラックパンサーの口から「分割統治」というセリフが出てくること。虐げられた人々の地位を向上することは何よりも大切ですが、この途中段階でもし仮にコミュニティが分断してしまったら虐げる側の思う壺になってしまう。だからこそ、マルコムXとキング牧師との対立軸という歴史を踏まえた上で、コミュニティ内の繋がりを緩やかな形で担保することの重要性ーーこの作品における一番の問題意識はそこだと思います。だからこそ、世代間での違いをしっかりと描いたんじゃないか。
小林:とすれば、ウンベルト・エーコ的に言うと、まさにアメコミの形式に当てはまりますね。世代が変わっても同じ物語がゼロから繰り返されていくのが、アメコミの世界ということになっていますから。だからこそ、『ブラックパンサー』が成功したのかな、とも考えられます。
なぜライアン・クーグラーが『ブラックパンサー』の監督に抜擢されたのか?
渡辺:そもそもの話になってしまいますけど、私がお伺いしたいのは、なぜ『ブラックパンサー』にライアン・クーグラー監督が抜擢されたのか? ということなんです。映画として、ザ・ハリウッド、ザ・マーベル的なものを作りたかったら、必ずしもライアン・クーグラーでなくてもよかったと思うんですよ。
宇野:マーベルとDCの対比で言うと、DCは名のある監督に声をかけてよく失敗してますけど、マーベルはテレビでしか実績のないような若手監督を抜擢してきた流れがあるんです。マーベルというか、最近のディズニー全体の傾向です。
渡辺:そうなんですね。
宇野:『クリード』の時、ライアン・クーグラーは『ロッキー』でライヴァル役だったアポロの息子の話を撮りたいと、スタローンに直談判しに行ったんですよ。スタローンは全然乗り気じゃなかったのに、脚本を持っていて、説得に成功した。そういうやり手のところがあるんですね。
渡辺:ええ。
宇野:で、それで作られた『クリード』は、みんなが予想していたよりも全然面白かった。それで、「この人、娯楽映画を撮れるんだ」という認識になったんですよ。そのタイミングで『ブラックパンサー』の企画があったから、フレッシュで、娯楽映画が撮れて、黒人で、っていうことでライアン・クーグラーに白羽の矢が立った。だから、抜擢ではあったけれども、発表当時からみんなその人選には盛り上がってました。
渡辺:なるほど。
宇野:ライアン・クーグラーの抜擢に関して一番重要なポイントは、女性が主人公の映画は女性監督が撮って、黒人が主人公の映画は黒人監督が撮るっていう風に、ここ数年でアメリカが変わってきたのを象徴していることですよね。
渡辺:まさにそうだと思います。
宇野:『ワンダーウーマン』は女性監督が女性の主人公で撮った作品ですけど、その前にも『スーパーガール』(2015年~)とか『キャットウーマン』(2004年)とか、女性ヒーロー映画は幾つもあったんですよ。黒人ヒーロー映画も『ブレイド』(1998年~)シリーズがあった。でも、全部男性の黒人ではない監督が撮ってた。日本で少女コミックの映画を50代のおっさんが撮っているのと同じようなもので。
田中:外側からの視点だったんですよね。
磯部:それが、近年は当事者性を重視するようになった。
宇野:そうです。そういうごく当たり前のことが、これだけビッグバジェットの作品でも行われるようになった。それは大きなポイントだと思います。
今の時代における当事者性の重要さと、その意味合いの変化
宇野:今日はブラック・カルチャーに詳しい皆さんが集まっているので、伺いたかったことがあるんです。
田中:どうぞ。
宇野:さっきは、女性監督が女性の主人公を撮り出したことと、黒人監督が黒人の主人公を撮り出したことを並べて話したんですけど、実は黒人監督が黒人の主人公を撮るムーヴメントは80年代後半から90年代前半に存在して、商業的にも成功していましたよね。『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989年、スパイク・リー監督)とか、ジョン・シングルトンの『ボーイズ'ン・ザ・フッド』(1991年)とか、フューズ兄弟の『メナース・ソサエティ』(1993年)とか。僕も学生時代に夢中で観てました。
宇野:でも、結局、それは一度ポシャってしまった。最近、またブラック・コミュニティをテーマにした作品が盛り上がりを見せる中で、かつてと同じ轍を踏まないためにはどうすればいいのか? っていうのは気になるところなんですね。
渡辺:私もそれは感じていて。ジョン・シングルトン監督がFXで『スノーフォール』(2017年)というドラマを作っているんですね。あのジョン・シングルトンが、ロング・ビーチを舞台にして、少年がコカインを売りさばく話を撮っているっていう。
宇野:『ボーイズ'ン・ザ・フッド』ナウ、みたいな感じですね。
渡辺:そうなんです。めっちゃ期待してたんですけど、私は一話だけ見て、あんまり面白くないな、と思っちゃったんですよ。
渡辺:スパイク・リーも自分のリブート作品である『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』(オリジナルは1986年、リブートは2017年)を作っていますよね。あれも面白いけど、何か違う。イッサ・レイが『インセキュア』(2016年)を書くテンションとは全然違うんですよ。
田中:その理由はどこにあると思いますか?
渡辺:考えられることは二つあると思います。一つは、かつて『ドゥ・ザ・ライト・シング』や『トレーニングデイ』(2001年)、『ボーイズ'ン・ザ・フッド』で描かれていたようなものは、たぶん、今は黒人以外のオーディエンスにとって共感しにくいっていうこと。でも、今は黒人以外の人たちの共感も得てビッグ・ヒットになっていくので。〈IndieWire〉というサイトが、〈ニールセン〉が発表したドラマ視聴者の黒人と非黒人の割合のリストを発表しているんですね。それを見ると、『エンパイア』の視聴者は黒人の比率が高いんですけど、『アトランタ』(2016年~)は五分五分、『インセキュア』は白人の方が多いんです。
田中:なるほど。それは表現の受容というポイントにおいて重要なお話ですね。
渡辺:もう一つは、さっき宇野さんが仰っていたように、自分で自分を描いてなんぼ、っていうのが今の主流なのかなということ。それがマイノリティのコミュニティにとって、ひとつの有効な手法になっているのは間違いなくあると思います。
磯部:もしくは、最早、「黒人」というアイデンティティだけでは全ての「黒人」を包摂できないとも言えるのかもしれませんね。セクシュアル・マイノリティの区分が象徴的ですが、昔はひと括りにされていたものが当事者性によって細分化されていく傾向はあると思います。究極の当事者性は「自分」しかない。
田中:そちらも重要な指摘ですね。
宇野:ちゃんと当事者性のあるものがウケてるっていうのは、確かにあると思います。実際、アメリカではNetflixの『ゲットダウン』(2016~2017年)がすぐに打ち切られちゃったわけでしょ?
渡辺:シーズン1はエキサイティングでしたが、バズ・ラーマンが描くブロンクスとか、あんまりってことだったんでしょうか……。
田中:(笑)。
渡辺:いや、あなたは『華麗なるギャツビー』(2013年)でお願いします、みたいな(笑)。
宇野:『ゲットダウン』の冷遇のされ方は凄かったですもんね。始まる前はそれなりに期待されてたのに。観ればそこそこ面白いんですけど。
田中:僕もエピソード1の前半は個人的にも大好きなんですけど、ただ、『ゲットダウン』って、白人から見たノスタルジーというか、美しいファンタジーだという側面もあると思います。当事者性という点からすると、ドナルド・グローバーが主演/脚本を務めた『アトランタ』に登場する、ブラック・カルチャーに憧れる白人の視点だと言えなくもないという。非常に難しい問題ですが。
宇野:ちゃんと題材にリスペクトは込めていましたけどね。
磯部:史実に忠実でしたよね。新たに解釈を加える場合も、70年代のニューヨークでヒップホップ・カルチャーと並行してあったアンダーグラウンド・ディスコとの邂逅を描くことで、いまラップ・ミュージックの世界で起こっているホモフォビアを乗り越える動きとリンクさせてみたり、挑戦的でしたし。ラップ・スタイルの時代考証が微妙に間違っているとかはありましたけど。でも、そんな話で盛り上がるのは年寄りばかりだから、結局、打ち切りになってしまったのかもしれない……。世代における当事者性の問題。
田中:世代的な話をするなら、特にパンクとの関わりをもっとしっかり描いてくれることを楽しみにしていたんだけど。
渡辺:『アトランタ』では、最初はFXの人がドナルド・グローバーに「絶対にNワードは使うな」って言ったらしいんですよ。白人が嫌がるから。でも、ドナルド・グローバーは「いや、俺らの生活を描くのにNワードを使わないなんて、ありえない!」って言って、Nワードを多用したんですよね。それが全てではないですけど、そういう風に彼らのリアルを描いたことがヒットにつながったんじゃないか、と言われています。
磯部:『アトランタ』のNワードで印象的だったのは、アジア系なのか黒人なのか微妙なルックスの人がNワードをめちゃくちゃ使って、みんなが「ん?」ってなるっていう。「お前……黒人?」みたいな。
田中:あの辺りの描写って本当に大切ですよね。あのニュアンスって、正直、コミュニティの外側の人間にはわからないと思うんですよ。特に、ブラック・カルチャーや海外のカルチャーに特に興味のない日本人にとっては。だからこそ、悲しいかな、繰り返しそこを描いていく必要がある。しかも、『アトランタ』の場合、それを笑いに落とし込んでる。そこが見事ですよね。
磯部:小林さんはこのあたりの問題について、どう考えていますか?
小林:まあ、ジョン・シングルトンはドラマを描くっていう技を持っている人で、『ボーイズ'ン・ザ・フッド』は別に彼自身の話ではなかったし、その必要もなかった。スパイク・リーも、いわゆる黒人映画じゃない、イタリアの戦争の話でいい映画を撮ってたりするんですよ。むしろ、そういう方が本当は得意なんです。それを周りが「黒人代表!」みたいに持ち上げちゃうのがよくないのかな、とも思いますね。
磯部:「黒人は黒人のことを描け」と、当事者性を押し付けるパターン。
宇野:スパイク・リーのフィルモグラフィも混沌としていますからね。ジョン・シングルトンやデヴィッド・エアーもそうですけど、自らそういうイメージから離れていこうとしているところはあると思います。
小林:ええ。
宇野:ジョン・シングルトンは『ワイルド・スピードX2』(2003年)を撮った監督でもありますよね。『ワイルド・スピードX2』は白人以外の出演者も多い映画ですけど、そうやってわりと早い段階から職業監督的な仕事にシフトしている。で、『ストレイト・アウタ・コンプトン』の監督を務めたF・ゲイリー・グレイも、『ワイルド・スピード ICE BREAK』(2017年)を撮っているんですよ。だから、映画監督のキャリアの積み方として、あんまりそこに引っ張られないやり方というのもあるんだろうな、という気はしますよね。
小林:そう思います。
宇野:そう考えると、ライアン・クーグラーは31歳で、「若いのにすごい!」って言われていますけど、逆に言うと31歳だから作れたわけで。50歳になった時のライアン・クーグラーにニーズがなくなっている可能性はある。当事者でなくなった瞬間、あたかもラッパーの世代交代のように、入れ替わっていくようなことが起こるかもしれない。
『ブラックパンサー』はアフリカの「当事者」にどう映ったのか?
磯部:当事者性の問題についての話が続いていますが、その点、『ブラックパンサー』は「主語」が大きいですよね。先ほどタナソウさんが指摘したように、細分化された当事者性のどれかひとつに加担するものではない。
宇野:そうですね。キルモンガーが王になったまま終わってしまったら、観る人を限定しちゃいますから(笑)。
磯部:では、『ブラックパンサー』における当事者性の問題について皆さんがどう考えているのか、もう少し詳しく聞かせてください。
渡辺:私、この映画を二回目に観に行った時、アフリカン・アメリカンの男の子と一緒だったんですよ。「僕はアフリカ人ではないが、アメリカ人だ。だが、アフリカン・アメリカンだ」と前置きして、「俺は善悪がハッキリしていてポジティヴな映画だと思ったけど、アフリカの人が見たらどう思うかな?」っていうことで。
磯部:オリエンタリズムなんじゃないか、ということですね。
田中:こちらもとても重要な指摘ですね。
渡辺:搾取があるし、あれはコロニズムみたいなものも描いているじゃないですか。私は「アメリカの黒人はどう見たか?」という点にフォーカスしてしまいがちなんですけど、「ワカンダのモデルになったようなコミュニティの人たちはどう見たのか?」っていうのは、気になるところではあります。国連会議のシーンでも、「お前たちのような貧しい国が、何を世界とシェアしようっていうんだ?」っていう風に、下に見られていることがハッキリと描かれていましたし。アクセントの問題もありますよね。
小林:あのアクセントは完全にわざとですよね。
磯部:あれはいろいろな土地の訛りを混ぜてつくった、架空のアクセントだっていう話でしたよね。
田中:渡辺さんが提起されたのは、当事者性の問題であると同時に、アフリカというルーツから切り離されてしまったアフロ・アメリカン、彼らとアフリカとの距離や関係という問題ですよね。その辺りの、本作品での描き方というのは、どういう風に思われますか?
磯部:テクノロジーと結び付けているのは現代的な描き方だと思いました。一方で、ヒップホップ・カルチャーではそれこそアフリカ・バンバータの時代から脈々と、「アフリカ」がインスピレーションの源だったわけです。ただ、タリブ・クウェリやブラック・ソート、ジェルー・ザ・ダマジャ等が南アフリカへ、アメリカにおける黒人の闘争の歴史を伝えに行ったところ、上から目線だと反感を買ったというエピソードもあります。
小林:むしろこの十数年間は、50セントがアフリカに行くと、みんな大騒ぎ、みたいな時代でしたよね。そっちの方が強かった。
磯部:ラップ・ミュージックのグローバリズムが浸透して、アフリカの方がアメリカナイズされているわけですよね。だからこそ、『ブラックパンサー』が東アフリカの人たち、つまり「当事者」の人たちにどう見られたのか? というのは気になります。
宇野:アフリカの話で言うと、町山智浩さんが仰っていたことですが、例えば今のナイジェリアって人口が2億人くらいいて、GDPも世界の20位に入るか入らないかってくらい急速に発展してるんですよね。だから、ワカンダの設定がそれほどズレていない。ナイジェリアのラゴスとか南アフリカのヨハネスブルグには高層ビル街も普通にあるわけですし。ヴィブラニウムという鉱石をダイヤモンドのメタファーとして考えるのならば、もしアフリカが搾取されていなかったらあり得た話、と考えることも出来るんですよね。
田中:マーベル映画は設定の中でいくつものアナロジーを使うんですよね。ヴィブラニウムはダイヤモンドのメタファーであると同時に、ワカンダがアメリカのメタファー、ヴィブラニウムが核兵器のメタファーだと解釈出来るようにも作られている。二重三重にメタファーやアナロジーが張り巡らされていて、一方の視点からだけではなかなか判断できないところもある。というか、それをわざとやっているんですよね。
磯部:先程も言ったように、もともとのワカンダの、内向きの政策はまさにトランプ時代のアメリカのアナロジーでもあります。それに対してキルモンガーがやろうとしたことはテロリズムのアナロジーであると同時に、世界の警察としてのアメリカのアナロジーというか。
田中:『シビル・ウォー』という映画はまさにアメリカ国内の分断、内戦状態を描いた作品なんだけど、映画の最後にキャプテン・アメリカが「何か困ったことがあったら、いつでも呼んでくれ」と言って終わるんですね。これももちろん、世界の警察としてのアメリカのアナロジーですから。マーベル映画が得意とするところだな、と。
ブラック・コミュニティ内部の分断をどう描き、乗り越えるべきか?
宇野:そういう意味ではマーベルらしい作品なんですけど、『ブラックパンサー』の主人公がすごいのは家系だけで、そもそもそんなに強くない。なおかつ、最後は自分たちの持っている資源をシェアしよう、という形で終わるじゃないですか。それはマーベルの新局面だと思います。
田中:なるほど。それもおっしゃる通りですね。
宇野:登場人物で言ったら、主人公のティ・チャラよりオコエの方がよっぽど強い。あいつがハーブを飲んで、スーツを着たら最強なんじゃないか、と思うんですけど(笑)。もちろんここは女性のエンパワーメントの話とも関係していますが。
渡辺:そうですね。
宇野:とにかく、これまでのマーベルって、超すごい奴の話だったんですよね。でも、すごい奴、すごい奴でインフレしてしまって、最終的には、ハルクを出したら勝負が決まっちゃうから『シビル・ウォー』には出せない、みたいな状況になってしまった。『少年ジャンプ』とかでもよくあるパターンですけど。
田中:だからこそ、マーベル映画全体で難しい局面に来ていた、と。
宇野:でも、今回の主人公はそんなに特別な存在じゃない。それは同じディズニー作品である『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』(2017年)が、ジェダイであることは特別ではないと示して、ジェダイ神話を破壊したのと近い感じがします。だから、ディズニーはちゃんと時代を読むなと思いますね。今は、大富豪や肉体的に強いだけの奴にみんなが憧れなくなってきているから。
田中:主人公の設定という点では、『クリード』の設定を引き継ぐものでもある。ある程度裕福なブラックを主人公に据えた、という意味で。
宇野:『ゲット・アウト』もそうですよね。
田中:そう。だから、『ブラックパンサー』は、キルモンガーみたいな虐げられてきた立場の人物を主人公にするよりも、ある程度は満たされた人物を軸に置かないと今の全体が描けない、ということには意識的だったと思います。
磯部:「満たされた」ひとと「虐げられてきた」ひとの齟齬という話だと、リル・ウェインがブラック・ライヴス・マターに対して「つながりを感じない。オレはヤング・ブラック・リッチ・マザーファッカーだからだ」と言って炎上したことがありましたよね。
渡辺:でも、それは絶対に本心じゃないですよ! リル・ウェインはニュー・オリンズのゲットーの出身ですし。
田中:まさに渡辺さんがおっしゃる通りだと思うんですが、ただ本物のゲットーで育つと、民族運動があまりに前景化しすぎると、そこから距離を置きたくなってしまう、というメカニズムはあると思いますよ。
渡辺:もちろんそれはそうです。私はアトランタに行くことがあるんですけど、そこで感じるのは、本当にヤバそうな奴にとっては、人種問題や警察の問題って、「お前らが今さら言うなよ」っていうことなんですよね。彼らは生きているうえで当たり前にあったことだから。そういう意味で、俺は距離を置きたいとか、俺は肩入れできない、って言っているだけであって。根底では同じ問題意識を抱えていると思っています。
磯部:もちろんそうですし、実際、リル・ウェインは謝罪したわけですが、価値観が多様になるというのも成熟のひとつの在り方だと思うので、僕としてはこのエピソードを肯定的にも捉えられないだろうかと考えてしまうんですよね。
田中:今のお話に関しては、『ブラックパンサー』と『アメリカン・クライム・ストーリー / O・J・シンプソン事件』の二つを比較すると非常に示唆的だと思います。O・J・シンプソンというのは、まさにリル・ウェインが言うところの「ブラック・リッチ・マザーファッカー」なわけで。そして、『アメリカン・クライム・ストーリー / O・J・シンプソン事件』は、彼を中心にしてブラック・コミュニティがともすれば分断してしまう可能性をテーマに描いている。
磯部:それと『ブラックパンサー』はどう繋がるんでしょうか?
田中:まず『ブラックパンサー』の主役ティ・チャラの叔父の設定というのは映画の中で最初の問題提起の役割を持っていると思うんですね。自らのコミュニティを守るのか、それともコミュニティの外側にいる人々のことも思いやるのか。で、彼は後者を選んで、コミュニティを裏切り、悲惨な末路を辿る。ここがすべての物語の起点ですよね。で、彼を演じているスターリング・K・ブラウンは『アメリカン・クライム・ストーリー / O・J・シンプソン事件』では主役を務めているんですよ。しかも、偶然なのか、クーグラーが意識的にやったのか、それぞれの作品において、スターリング・K・ブラウンの役柄が置かれている立場がほぼ同じなんです。
田中:どちらの役も根底にはここ数十年間のアフリカン・アメリカンの虐げられた立場に対する怒りを抱えている。と同時に、ブラック・コミュニティを離れて成功し、白人社会に同化しようとした人たちにも嫌悪感を抱いている。ところが、そういったキャラクターが自分なりの倫理を貫き、正しい行いをしようとしたら、白人側にも利用され、結果的にコミュニティから弾き出されてしまうという設定なんですね。とても悲劇的なんです。このシンクロは意識的なものなんじゃないか。つまり、クーグラーはアフロ・アメリカンの問題を扱った過去の作品を引用することで、歴史や大系を観客に見せようとしている。
磯部:例えば、『ブラックパンサー』のコミックの脚本を手掛けたこともあるタナハシ・コーツは、現在、最も影響力のあるアフリカン・アメリカンの言論人ですが、彼は著作『世界と僕のあいだに』で、親から子へと歴史を語り継ぐ形式を取った上で、「黒人の定義とは白人ではないことだ」「白人の定義とは黒人ではないことだ」と、「黒人」という概念を相対化していくようなことを言っているんですよね。そういうひとがコミック版の『ブラックパンサー』に関わっているのは興味深いなと思います。
田中:しかも、タナハシ・コーツはクーグラーの次回作『Wrong Answer』の脚本を務めているんですよね。クリードやキルモンガーを演じたマイケル・B・ジョーダンが主役を演じることになっているんだけど。そういう風に見ていくと、やはりコミュニティ全体が大系として作品とメッセージを積み重ね、それを進化させていこうという意志を感じますね。
磯部:では、他にブラック・コミュニティの多様化という点で、重要だと思うドラマや映画はありますか?
田中:まずは『エンパイア』じゃないですかね。特にあそこでのブラック・ライヴス・マターの描き方。
田中:あのドラマのモチーフは『リア王』なんですよ。リア王が三人の息子たちに、自分自身の役割と目的、資産をどう受け継がせていくか、という物語を引用してるんですね。でも、その三人が反目し合い、上手く行かない。三人の中にはゲイもいれば、ギャングスタもいる。それはつまり、下手したら分断しかねない今のブラック・コミュニティの危うさのアナロジーだと思うんですよ。
渡辺:ええ。
田中:主人公の父親はラッパーで、おそらくジェイ・Zやカニエ・ウェストがモデルになっている。その主人公は成功し、貧困から脱出し、白人社会に同化出来る可能性があるところまで手が届く。でも、彼は家庭内のゴタゴタのせいもあって刑務所に入ってしまう。で、タラジ・P・ヘンソンが演じている彼の妻が、刑務所から出てきた彼のラッパーとしてのプロップスを今一度押し上げるためにブラック・ライヴス・マターを利用する、という描き方なんですよ。ブラックの監督がブラック・コミュニティについて描いて、敢えてそういう批評的なアングルを入れた。それは監督のリー・ダニエルズの凄いところだと思います。もちろん、彼がゲイの黒人だという特殊なアイデンティティであることも関係してるとは思うんですが。
小林:『エンパイア』で面白いのは、2015年のドラマなのに、「インターネットが音楽を破壊した」って最初の方で言っているんですよね。でも、それって、ミックステープが注目される直前の2001~2年くらいの話じゃないですか。だから、この作品ではリアルよりもドラマの方に加担していくのかなと思っていると、今度は急に最近のブラック・ライヴス・マターの話になってしまう(笑)。
田中:そうなんですよ。だから、作品としては結構デタラメなんですけど(笑)。
小林:田中さんのリア王の話に繋げると、『ブラックパンサー』にも、ギリシャ悲劇的な埋葬の問題とか、細かく見ていくといろんな要素があるんですよね。スパイク・リーの『シャイラク』(2015年)にも、やっぱり『エンパイア』みたいにギリシャ悲劇や戯曲をどうやって扱うか、という視点があった。
磯部:『シャイラク』は、シカゴのサウス・サイドを舞台にした映画ですよね。サウス・サイドはトランプとヒラリーのテレビ討論会でも話題に上った、アメリカでいちばん危険と言われる地域。イラク戦争よりもギャングの抗争でひとが死んでいるということで、シカゴの愛称「シャイタウン」+「イラク」で「シャイラク」と呼ばれるようになった。近年はラップ・ミュージックの聖地としても知られているわけですが、スパイク・リーはそこをシリアスにではなくコメディ調で描いた。それで、シカゴ出身のチャンス・ザ・ラッパーが「部外者がシカゴを搾取している」と批判した。
小林:そう。でも、スパイク・リーは、悲劇や戯曲のモチーフをいかにも取ってつけた感じでやってしまったのがよくなかったんでしょうね。他の監督の場合は、よく見たらそうなっている、くらいの使い方ですから。その点、『エンパイア』や『ブラックパンサー』は上手かったんだと思います。
リアリズムの「次」に求められるものは何か?
磯部:小林さんは、これまでの当事者性やリアリズムの話を踏まえて、ここ最近の映画やドラマについて思うことはありますか?
小林:今は世界的な映画の流れとして、クロス・ジャンルみたいな試みが流行っているんですね。クロス・ジャンル自体は、特に新しいわけではないですけど。例えば『ゲット・アウト』は、見えないところでクロス・ジャンルの試みがしっかりと出来ていると思います。
田中:いわゆるリアリズム映画とは違う流れがまた再び浮上している、ということですね。
小林:そうですね。やや小さめな規模の映画や、映画祭で賞を取った後に流行るような流れとしては、そういうのがあります。クロス・ジャンルの前にはスロー・ムーヴィっていう流れがありましたけど。で、クロス・ジャンルっていう時代の流れが、『ブラックパンサー』みたいな大規模な映画にも入ってきているのを感じました。まあ、『ブラックパンサー』の場合はつぎはぎ感があって、ギクシャクしているところがあるんですけど(笑)。
磯部:リアリズムに関しては、『アトランタ』についてもう少し話を聞きたいです。
田中:そうですね。やはり『アトランタ』は今を語る上での最重要作品のひとつですし。
磯部:あれって、ドナルド・グローバー演じるアーンにしても、従兄弟のペーパー・ボーイにしてもステレオタイプではないキャラクターを描いているようで、作品としてリアルなのかというとちょっと不思議な感じもあるじゃないですか。
渡辺:我々にとって何が面白いのか全然わからないところとか、ありますよね(笑)。
小林:それがインディ映画ノリっぽいところなんじゃないですか。
磯部:黒人文化が大好きな白人が主催するパーティに出席した際、アーンが「文化的盗用だ」という感じで怒るシーンも、その筋書きだけ説明すると当事者による抗議、みたいに思えますけど、その時、アーンはめちゃくちゃ泥酔している。出てくるキャラクターがみんなちょっとおかしい感じがありますよね。
田中:目に見えない透明の車が爆走して人をひき殺していくシーンとか(笑)。
渡辺:マジ最高です。スナチャをやりながら、なぜかみんなでネリーを合唱とか(笑)。
小林:リアルな黒人を見てくれというわりには、「リアル」っていう頭では作っていないんですよね。シュールリアルな場面がやけに多い。
磯部:「リアルな黒人」という価値観をステレオタイプとして皮肉っている感じもします。
田中:ジャンルとしても特定出来ないし、トーン&マナーも掴みきれない作品で。間違いなくメッセージ性はあるんだけど、それもどう解釈していいのかわからないところがある。笑っていいのかどうかさえもわからない不思議なトーン。あれは何を表象しているんだと思いますか?
宇野:僕が一つ思うのは、『ゲーム・オブ・スローンズ』とかが象徴的ですけど、ドラマの製作費も完成度も高くなりきっちゃったところがあるんですよね。いい脚本と分かりやすい演出、という意味では。
宇野:その後の刺激として『アトランタ』が存在すると思いますね。
磯部:「ズラし」みたいなものでしょうか。
宇野:ええ。『ボージャック・ホースマン』(2014年)とか、ヴァンパイア・ウィークエンドのエズラがやった『ネオヨキオ』もそうですけど。特にアニメ表現でシュールなものが同じ時期に幾つか出てきた。その背景にあるのは、もうウェルメイドなものはわかった、っていう感覚だと思うんです。
田中:なるほど。
宇野:あと、向こうではみんなハッパを吸いながら観てるからね(笑)。そういうのは大きいんじゃないですか。アメリカではマリファナの合法化がどんどん進んでいて、アカデミー賞でも延々とハッパネタをやっていたくらいですし。
磯部:「ネットフリックス・アンド・チル」なんてスラングがあるくらいですもんね。
宇野:そういうことを言うと、多くの日本人は「なんだよ、マリファナかよ」って引いちゃうかもしれないけど、そういう背景も確実にあると思う。
磯部:これはまさに当事者性の問題として、何度も実際のアトランタに行っている渡辺さんに伺いたいのですが、アトランタの人たちは『アトランタ』をどう観ているのでしょうか?
渡辺:私が聞いた範囲では、ポジティヴな反応が多いですね。「ローカルな話題を上手く盛り込んでるよ。マジ、こういうことあるよね!」みたいな。シーズン2のエピソード1でも、アーンがペーパー・ボーイに「昨日の夜、エッジウッド行った?」って訊くシーンがあるんですけど、エッジウッドって渋谷の円山町みたいなところなんですよ。そういうのを聞いて、「ああ~、わかるー!」みたいな。
磯部:「あるある」なんですね。
田中:実際、『アトランタ』は作品として飛び抜けていると思うんですよ。他の映画やドラマは社会状況を反映しようとするが故に、どうしても図式的にならざるを得ないところがある。当事者性の問題を見誤ってしまうと、誰も喜ばない作品になってしまうし、開かれた表現を目指すと、『ブラックパンサー』のように優等生的な中庸さに着地せざるをえない。でも、『アトランタ』の場合、当事者性やメッセージ性を担保しながら、外部にも開かれた表現になっているし、映像表現やトーン&マナーの部分でも新しいものを見せるんだ、っていう意識がある。
宇野:物語という意味では、映画をひっくるめても飛び抜けてますよね。『ブラックパンサー』よりも全然先に行っていますから。『ブラックパンサー』はみんながわかるものにそれを落としていく感じで。
田中:最大公約数を役割としてやろうとした映画だから、そこは本当に素晴らしいんだけど。
宇野:『アトランタ』の表現は、30分の1話完結というドラマのフォーマットだから許されたものでもありますよね。そういう意味では、ドラマというフォーマットがその優位性を発揮した作品だと思います。
磯部:しかも、『アトランタ』のメインの監督は、東京生まれロサンゼルス育ちのヒロ・ムライというアジア系ですからね。そこにも捻りがある。
現在の黒人ドラマ再ブームに火をつけた作品は何か?
磯部:これまで話題に挙がったもの以外にも、言及しておくべき重要な作品はありますか?
渡辺:『エンパイア』のヒットの前に、『ブラック・イッシュ(Black-ish)』(2014年)っていうドラマが始まったんです。あれが黒人ドラマの再ブームの火付け役になったと思います。
田中:ぜひ詳しく教えて下さい。
渡辺:中流以上の黒人の家庭が舞台で、お父さんが親世代と一緒になって、「今のアメリカにおける黒人性とは何か?」というのを子供たちに教えていくっていう、ドタバタコメディなんですよ。例えば、息子が学校の発表会でカニエ・ウェストの“ゴールド・ディガー”をラップするシーンがあって、そこでNワードを言ってしまうんですね。それに対してお父さんがどう怒るか? とか。そういうのがテーマになっているドラマ作品で。
磯部:いま画像検索をしてみたのですが、絵面はスタンダードなコメディという感じなんですね。ただ、アクチュアルな問題を扱っていると。
渡辺:そのドラマで、ダイアナ・ロスの娘でもあるトレイシー・エリス・ロスがエミー賞を取ったんですが、今や彼女はエンタメ界で発言力のある女性になっています。ゴールデン・グローブ賞でのタイムズ・アップの中心的なメンバーでもあったんですよ。
田中:ええ。
渡辺:そういった彼女の功績や評価が、『エンパイア』のタラジ・P・ヘンソンとか、『殺人を無罪にする方法(How to Get Away with Murder)』(2014年)のヴィオラ・デイヴィスが評価される流れに繋がっているんじゃないかと思います。だから、とても重要ですね。ヴィオラは黒人女性で初めてトニー賞、エミー賞、アカデミー賞の三冠を受賞した女優にもなりましたし。
小林:『殺人を無罪にする方法』の前には、『スキャンダル 託された秘密』(2012年)のケリー・ワシントンがいて、という流れもありますね。それが繋がっている感じはあります。
日本人がブラック・コミュニティの映画を観る意義はどこにあるのか?
磯部:それしても、改めて考えてみると、このように日本人だけが集まってブラック・コミュニティについて議論しているというのも、奇妙と言えば奇妙じゃないですか。
渡辺:ええ(笑)。
田中:まさに(笑)。
磯部:『アトランタ』のネタになりそうですよね(笑)。もちろん、日本にだって外国人市民もいればミックスのひともいるので一概には言えないわけですけど、日本人がブラック・コミュニティをテーマにした作品に触れる意義についてはどのように考えていますか?
宇野:これまで日本人は、白人の映画をずっと観てきたわけじゃないですか。トム・クルーズの映画とか、ジョニー・デップの映画とか。あれは白人的な価値観をベースに作られていて、それにみんな憧れていた。だから、ブラック・コミュニティをテーマにした映画に関しても、憧れがベースになるんじゃないですかね。
磯部:戦後、長らく、日本の文化は白人文化からの影響が強かったですよね。
宇野:ただ、この間、オリコンがハリウッド・スターの人気ランキングを発表したら、恐ろしい結果になっていて。ジョニー・デップが1位、トム・クルーズが2位と、日本では10年以上前から白人スターが更新されていないことが露になってしまった(笑)。
田中:(笑)あれには参りました。
宇野:僕は昔、映画雑誌の〈Cut〉の編集をやっていたから実感としてわかるんですけど、ある時期から外国のスターを表紙にすると本が売れなくなったんですよ。どこかで白人スターに対する憧れが古き良きものになってしまった、ということだと思いますね。これは音楽でもそうだけど、そもそも海外文化への憧れがなくなってきている中で、ここから黒人スターへの憧れを立ち上げるのはかなり難しい話ではある。
渡辺:日本がドメスティック化しているというのは仰る通りです。でも、ブラックの作品に触れるのに憧れはいらないと思います。例えば、私は『インセキュア』は日本でもアラサーの、同世代の女の子に観てほしいなと思うんですね。それは憧れとかとは別の観点から楽しめると思うんですよ。
小林:導入としてはいいですよね。
田中:自分自身をサンプルにして話すとするなら、僕自身は日本よりもアメリカや欧州のカルチャーを興味を持ってきたわけです。もちろん、その一番の理由は文化的にアメリカに植民地化されてきた世代だからなんですけど(笑)。ただ、そこにどういうメカニズムが働いていたかというと、『スタートレック:ディスカバリー』(2017年)のテーマを引用すれば、「自分を知るための最良の方法は、他者を深く知ることなんだ」ってことなんです。自分とは違うカルチャーに触れた時に、その差異からようやく自分のカルチャー、強いては自分自身のことが見えてくる。自分自身はそういうメカニズムで海外のカルチャーを享受してきたと思うんです。
渡辺:わかります。
田中:やはり今、世界中で起こっている分断の問題はすごく大きいと思うんです。政治的な分断だけではなく、興味や関心の分断ですね。特に今の日本の一般層における異文化に対する無理解以前に興味のなさって、本当に深刻だと思うんです。実際、ここで話されているような文脈で『ブラックパンサー』を観ている人たちも日本全体から見れば、ごく一部なんじゃないか。SNS以降、それぞれの視界が狭まって、すっかりエコーチェンバー化してしまっている。だから、緩やかで大きなコミュニティが生まれるのがすごく難しくなってる。誰もがそれぞれの立場と正義を感情的に主張するばかりで、無駄に亀裂を生んでいたりだとか。それはフランスでもイタリアでもイギリスでもアメリカでも起こっているし、おそらくアフリカでも起こっている。『ブラックパンサー』のテーマのひとつもまさにそこにあるわけですよね。じゃあ、日本では何が起こっているのか?――そういうことを考えるためにも、『ブラックパンサー』にしろ『アトランタ』にしろ、今のブラック・コミュニティをテーマにした作品はすごく重要なんじゃないか。
宇野:でも、タナソウさんが言っていることは正しいけど、理想論だよね。
田中:まあ、その通りかもね(笑)。わかります。
宇野:他者との差異で自分たち、日本の問題を考えるという点では、韓国について考えてもいいと思うんですよね。『ブラックパンサー』では、釜山が重要な場所として出て来るじゃないですか。あれは過去のマーベル作品でのソウル・ロケからの流れもあるし、釜山のフィルム・コミッションが熱心だということでもあるんですけど。
宇野:で、この間もミーゴスは日本公演をキャンセルしたけど、韓国では大きなフェスでライヴをやってメチャクチャ盛り上がっていた。『ブラックパンサー』も釜山のシーンになった瞬間、韓国のラップがかかるじゃないですか。
渡辺:あれはスヌープ・ドッグをフィーチャーしたPSYの曲“ハングオーヴァー”ですね。
宇野:あ、そうなんだ(笑)。とにかく、韓国では黒人のラッパーのライヴにあれだけ客が集まって、ラップと韓国のメインストリームとの親和性も高いわけですよ。どうして韓国と日本でこんなに違うのか? っていうのは考えてもいいテーマだと僕は思います。もちろん、ひとつには、韓国人の方が日本人より英語力が高いっていうのはありますけど。
磯部:BTSもいまアメリカであれだけ人気になっている。ライヴの様子を見ても、最前列できゃーきゃー言っている女の子はアジア系だけじゃなくて色々な人種がいますよね。あるいは、K-POPはセクシーだと思われていなかったアジア系男性のイメージを変えたかもしれない。
渡辺:私が『ブラックパンサー』を一緒に観に行った子とも、「釜山のシーン、すごかったね」っていう話になったんですけよ。で、「黒人のヒーローがこれだけ大きな規模で出てきたから、次はエイジアンのヒーローを期待したい」って私が言ったら、「それは間違いなく韓国人になるだろうね」って。
田中:間違いないですね(笑)。
宇野:日本も1億2千万人以上の人口がいるからってことで、今後も国内マーケットだけでやっていけるのなら話は別なんですよ。でも、これから人口は減っていって、特に若者人口は急激に減っているわけだから。10年後、20年後、エンタテイメントに関わる人は海外に出なくちゃ食えなくなりますよ。それこそ、ワカンダみたいに鎖国してやっていけるんだったらいいですけど、それは無理なので。
渡辺:もう明白ですよね。
宇野:だったら、早く海外に目を向けるべきだと思いますけどね。だから、ワカンダは日本のアナロジーにもなるわけですよ。
田中:まさにその通りだと思います。
宇野:『ブラックパンサー』のストーリーの中で、「ワカンダはこんなに技術力があるけど、他の国の技術も上がってきているし、いつか追いつかれるんだから、遅かれ早かれ国を開かなきゃいかないんだ」っていう下りがありますよね。あれは、本当に日本のことを言っているみたい。というか、日本は既に追いつかれちゃったから、時期を逸したんですけど。20年くらい前の日本の話ですよ。技術だけは世界一進んでいたんだから、本当は追いつかれる前にもっと開くべきだった。
磯部:ところが、今や『下町ボブスレー』になってしまった。
宇野:ここは渡辺さんとは意見が対立するところですけど、僕はやっぱり憧れの原動力に頼るしかないと思っているんですよ。で、『ブラックパンサー』を中学生や高校生で観た子にとっては、あれがかっこいい、っていう感覚が植えつけられるわけだから、長い目で見れば変わってくるとは思うんですよ。時間はかかるだろうけど。
磯部:アメリカでも『ブラックパンサー』は画期的だったくらいですからね。
海外の優れた作品を支える引用文化が、なぜ日本には存在しないのか?
渡辺:私がなぜブラック・コミュニティの音楽や映像作品に傾倒するかというと、タフな女性が描かれていて、こちらをエンパワーメント、エンカレッジしてくれるような描き方をしているところなんですよね。『エンパイア』にしろ『インセキュア』にしろ、女性がタフに描かれるじゃないですか。
磯部:『ブラックパンサー』でも、主人公は常に女性に助けられますね。
田中:実際、『ブラックパンサー』に出てくるメインの3人の女性は全員キャラクターもスタンスも違っていながら、明確に自分自身を持っていて、すごくチャーミングなんですよね。言ってしまえば、ブラックパンサーがお坊ちゃんのへたれキャラとして描かれているのと対照的で。しかも、ブラックパンサーもキルモンガーも父親の不在に常に振りまわされてる。いまだ自立していないんです。
渡辺:ラボのシーンがありますけど、あそこの研究員が全員女性なんですよね。「女性が先導していかないと、この国、成り立たないじゃん!」みたいな感じで。
磯部:最近だと『ドリーム』(2016年)もそういう作品ですよね。
渡辺:そうですね。でも、日本の映像作品は、女の子が強く立ち上がるものが少ない気がして。だから、『インセキュア』とか『ドリーム』を観て、女の子が元気をもらうような側面もクローズアップされるといいなと思っていますね。
小林:そこはセリフの問題もありますね。『インセキュア』とかと較べて、そもそも脚本の段階で、日本ではどこまで出来るかな、というのはあると思います。
渡辺:そうですね。『インセキュア』では、「明日、出会い系アプリで知り合った人とデートするから、今からヴァジャイナ(女性器)のサロンに行ってくる」っていう下りがあって。すげぇ! って思いますよね(笑)。
田中:(笑)。
小林:そういう会話は、日本でも日常会話として存在すると思うんですよ。でも、ドラマには持ち込まれない。
渡辺:日本だとマッチング・アプリまでしか描かれないでしょうね。
磯部:ドラマが現実に追いついていない。先日、マッチング・アプリをきっかけとした殺人が話題になりましたけど、多くのひとはそういうアプリがあるってことをドラマではなくニュースで知るわけじゃないですか。アメリカだったら早々にネタになっているところを、日本はいまだにLINEを扱えば現代風、みたいな感じで。
田中:日本の場合、それ以外にも、引用の文化もないじゃないですか。海外の映画にしても音楽にしても過去の作品や異ジャンル作品の引用だらけですよね。「それがわからなくても楽しいけど、わかるとさらに楽しい」っていう作りになっている。でも、そのカルチャー自体が日本にはほぼないから。
宇野:ないと言ったら言い過ぎですけど、やっている人は限られていますよね。ただ、『ブラックパンサー』の場合は、引用がトゥーマッチですけど(笑)。
田中:(笑)だからこそ、何度も何度も見直したりすることが出来る作品だと思うんですよね。
小林:観た直後に、ツイートしてしまったことなのですが、観ながら、何度となく去来したのが、アーシュラ・K・ル・グィンの短編『オメラスから歩み去る人々』の読後感、というか、問題提起でした。
田中:コミュニティを存続させるために特定の個人が犠牲になる、という。
宇野:でも、そういった作品同士の関連性というのがヒップホップ的とも言える。
渡辺:ディグりたくなりますよね。
宇野:『ブラックパンサー』は、そういった映画の特性とヒップホップの特性が近いところにあるということを証明した作品でもあると思います。
田中:この作品を見ると同時に、「カルチャー全体の体系を見る」っていう楽しみ方が出来ますよね。
渡辺:引用の話で言うと、『アトランタ』にしろ『インセキュア』にしろ、ラップ・ミュージックのナラティヴ性を際立たせているじゃないですか。『アトランタ』のシーズン1の一番最後も、アウトキャストの“エレヴェーター”が使われていて、あのリリックがアーンの心情に重ねられる。そういうのをアメリカ人はナチュラルに楽しんでいると思うんですけど、日本のドラマでそういうのはあるんですかね?
田中:いや、ないでしょう。
宇野:坂元裕二はめちゃくちゃ引用しまくっていますよ。向田邦子から山田太一から。
田中:でも、ポップ・ソングの引用はないでしょ?
磯部:ある人が言っていたのは、『リバーズ・エッジ』(2018年)をアメリカで撮ったとしたら、90年代音楽映画として本編で当時の音楽をばんばん使ったんじゃないかと。でも、実際はセリフにアーティストの名前が少し出てくるぐらいで、エンディングの小沢健二まで音楽はほとんど鳴らない。
宇野:でも、それはお金がかかるっていう問題もあるんですよ。車を揃えることさえ出来ないんだから。
田中:というのは?
宇野:あれは川崎で撮ってるけど、人物シーンの背景の多くがソフト・フォーカスなんです。それは何故かと言うと、まず撮影のために道を封鎖できない、それに90年代の車も用意できない、それで仕方なくプリウスとかヴィッツとかが走る中で撮らざるを得ない。でも、今の車が映ると時代背景が違うことがバレる。だから、そこはわりと単純にバジェットの問題。
渡辺:そういう問題も絡んでいるんだとしたら、主人公の気持ちを後ろでかかっている音楽で代弁するなんて、かなり難しいですね。私はそういうのも楽しくて、海外のドラマや映画を見ているんですけど。
田中:わかります。今の海外ドラマを見ていると、『ストレンジャー・シングス』(2017年)にしろ、ポップ・ソングの使い方があまりに洒落が効いている。
磯部:『13の理由』(2017年)とか。
田中:例えば、クーグラー作品を例にとっても、『クリード』はフィラデルフィアが舞台ですよね。『ロッキー』と同じく。だからこそ、『クリード』にはミーク・ミルとか、フィラデルフィア出身のラッパーの音楽がたくさん使われている。
渡辺:そうです。
田中:で、『クリード』の中で、早朝にロッキー・バルボアがクリードを叩き起こす時に、(ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツの)“ウェイク・アップ・エヴリバディ”って曲をかけるんですよ。要は「起きろ」ってことなんだけど(笑)。でも、実はその曲というのは山下達郎さんも大好きなケニー・ギャンブル&レオン・ハフがプロデュースした70年代のフィリー・ソウルの名曲なんです。と同時に、黒人コミュニティの意識向上を歌った社会的なコンテキストを持った曲でもあって。でも、ラップ世代のクリードには意味がわかんなくて、怪訝な顔をするっていう。
磯部:それが物語の中の「継承」というテーマ、コミュニティの歴史みたいなものにも関わってくるわけですよね。
宇野:映像も引用だらけですしね。引用というものが映像文化を支えているんですよ。ドラマも映画も。例えば、『ブラックパンサー』の脚本にも少し参加していたドナルド・グローバーは、『アトランタ』の主演/脚本を務めていて、『スパイダーマン』にはちょい役で出ているんですけど――。
田中:『スパイダーマン』には、ほぼ『アトランタ』での役のまんま出ているんだよね。そういうキャスティングでの引用も、海外の映画やドラマは本当に上手い。
渡辺:まあ、『スパイダーマン』での役は、『アトランタ』よりもちょっとチンピラ臭が濃かったですけどね(笑)。
田中:やっぱり『ブラックパンサー』のキャスティングはホント巧みですよ。長老役を演じているフォレスト・ウィテカーは『DOPE/ドープ!!』(2015年)をプロデュースした人でもあって。『DOPE/ドープ!!』は、白人に憧れている黒人を、白いクリームが黒いビスケットに挟まれた「オレオ」と表現していて、中途半端なアイデンティティを持った若いブラックを描こうとしていた。で、『ブラックパンサー』での彼の役柄も、二つの立場の間で翻弄される役柄だったり。
渡辺:それに、フォレスト・ウィテカーはブラック・ハリウッドの長老的な人物だからこそ長老役に置いた、というところもありますよね。
田中:そうですそうです。そんな風にカルチャーの体系全体を意識した作りになってるんですよね。
宇野:そういうものを楽しむコードみたいなものが、映画マニアだけじゃなく、90年代頭からラップ漬けになっているアメリカ人には染みているんだと思うんですよ。でも、日本人は何からの引用もない、ぼんやりとした鼻歌みたいなJ-POPをずっと聴いてきたから、引用を楽しむっていう感覚がない。そう思うと切なくなりますけどね。
磯部:引用と言えば「渋谷系」「90年代」みたいなよくわからない整理のされ方になってしまうんですよね。
宇野:そう! 音楽なんて全然そこから続いてるのに、日本では何故かサンプリング文化みたいなところで止まってしまってる。特にネットの書き込みとかに顕著だけど、みんなパクリと言って鬼の首を取ったような気になってる、そのレベルの低さにびっくりしますよね。
田中:剽窃と引用はまったく別物なんですけどね。
『ブラックパンサー』以降のマーベルは、何を描くことになるのか?
磯部:今回のヒットを受けて、やはり、『ブラックパンサー』の続編もつくられることになるのでしょうか?
宇野:正式発表はまだですけど、もちろん作られるでしょう。ケンドリック・ラマーも『ブラックパンサー2』では音楽だけじゃなくて自分も出たいと言ってます(笑)。
渡辺:ブラックパンサーというキャラクターは、まず2018年4月公開の『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』に登場することになるんですよね。
磯部:そこまでは既に予告されていますもんね。
小林:でも、『ブラックパンサー』の続編が作られるとしたら、ストーリーをどうするんですかね? また話を戻さないと。
田中:たぶん、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』とその次の『アベンジャーズ4』で、これまでの世界観が一段落するんだと思いますよ。
宇野:そう。フェーズ3の最後に、多分アイアンマンが引退するんですよ。アイアンマンに限らず、フェーズ1からヒーローを演じてる役者はもうみんな歳を取ってきてますからね。その後、ブラックパンサーが中心的な存在になっていくのは間違いないでしょう。
田中:2019年に公開される予定の『キャプテン・マーベル』の主人公は、DC映画のスーパーマンみたいなあまりに強すぎてドラマの中で使うのに困ってしまうような設定の、もともとミズ・マーベルって呼ばれていた女性キャラクターで。原作だともう何代目かなんですが、最近のシリーズだとムスリマのティーンエイジャーなんです。その設定だけで「やっぱりマーベルやるな!」って感じなんですけど(笑)。ただ、映画では白人女性、最初の舞台が90年代らしいんです。で、90年代からフェーズ3までの現在に至るまで、ずっと世界のどこかに隠れていた、ということになってるらしく。つまり、今回の『ブラックパンサー』の舞台とまったく同じタイムラインを生きていた、と。だから、これからのマーベル作品で個々のキャラクターが再び絡み出した時に、女性とブラックというそれぞれの立場がどういう役割を演じることになるのか、すごく楽しみなんです。
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