音楽を視覚的に聴くということはできるのだろうか。
それは、たとえばジャケットのアートワークやMVを見て楽しむとか、ライブの様子をひたすら動画にとって楽しむとかいうのではなく、単純に曲や音そのものが一種の情景として浮かびあがるということだ。私の場合は以前、とあるライブで夕日の沈む海岸のような場面を脳裏にはっきりと見た経験をしたことがある。
これはきっと同じライブに参加して、音楽を聴いていても、それをそのまま聴覚的に聴く人もいれば視覚的に聴く人もいるということなのだろう。おそらく本人が気づいてないだけで、人によって足を運ぶ感覚としては画廊とライブハウスの違いすらないのかもしれない。
私自身に関しては、視覚や聴覚において特殊な能力があるわけでもなく普通の感覚をしているので、そうした現象のおおもとは個人の感覚的な能力といった要素以外のところに存在していると思われる。こうした音楽を取り巻く背景にはいったい何があるのだろうか。少し考えてみたい。
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たとえば洋楽の場合、英語圏でない人やノンバイリンガルは必ず頭のどこかで歌詞をいったん訳す作業をしており、英語圏の人よりも頭で考えて聴いている。理解度ではなく態度としてだ。
なんとなくスルーで聞き流してノることは本来ならできないはずで、それなりに苦労してライナーノーツと向き合う時間が誰にだってあっただろう。でも結局プロの和訳を読んでも分からずに、本当にこの訳でいいのか、誰にも理解されないままに消費されることも多いのではないだろうか。
だからバンドの本人たちが思っているほどに、一部のファンを除いては聴衆は彼らのことを知らない。だから、たとえその国のライブで歓迎されたとしても、その国のファンに理解してもらえたとは限らないと思っておいたほうがいいのかもしれない。
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もしも世界中の人に等しく伝えたいことがあるなら、きっと音楽の手法は両極端になるだろう。
抽象にいくか、具象にいくか。純粋な音だけにするか、とても端的な歌詞にするか。
その間をさまよう音楽は、きっとどれも一種のアートのようなものだろう。だから今の時代、サウンドアートのほうがかなり心に伝わってきたりして、実はシグナルが音楽で、音楽だと思っていたほうがシグナルだったのかと突然思ったりする。これは静かなパラダイムシフトではないか。
非同期なもの(ただのノイズ)だと思っていた音と心の底でシンクしていたり、同期的(すごくバイブを感じるミュージック)だと思っていたものが根の深いところで実はシンクしていなかったりする。この感覚のズレのようなものが、現在じわじわと起こってきているのではないだろうか。
こうした感覚の線引きは、個人によって一人一人違う。ここは努力して理解しなくてはとか、ここは難なく受け入れられるとか。同じものを聴いていても、この人にとっての単なる音楽バイブが、違う人にとってはアート的な意味合いだったりする。その線引きが今の時代ほど幅広く揺れていたときはないから、それはある意味ですごく面白くもある。

人間はノイズである
Spotifyなどで仲良くフォローし合って、互いに趣味の合う音楽を聴き、好きなアーティストについて語り合う。そうした音楽との付き合い方が現代的には理想的かもしれないが、逆にいえば、それ以外の関わり合いの機会が数多く与えられているのではないか?
自分と趣味の合わない友達に連れられて行ったギグで、バイブは感じなくともアート的な何かを感じ取ることならできるかもしれない。それは、まったくの異国の地に住む楽器演奏者の曲に触れてみたり、自分の感性とズレがある不快な現代美術に触れたりという行為にも該当するような、不思議で貴重な感性の発見の機会である。
これからの時代は、音楽だけでなくノイズにも触れる機会をいかに増やすかということが大事なのかもしれない。
今年リリースされた坂本龍一のアルバムは、タイトルが『async』(非同期)という、このテーマへの問題提起とも感じられた。
「SN/M〔sound noise/music〕 比50%」というのが売り込みのキャッチフレーズだったが、musicが「同期するもの(きれいなメロディーを奏でる存在)」であるのに対してsound noiseというのが非同期な存在だといえる。そこには一定の流れではないズレや不調和があるということだと思うが、坂本龍一はテレビの対談でもこのように述べていた。
そもそも自分(人間という存在)がノイズである、ということを認めなければならない
不調和な音を恐れない感性を鍛える
ノイズに触れる機会は、何も大人だけが増やさないといけないわけでもない。
たとえば日本人のサウンドアーティスト、スズキユウリによる音と色をテーマにした作品『カラーチェイサー』がある。
ミニチュアの『カラーチェイサー』は、黒いマーカーで自由に描かれた線を追って進んでいき、黒い線にさまざまな色を足していくことで、その色をRGBデータで読み込んで音に置き換えていく。このオモチャ感覚のアートは、大人に限らず子どもにも親しまれている。
この動画のタイトルが『Looks Like Music』となっているように、もはやそこには感じるバイブとノイズの差すらないのかもしれない。ノイズをいろいろ自分で組み合わせることで、自分なりのカラフルなミュージックが生まれていく。
こうして、不調和な音を恐れないよう鍛えあげられた感性は、やがて自分と異質のもの(たとえば移民など)を含む社会を恐れない人格へと私たちを引っ張りあげてくれるかもしれない。それこそが、まさに現代に求められる音の楽しみ方、音楽の真の力ではないだろうか。
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