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12 #海外ドラマは嘘をつかない

なぜテレビは「差別表現」のルールを作れない?"代表"なくして視聴なし 後編

DIGITAL CULTURE
ライター塚本 紺
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本記事は「エンタメの政治「代表なくして視聴なし」の後編となっている。前編を読んでいない方はそちらを先に読んでほしい

「女性やマイノリティのレプリゼンテーション改善」と聞くと「はいはい、またポリコレね」「何でもかんでも差別なんでしょ」と嫌気が差してしまう人もいるかもしれない。

日本のテレビ番組で差別表現が炎上するたびに、オンライン上で「これは差別だ!」→「いや、差別の意図はない!」→「社会の強者が差別を定義するな!」→「何でも差別認定するな!」というやりとりが繰り返されるのを私たちは見てきた。この繰り返しを見るたびに、分断の溝が深くなっていくような感覚を覚える人も多いだろう。

間違えてはいけない。差別や偏見を招いてしまう危険な表現が放送されれば、それを批判をしなければならない。一方で、その境界線を引くことが難しい表現も当然出てくるわけだ。

台湾系アメリカ人監督による『ベター・ラック・トゥモロー』

レプリゼンテーションといっても、ポジティブに描けばいいという単純なものではない。台湾系アメリカ人のジャスティン・リンという映画監督をご存知だろうか。映画『ワイルド・スピード』シリーズを4本、そして『スター・トレック BEYOND』も監督したハリウッドの売れっ子だ。彼の出世作にサンダンス映画祭で公式上映された『ベター・ラック・トゥモロー』というのがある。

Video: Movieclips Trailer Vault/YouTube

名門大学を目指して高校で優秀な成績をおさめてきた真面目なアジア系アメリカ人の優等生たちが人生に退屈し、犯罪やドラッグ、銃に手を出す、という内容になっている。殺人や自殺も作中には登場するヘビーな映画だ。

この映画がアジア系アメリカ人のポジティブなレプリゼンテーションだったか、というと間違いなくNoだろう。加速度的に非倫理的になっていく登場人物たちは決してポジティブには描かれていない。しかしこの映画はアジア人コミュニティからも、映画コミュニティからも称賛された。そしてリンはアメリカ映画業界で成功を積み重ねていく。なぜ『ベター・ラック・トゥモロー』は歓迎されたのか。

ひとつは、これがそれまでのアジア系アメリカ人に貼りつけられていた「礼儀正しく勉強を頑張る、犯罪も犯さないモデル・マイノリティ」というステレオタイプを真っ向から破壊するものだったことが挙げられる。

もうひとつは、この作品がアジア系アメリカ人監督と役者たちによる、当事者がリアルを追求して制作したものだったからだ。物語も実際にあった殺人事件を基にしている。

皮肉なことに、サンダンス映画祭で上映されたとき、観客席にいた白人男性のひとりが「アジア系アメリカ人にとってよくない映画だ」として批判するという出来事が起きた。彼はこの映画には「中身がなく」、「アジア系アメリカ人にとって、そしてアメリカにとって非道徳的である」として、壇上にいるアジア人監督、アジア人キャストたちを大声で批判したのだ。

そんなとき、その場で立ちあがったのは、今は亡き映画評論の大御所Roger Ebertだった。Rogerは映画を批判した白人男性を真っ向から反論している。その様子を撮影した映像がYouTubeにアップされている。

Video: ianmalcm/YouTube

Movies.comによれば、彼の反論は次のようなものだ。

“私は今日、ネイティブ・アメリカンの監督であるChris Eyreとパネルに登壇した。彼は、アメリカのインディアンたちは長い間、特定の役割を映画において演じないといけなかったと言った。スピリチュアリティを提供する者であったり、知恵を授ける者であったり、木や風に話しかけたり、といった具合だ。そこで彼はネイティブ・アメリカ人たちがただ普通の人間であるような映画を作りたかったんだ。彼らだってアルコール中毒だったり、自警団員だったり、刑務所に入っていたりする。

あなたの発言は非常に失礼かつ人を見下した発言だと私は思う。なぜなら白人の監督に対しては誰も「こんな扱いをあなたの人種に対してするなんて!」と批判することは無いからだ。この映画はアジア系アメリカ人の物語である権利があるし、アジア系アメリカ人のキャラクターたちはどんなキャラクターになったって良いんだ。映画のキャラクターたちがアジア人の”代表”である義務はない”

この出来事に対する出演者のSung Kangのコメントも、アジア系アメリカ人たちが抱える白人中心のエンターテイメントに対する不満を端的に表わしている。

“この男(批判をしてきた白人男性)は、まるで我々(アジア人)がメディアでどう描かれるべきか、彼に決める権利があるというような態度だった”

この例が明らかにするように、正しいレプリゼンテーションの形というのはひとつではない。アメリカであれば白人が千差万別に描かれるように、日本であれば日本人が千差万別に描かれるように、マイノリティが求めるレプリゼンテーションも千差万別だ。

そう考えると、年末年始の日本でもテレビ番組における差別表現が話題になったが、これさえ守っていればOK、というルールブックを制定するのは難しいことがわかるだろう。男性、女性、黒人、在日韓国・朝鮮人、ゲイ、ひとつの属性を選んでも、そのなかで異なる意見を持っている人がたくさん存在するからだ。さらにひとりの人間は複数の属性を持っているのが常だ。

偏りを生む仕組み

ここで一旦、第一部で紹介した研究結果に戻りたい。この研究は、アメリカでテレビを見て自尊心が高まったのは白人の少年たちだけで、少女たちと有色人種の少年たちは逆に自尊心が下がっていた、というものだった。Martisがいうように、これはレプリゼンテーションの偏り・欠如が原因だろう。では、どうしてそもそもレプリゼンテーションには偏り・欠如が出てしまうのだろうか? この答えは単純明快で、レプリゼンテーションを決定する人々の属性に偏りがあるからだ。

監督やプロデューサー、脚本家、テレビ局や芸能事務所の重役、こういった立場の大部分を占めているのは、どんな国でもその国のマジョリティの男性だ。たとえば、アメリカなら白人、日本なら日本人の、異性愛者の男性となる。彼らによって、どんなドラマやバラエティ番組を作るか、どんなキャラクターが登場するか、何を笑えるネタとして放送するか、男性は/女性はどんな話し方をしてどんな服を着るか、ということが決定される。

勘違いしないよう付け加えるが、こうした地位にいる男性たちが悪意と差別意識に満ちた人間であるといいたいわけではない。しかし監督であれ脚本家であれ、芸人であれ、プロデューサーであれ「いいテレビドラマとは何か」「いいお笑いとは何か」を自分の人生経験から切り離して考えることはできない。その人生経験が(ほぼ)常に「男で、異性愛者で(女性は性的な恋愛対象)、その国の民族的マジョリティ」であることがコンテンツにおけるレプリゼンテーションに偏りをもたらしているのだろう。

そう考えると、第一部で紹介したテレビと自己肯定感に関する研究結果について、日本でも似たようなことがいえる可能性は高い。

カメラの後ろのダイバーシティ

そんななか、長年のレプリゼンテーションの偏りを是正するためにハリウッドが取り組んでいるのは「カメラの後ろのダイバーシティの改善」だ。カメラに映るレプリゼンテーションを改善するためには、カメラの後ろ側にいる監督やプロデューサー、脚本家といった、レプリゼンテーションを決定する立場の人間たち(そして現場のクルーたち)に女性やマイノリティを増やす必要がある。4大テレビネットワークをはじめ、HBOなどのケーブルテレビ局などは女性やマイノリティを対象とした脚本家、監督、プロデューサー向けのフェローシップ・プログラムを大々的に展開している。

Issa #Scandal! Photo cred: @nicholas_nardini

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彼女は「Disney | ABC 監督プログラム」出身のNzingha Stewartだ。女性、マイノリティのフィルムメーカーに雇用機会を与えるために、2001年このプログラムがローンチされた。彼女はその後『グレイズ・アナトミー』や『スキャンダル』といったABCの人気ドラマのエピソード監督を何度も務めている。

「カメラの後ろのダイバーシティ」が与える影響を想像するのは容易い。単純に、とある番組の主要制作スタッフ(監督やプロデューサー、脚本家、局の重役など)が全員男性だったとしよう。彼らによる「日本の視聴者はこれが見たいから、こういう物語を作ろう」という判断と、主要制作スタッフが男女半分半分の構成となっている場合の「日本の視聴者はこれが見たいから、こういう物語を作ろう」という判断には自然と大きな違いが生まれるだろう。

お笑い番組の制作ミーティングで「顔を黒く塗るけれど、これはリスペクトだから差別にはあたらないのではないか」と非黒人のみによって議論されるのと、日本で実際に黒人として生活している人物が主要な制作スタッフ(たとえば放送作家)として議論に参加するのとでは大きな違いが生まれるだろう。

それによって、性別や民族、性的指向や障がい、といった属性に関して「社会にどのようなレプリゼンテーションが出るか」という決定プロセスに当事者が関わることができる。

ポリティカル・コレクトネスによって「何もできなくなる」という危機感を持っているプロデューサーたちは多いだろう。とがったお笑いコンテンツや新感覚のドラマを作って視聴率を得たい、と思っていても「ポリティカル・コレクトネスに反している」「差別的だ」という批判を集めてしまうかもしれない、と考えるからだ。

だが、「カメラの後ろのダイバーシティ」はそういった彼らにとって、希望としてとらえられるべきなのだ。 女性やマイノリティといった当事者によってレプリゼンテーションが決定されることで、「差別ではない」という判断にも説得力が増すだろう。

また、画面のレプリゼンテーションが多様化することで、マジョリティ男性たちにとっても「知る機会」が増える。自分が持っていない属性に関して「ああこういうことに反発してるんだな」「こういう気持ちで生活してるんだな」という存在を画面で確認することで、それを見た才能ある芸人たちは「ポリコレ時代におけるとがった笑い」のラインを探りやすくなるだろう。民族、性的指向、健常者ステータスにおいて、社会の多数派が映像コンテンツにおける多数派であり続けることは変わらない。だからこそ、多数派に属するクリエーターたちがマイノリティのレプリゼンテーションに触れることは大事なのだ。

エンタメにおけるレプリゼンテーションは政治そのもの

アカデミー助演女優賞受賞者であり、ブラックパンサーにも出演しているLupita Nyong'oはABCのタレント発掘プログラム「ダイバーシティ・ショーケース」出身だ。

アメリカでますます顕著になりつつある「レプリゼンテーションの欠如や偏りを批判し、この部分で進歩的な作品を進んで応援する」という動き。これはテレビや映画が「面白ければいい」という次元を越えていることを示している。エンタメが私たちの自己肯定感や社会に対する帰属感に対して非常に大きな影響力を持っていることを、私たちは無意識に理解しているからだ。

テレビや映画は次の世代の子どもたちの自己肯定感や社会への帰属感に大きな影響を与える。どんな作品を批判して、どんな作品を応援するか、これはまさに「視聴」という投票行為を通した政治そのものではないだろうか。

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Image: Featureflash Photo Agency/Shutterstock
Source: Wikipedia, Roger Ebert, Movies.com, Huffington Post, Instagram, YouTube(1, 2

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